第14話 生きて着いた
【聖暦346年 晩秋/撤退の道】
振り返っても、狼煙台の稜線はもう闇に紛れて見分けられなかった。取り戻せなかった場所を背にしたまま、四人はフェリクスの担架を代わる代わる担いで、言葉もなくただ歩き続けた。
日が沈みかけた頃、これ以上の強行は体力の限界だと判断し、木立の奥にわずかな時間だけ止まることにした。火は焚けなかった――煙を上げれば、それだけで追う者に居場所を教えることになる。冷えた干し肉を無言で口に運びながら、誰も多くを話そうとはせず、噛むたびに感じる乾いた塩気だけが、まだ自分たちが生きていることを、辛うじて教えてくれた。
テオが、包帯を巻いた腕をさすりながら、誰への言葉でもなく、ぽつりと言った。
「――守れなかったですね、あそこ」
だが、その言葉には、ロルフが答えた。
「守れる場所じゃなかった。俺たちが着いた時には、もう終わってた」
「分かってます。分かってるんですけど」
テオはそれ以上続けず、膝を抱えたまま、火のない暗がりを、ただじっと見つめていた――その視線の先には、何もなかった。
アンナがフェリクスの容体を確かめ終え、指先の冷たさを一度確かめてから、静かに口を開いた。
「今のところ、持ちこたえてる。あとは、どれだけ早く医者に診せられるか」
クラウスは、遠くに残してきた守備隊の十数人のことを、考えたところで増やせるものは増えないと分かっていながら、まだ考えないようにしていた。だが、テオの短い一言が、押し込めていたその蓋を、少しだけ緩めていた。
「――全員は、無理だった」
クラウスがそう言うと、テオはうつむけていた顔を、ゆっくりと上げた。
「一人でも、連れて帰れたなら、それで良かったと思う。今は、それだけでいい」
誰も、それ以上何かを付け足さず、短い休息のあと、四人は担架を持ち直して、再び歩き出した。
夜が明けるまでの間、フェリクスの意識は、保たれたり途切れたりを繰り返し、時折「まだ、動いてるのか」と呟いては、また目を閉じた。
アンナはその都度、脈を確かめ、額の汗を布で拭ったが、歩みだけは止めなかった――止まれば、それだけ追いつかれる時間が近づくことを、誰もが分かっていた。
夜通しの逃避行で、四人の足取りは、日を跨ぐごとに重くなっていた。テオの槍を持つ手には、いつの間にか血豆ができていて、ロルフは矢筒の残りを何度も数え直していたが、数えるたびに減るだけで、増えることはなかった。
夜半を過ぎた頃から吐く息が白く見えるようになり、冷え込みは日ごとに増しているようで、フェリクスの担架を持つ手は、悴んで感覚が鈍り始めていた。アンナは、その手の感覚を確かめるたびに、担ぐ位置を変えるよう小さく指示を出し、休む間もなく歩き続ける体に、寒さだけが容赦なく重なっていった。
「あと半刻で追いつかれる」
夜が白み始めた頃、クラウスは背後を確認しながら言った。ドレイク家の追撃隊は簡単には諦めず、おそらく夜通し休まず追ってきていて、地形の起伏を利用してどうにか距離を稼いでいるものの、その手にも限りがあった。
「半刻動かしたら死ぬ」
アンナの答えは、昨日と同じ重みを持っていたが、条件は昨日より確実に厳しくなっていた。止まる余裕も動く余裕も両方が同時に足りていない中、フェリクスの呼吸は、朝方に入ってから明らかに浅くなっていた。
「なら、半刻を作る」
クラウスの答えも、口にした言葉自体は昨日と同じ形をしていた。ただ、今日はその半刻を作る方法が、まだ何一つ見えておらず、伏兵で足止めをするには、もうロルフの矢もテオの体力も限界に近く、同じ手は二度は使えなかった。
アンナは、フェリクスの額に浮かんだ汗を拭いながら、独り言のように呟いた。
「熱が、上がってきてる。傷口が膿み始めてるかもしれない」
担架の上のフェリクスは、その言葉を聞いているのかいないのか、目を閉じたまま浅い息を繰り返していた。一刻を争う状況が、じわじわとその輪郭を狭めていくのが、誰の目にも分かった。
