第16話 正面だけでは無理
【聖暦346年 晩秋/小隊長室】
外は、朝から冷たい風が吹いていた。晩秋も終わりに近づき、初雪の気配が、山の稜線にうっすらと白く現れ始めていた。冬支度を進める間もなく、こうして次の戦いへ向かわねばならないことに、誰も口には出さないが、疲労の色を隠せずにいた。
睡眠らしい睡眠を取れた者は、この場にほとんどいなかったが、それでも、誰も休みを口にしなかった。休むより先に決めなければならないことがあり、眠気よりも先に、答えを出すべき問いが積み上がっていた。
翌朝、小隊長室に、いつもより多くの顔が集まっていた。キルシュナー、クラウス、ロルフ、アンナ、フェリクス(担架のまま運び込まれていた)、そして二人の生存兵。狭い部屋に、これだけの人数が集まるのは珍しいことだった。
机の上には、昨夜までに整理された地図が広げられ、狼煙台の位置に、赤い印がついている。誰が付けたのかは分からなかったが、その色が意味するところは、部屋にいる全員に伝わっていた。
「まず、正面から人数を揃えて押す。それが一番早い」
最初に口を開いたのは、小隊の別の分隊長だった。数を揃えて押し返す、単純だが、これまでのやり方でもあり、地図の上に置かれた駒が、正面から狼煙台へ向かう矢印を描く。使い古された案であることは、誰の目にも明らかだった。
その案自体を、誰も真っ向から否定しなかった。もっとも分かりやすく、もっとも実績のある方法であり、だからこそ、それを覆すには、それなりの根拠が必要だった。
「あの大男がいるぞ」
ロルフが低く言った。狼煙台奪還戦で見た、盾ごと兵を弾き飛ばす姿が、まだ目の裏に残っているようだった。
「盾ごと兵を跳ね飛ばす、あいつだ。正面から人数だけ揃えても、崩されるのは早い」
「正面は、向こうも待っていると思う」
クラウスが続けた。断定ではなく、そう見えるという言い方だった。部屋の全員が、その口調の違いに気づいていたかどうかは分からないが、確信を持って言い切ることを避ける癖は、ここに来てからも変わっていなかった。
「一度落とした場所を、簡単に手放すはずがない。正面の備えは、むしろ厚くなっているはずだ」
別の分隊長が、腕を組みながら反論した。
「だが、他に手があるのか。裏から回るにしても、道が分からなければ話にならない」
部屋の空気が少し重くなり、誰も次の案をすぐには出せなかった。
地図の上には、狼煙台へ続く道が一本しか描かれておらず、裏の道を知る者が、この部屋にはまだいなかった。分かっているのは、正面から押しても勝ち目が薄いという一点だけだった。
「――裏の道がある」
担架の上から、フェリクスが体を起こそうとしながら、声を上げた。アンナがすぐに肩を押さえたが、その声は部屋の隅々まで届いており、傷を負った体からとは思えない、はっきりとした声だった。
「保守道が二本。表は岩場沿い、裏は俺たち以外ほとんど知らない道だ。裏の警備は、いつも手薄だと聞いている」
「フェリクスは出せない」
アンナが即座に割って入った。
「まだ動かせる状態じゃない。案内なら、地図で十分伝えられる」
「俺は、まだ動ける」
「動けるって言い張る怪我人が、一番危ない。何度も見てきた」
アンナの声には、譲らない強さがあった。治療師として、これまで数えきれないほどの怪我人を見てきた経験が、その一言に滲んでおり、フェリクスは、それ以上何も言い返せなかった。
部屋の中の誰も、二人の押し問答に口を挟まなかった。アンナの言い分に理があることは、傷を見ていない者にも伝わっていた。
しばらくの沈黙のあと、クラウスが口を開いた。部屋の全員の視線が、自然とクラウスに集まった。これまでの発言のどれかを否定するでもなく、新しい何かを提示しようとしていることが、その口の開き方だけで伝わっていた。
「正面と、裏。両方でやる」
クラウスは地図を指しながら続けた。
「正面は本隊が押す。ただし、無理に押し切ろうとしない。あの大男を相手に、崩れかけたら、それ以上は下がっていい。目的は、押し切ることじゃなく、敵の目を正面に引きつけておくことだ」
部屋の何人かが、驚いたような顔をした。押し切らない前提の攻撃という考え方は、これまでこの部屋で語られたことがなかったが、疑問を口にする前に、話はもう先へ進んでいた。
「その間に」
ロルフが先を続けた。
「裏から回る、と」
「四人と、二人」
クラウスは、二人の生存兵に目を向けた。六人という数字は、正式な分隊としてはまだ持ったことのない規模だったが、それでも、この作戦の間だけは、四人と二人が一つの動きとして揃うことになる。名も肩書きも、まだ整っていないままだった。
「土地勘があるなら、力を貸してほしい」
命じる言い方ではなかった。二人はまだ、この分隊の一員ではなく、だからこそ、頼むという形以外の言葉を、クラウスは選ばなかった。
二人は顔を見合わせ、頷いた。
「手薄な裏の警備を抜いて、狼煙台の中核設備を押さえる。狼煙を上げれば、向こうの狙いそのものが崩れる」
