第15話 あれは俺たちの合図だ
【聖暦346年 晩秋/フェリクスの病室】
治療所は静まり返り、負傷者の多くはすでに眠りに落ちて、廊下の灯りだけが低く揺れていた。フェリクスの寝台の周りには、まだ癒えきらない包帯の匂いが薄く漂い、窓の外は、晩秋の冷たい空気が薄い月明かりを透かしている。
その夜、フェリクスの容体を見に行ったクラウスに、フェリクスが小さく声をかけた。
「――外を、見せてくれないか」
クラウスは窓の外を指し示した。国境沿いの丘の連なりが、夜の闇に沈んでいる中、狼煙台のあった丘だけが、まだ判別できた――稜線の形だけを頼りに見分けられる程度の、頼りない輪郭だった。
その丘の頂に、赤い光が、ゆらりと立ち上がった。
昼間であれば見過ごしてしまうほどの、小さな光だった。だが夜の静けさの中では、その揺らめきだけが妙にはっきりと目に焼き付き、クラウスは、しばらくその光から目を離せずにいた。
フェリクスの顔色が、一瞬で変わった。
「――あれは」
「どうかしましたか」
「あの上がり方だ。あれは、俺たちの合図だ」
フェリクスの声には、痛みとは違う緊張が混じっていた。
「狼煙の上げ方には、決まりがある。あの間隔、あの色の重ね方は、味方に危険を知らせる時のものだ。だが、俺たちの隊は、もうあそこにはいない」
クラウスは、しばらく無言のまま、その赤い光を見つめていた。
「――向こうが、使っているということですか」
「そうとしか、考えられない」
フェリクスは、痛む体を無理に起こそうとして、すぐにアンナに止められた。
「無理に動かないで」
「聞いてくれ。あの台には、保守道が二本ある。表と裏。表の道は、正面からでは見えないが、崩れかけの岩場の陰を通る。裏の道は、俺たち以外はほとんど知らない。狼煙台の内部の死角も含めて、俺には分かる」
フェリクスの声は乾いていたが、言葉の並びには迷いがなく、何度も歩いた道を語る時の話し方だった。傷の痛みよりも、伝えるべきことを先に済ませようとする意志のほうが、勝っているように見えた。
フェリクスの言葉に、クラウスは静かに聞き入り、一つ一つを、頭の中に地形として組み立てていった。
「あそこを、ドレイク側が使っている、と」
「監視と、偽の合図。あの台を落とした理由が、そういうことなら筋が通る」
フェリクスは、痛みをこらえながら続けた。
「俺たちが守っている間、あの台は、ただの見張り台に見えていた。だが、落とされてみて分かる。あそこは、こちら側の動きを見るための場所であると同時に、向こう側の嘘を運ぶための場所でもあった」
「裏の道には、目印がある」
フェリクスは、それでも痛みをこらえながら続けた。
「入り口からしばらくは獣道と変わらない。だが、途中に、雷に打たれて幹の半分だけ黒くなった木がある。あれを右手に見て斜面へ入れば、近道になる」
「その先は」
「崩れやすい斜面だ。去年の大雨で、一度崩れかけている。今もどうなっているかは分からない。もし塞がっていたら、上に回る道がもう一本ある」
「もう一本、というのは」
「幅の狭い岩棚だ。人ひとりがようやく渡れる程度しかない。切り立った斜面に張り出している。慣れていない者には、勧められる道じゃない」
クラウスは、その言葉の一つ一つを、頭の中に地形として組み立てていった――目印の木、崩れやすい斜面、狭い岩棚。まだ見ぬ道が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
「危ない場所ほど、よく覚えている。哨所にいた者の癖だ」
自嘲めいた響きが混じっていたが、その声には、確かな誇りも同時にあり、危険を数えることでしか、命を繋いでこられなかった場所での日々が、そこには刻まれていた。
フェリクスは、乾いた声でそう付け加えたあと、小さく咳き込み、アンナがすぐに水を含ませた布を口元へ運んだ。
「話しすぎ」
「これくらいは、話させてくれ」
フェリクスの声には、譲らない響きがあり、アンナは、それ以上止めることはせず、ただ布を持つ手を止めなかった。
「あの道を、俺は数えきれないほど歩いた。目を閉じていても分かる」
フェリクスは、そう付け加えて、窓の外の丘へ目をやった。赤い光は、まだ揺らめいていた。
クラウスの中で、また別の答えが静かに形を持ち始めていた。あの台を放置すれば、こちらの動きを見透かされ続け、偽の合図で、味方の判断そのものを狂わされる。均衡は、目に見える戦線だけでなく、情報の流れそのものの中にも、確かに存在していた。
剣を交える場所を押さえるだけでは、足りない。誰が、どこで、何を見ているか、その一点までも押さえて初めて、均衡は保たれる。今までは意識したことのない種類の場所取りだったが、意識していなかっただけで、そこにも確かに奪い合う場所があった。
「――明日まで、放置できない」
クラウスの言葉に、フェリクスも、アンナも、何も言わなかったが、誰もそれを否定しなかった。夜が明けるまでの数時間で、あの赤い光が何度上がるか、誰にも分からず、分からないままにしておく時間の余裕は、もう残されていなかった。