言い方は静かだったが、内容そのものは大きな賭けだった。裏の道が本当に通れるかどうかは、まだ誰も確かめていなかったが、それでも、確かめる前から諦める理由はなかった。
テオが、おずおずと手を挙げた。
「あの、正面が本気で押さないなら、向こうは気づいて、裏に回してくる兵を増やすんじゃないですか」
部屋の何人かが、その質問に頷いた。単純だが、的を射た問いであり、テオが自分から進んで疑問を口にすること自体、以前ならなかったことだった。誰も、その変化を大げさに指摘しなかったが、クラウスはそれを見過ごさなかった。
「気づかれても構わない」
クラウスは答えた。表情を変えることなく、淡々とした口調だった。
「気づいた頃には、こちらはもう保守道を進んでいる。向こうが裏に兵を割いた分だけ、正面はさらに薄くなる。どちらに転んでも、こちらの狙いは崩れない」
テオは、その答えに少し驚いたような顔をしたあと、納得したように頷いた。
キルシュナーは、しばらく地図を見つめていた。書類主義者らしく即断はせず、細かい懸念を口にすることもなく、ただ地図の上の矢印を目でなぞり続けていた。その沈黙の長さが、判断の重さを物語っていた。
「分かった。それで行く」
やがて、静かに言ったその言葉は、大きな承認の言葉ではなかったが、それだけで、作戦は動き始めた。
最初に正面突破を主張していた分隊長も、腕を組んだまま、しばらく黙っていたが、やがて、渋々というふうに口を開いた。
「――悪くはない。数を揃えるだけの案より、まだ筋が通ってる」
賛成とも反対ともつかない言い方だったが、それ以上の反論は出なかった。最初に正面案を主張していた立場としては、これ以上ないくらいの譲歩であり、誰もそれを指摘しなかったが、部屋の空気は僅かに緩んでいた。張り詰めていた何かが、ようやく一段落ついた証拠でもあった。
「本隊の規模は、以前より増えている」
キルシュナーが付け加えた。
「大隊本部からの補充が、先の転属以降、順々に入っていた。今なら、二十人近くは動かせる」
誰もそのことを大げさに扱わず、ただ、それだけの数が、今なら揃うという事実だけが、静かに共有された。数の多さそのものが勝敗を決めるわけではないことは、すでに全員が知っていたが、正面を厚く見せかけるための数としてなら、十分に足りていた。
「裏に回る二人には、無理をさせない」
クラウスは、二人の生存兵に向けて言った。念を押すような言い方で、土地勘を借りることと、戦わせることは、はっきり別のこととして分けておきたかった。
「土地勘を貸してもらうだけでいい。戦うことは、私たちに任せてほしい」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく頷いた。土地勘を貸すだけの立場でいることに、迷いはもう見えなかった。
「――俺たちも、あそこを取り返したい。それだけです」
短い言葉だったが、誰もそれを軽く扱わなかった。土地を知る者の口から出た一言は、地図や兵数の話とは違う種類の重みを持っており、二人にとって、あの狼煙台はただの作戦目標ではなかった。
会議の終わり際、キルシュナーがクラウスを呼び止め、他の者たちが部屋を出ていくのを待ってから、静かに口を開いた。二人だけになった部屋は、先ほどまでの熱気が抜けて、急に静かになっており、地図の上の赤い印だけが、まだそこに残っていた。
「今回の案、お前が出したものだが……本部への報告では、俺の名前で出す。それでいいか」
形式上、当然のことだった。功績は指揮官の名で上に伝わる。クラウスは、それに頷いた。
「構いません」
「――嫌な役目を、押し付けてるとは思ってる」
キルシュナーの声は、いつもの事務的な調子から、僅かに外れていた。手続きと前例を重んじる男が、規則の外にある一言をこぼした瞬間だった。
「押し付けとは思っていません」
クラウスは、正直にそう答えた。手柄を誰の名で報告するかということに、これまで一度も強いこだわりを持ったことがなく、誰の名で伝わるかより、狼煙台が戻るかどうかのほうが、はるかに重かった。キルシュナーは、それ以上何も言わず、ただ頷いた。
会議が終わり、部屋を出るクラウスの背に、フェリクスが声をかけた。
「――借りが、できたな」
「借りとは思っていません」
クラウスは振り返らずに答えた。フェリクスは、それ以上何も言わなかったが、その顔には、痛みとは別の、静かな安堵のようなものが浮かんでいた。
部屋を出たクラウスは、廊下の冷えた空気を大きく一つ吸い込んだ。白い息が、短く尾を引いて消え、廊下の奥から響く誰かの足音だけが、静けさをかすかに揺らしていた。二正面案は、まだ絵に描いた作戦にすぎず、裏の道が本当に通れるかどうかも、まだ確かめていなかったが、それでも、動き出す方向だけは、はっきりと決まった。あとは、決まった方向へ、一歩ずつ進むだけだった。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