もう一人の生存兵が、廊下からその話を聞いていたのか、静かに部屋に入ってきた。名を名乗ることはなく、もう一人と同じく、自分から名乗る余裕を、この数日で失っていた。歩き方には、まだ隠しきれない疲労が残っていたが、目だけはしっかりとこちらを見ていた。
「あの台の裏の警備は、いつも手薄です。人手が足りていないから」
生存兵の言葉は、短かったが、確かな重みを持ち、土地勘のある者だけが言える一言だった。地図の上には決して描かれない種類の情報が、そこには含まれていた。
「俺たちが哨所にいた頃も、裏の見張りはいつも二、三人しか回せませんでした。表を厚くする分、裏が薄くなる。それは向こうも同じはずです」
生存兵の口調には、かつて自分たちが守っていた場所への未練が滲んでいた。人手の薄さは、そこにいた者だけが知る弱点であり、同時に、今この瞬間に使える唯一の武器でもあった。
その頃、ドレイク家の陣中では、ダミアンが得物の手入れをしながら、カスパルの伝令を聞いていた。
「――もう一度、押されるかもしれない、と」
「かもしれないだけだろう。来るなら来ればいい」
ダミアンは気にする素振りも見せず、難しい駆け引きは、カスパルやマルティンの仕事だと割り切っていた。自分の仕事は、来た敵を叩くことだけだった。
「壊すな、とグレゴール様が言っている。忘れるなよ」
「分かってる。壊さなきゃいいんだろう」
ダミアンにとって、それは面倒な条件でしかなかった。壊さずに勝つのと、ただ勝つのとでは、勝ち方の難しさが変わってくる。それでも、命じられた以上は従うしかなかった。
伝令は、それ以上言うことを諦めて去っていった。ダミアンは、得物を担ぎ直しながら、狼煙台のほうへ目をやり、奪い返しに来るなら来ればいい、という単純な確信だけが、そこにあった。細かい駆け引きよりも、目の前に来た敵をどう叩くかのほうが、自分には性に合っていると、ダミアンは分かっていた。
もう一人の生存兵も、頷きながら付け加えた。
「狼煙台の中は、俺たちのほうが詳しいはずです。どこに何があるか、どこが死角になるか。あそこで寝起きしてたのは、俺たちのほうですから」
二人の口調には、悔しさとも意地ともつかない何かが滲んでいた。奪われた場所を、他の誰かの手で取り返されるのではなく、自分たちの知識で取り返す――そのことに、僅かな意味を見出しているようだった。
クラウスは、その二人の様子を見ながら、何も言わずに頷いた。今はまだ、名前を尋ねる場面ではないと感じていたし、名前を得るのは、あの場所を取り返した後でも遅くない。今はまだ、二人が持っている土地の記憶のほうが、何よりも欲しいものだった。
窓の外では、赤い光がまだゆらめいていた。フェリクスは、その光をしばらく見つめたあと、静かに目を閉じた――まぶたの裏にも、まだその赤さが残っているのかもしれなかった。
「――悔しいな」
誰にともなく、そう呟いた。クラウスは、それに答える言葉を持たなかったが、ただ隣に座り続けた。言葉にできないものを、無理に言葉にする必要はない、とも思っていた。
窓の外の赤い光を見つめたまま、フェリクスはしばらく黙っていたが、やがて、独り言のように続けた。
「守備隊の連中、名前くらいは知っていた。深い付き合いじゃない。それでも、朝の点呼で顔を合わせるだけの仲だった」
名前くらい、という言い方には、それ以上の重みが滲んでいた。深い付き合いでなくとも、毎朝顔を合わせていた者たちが、もう戻ってこない――その事実の大きさは、付き合いの深さとは関係のないところにあった。
クラウスは、何も言わなかった。慰めの言葉を持たないことは、自分でも分かっていたが、ただ、逃げずにそこにいることだけが、今できる唯一のことだった。
「――お前のところの若いのが、まだ気にしてるみたいだったな」
「テオのことですか」
「守れなかった、と言っていたんだろう。廊下まで聞こえていた」
クラウスは頷いた。テオの言葉を、否定するつもりはなかった。守れなかったことは、事実だったが、それでも、その事実を抱えたまま前へ進むしかないことも、また事実だった。
窓の外の赤い光は、いつの間にか見えなくなっていたが、消えたわけではなく、ただ、次の間隔が来るまで、間を置いているだけだった。この静けさの向こうで、今も何かが動き続けていることを、クラウスは痛いほどよく分かっていた。
病室を出る前に、クラウスはもう一度だけ、フェリクスの寝台へ目をやった。眠っているのか、目を閉じているだけなのか、区別はつかなかったが、その呼吸は、確かに続いていた。今はそれだけで十分だった。
廊下に出ると、冷えた空気が頬を刺した。歩き出しながら、クラウスは頭の中で、これから必要になるものを一つずつ数え始めていた――地図。人手。そして、まだ見ぬ裏の道を歩き切るだけの、慎重さだった。
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