「――この坂なら、追いつかれにくい」
ロルフが地形を見渡しながら言った。長年の行軍で培った目は、息が上がっていても、その判断だけは、まだ鈍っていなかった。
「あっちの尾根伝いに行けば、追手は馬を降りるしかなくなる。徒歩なら、こっちの脚のほうが慣れてる。向こうは重装備、こっちは軽装だ」
「ここは伏せても意味がない。見通しが良すぎる」
ロルフは、地形の陰影を一つずつ確かめるように、別の場所を指しながら続けた。
「あそこの茂みも駄目だ。風向きで足音が拾われる」
ロルフの判断に迷いはなく、地形を読む目は、剣の腕とは別の、もう一つの武器だった。クラウスはそれ以上問い返すことなく黙って従い、ロルフが示した尾根伝いの道を選んだ。
道中、何度か追撃隊の姿が見え、その中には、盾ごと兵を跳ね飛ばしていた、あのひときわ大柄な男の輪郭もあり、距離はまだあったが、確実に、じりじりと縮まっていた。
「――あいつ、まだ追ってきてる」
テオが緊張した声で言ったが、その声には息の乱れが混じり、足取りも目に見えてふらついていた。
「相手にしなくていい。逃げ切ることだけ考えろ」
クラウスの言葉に、テオは頷き、歯を食いしばって、もう一度足を速めた。
尾根に取り付いたところで、後方の茂みから矢が飛んできて、一本がロルフの肩をかすめ、外套の布地を裂いた。
「――伏せろ!」
ロルフの声に、全員が地面に身を伏せ、フェリクスの担架を、テオが自分の体で庇うように覆った。
矢の飛んできた方角を、クラウスは目で追ったが、数はそう多くなく、追撃隊の本隊ではなく、先行して距離を詰めていた斥候のようだった。
「ロルフ、撃ち返せるか」
「二、三本なら」
ロルフは矢筒の残りを確かめながら答え、少ない矢を一本ずつ丁寧に、正確に返すと、二射のうち一射が、茂みの奥で何かが崩れる音を立てた。
「退いた、と思う」
完全に消えたわけではなかったが、少なくとも、この場での交戦だけは避けられた。
「行くぞ」
クラウスの声に、一行は再び疲れた足を進めた。矢傷を負ったロルフの肩からは、じわりと血が滲んでいたが、本人はそれを気にする素振りも見せなかった。
尾根の中腹まで来たところで、今度は明らかな本隊の足音が聞こえてきて、数の多さそのものが、先ほどの斥候とは違うことを、はっきりと物語っていた。
「――まずいな」
ロルフが、矢筒の中身を指先で数えるように低く呟いた――もう、二本ほどしか残っていない。
クラウスは、追われる者の目で周囲の地形をゆっくりと見渡した。答えはいつもと同じくらい静かに返ってきた――真正面からぶつかれば確実に潰れる。だが、身を隠せる場所も、もう多くは残っていない。
「――あの岩の裂け目」
クラウスが指した先には、人ひとりがようやく隠れられる程度の、狭い岩の隙間があった。
「フェリクスを、そこへ」
テオとアンナが、担架をできる限り慎重に運び入れ、ロルフとクラウスは、少し離れた木立の陰に、それぞれ身を潜めた。
追撃隊の本隊は、そのまま尾根を通り過ぎていったが、夜通しの追跡に彼らもまた疲れの色を隠せずにおり、声を潜め、足早に、決められた方角へと進んでいった。狙いはおそらく、駐屯地への進路そのものを塞ぐことだった。
足音が完全に遠ざかり、木立が元の静けさを取り戻すまで、誰も身じろぎ一つしなかった。
「――行き過ぎたか」
ロルフが小さく息を吐いたが、安堵するにはまだ早く、追撃隊が先回りしているなら、駐屯地への道も、もう単純には辿れなくなっていた。
「別の道を探す」
クラウスの言葉に、皆が黙って頷いた――危うい均衡の上に、自分たちが今も立っていることを、誰もがはっきりと分かっていた。
尾根を越えたところで、フェリクスの息が、急に浅くなった。
「アンナ」
「見てる」
アンナが脈を取る手が、一瞬だけ止まったが、すぐにまた動き始めた。
「まだ、大丈夫。意識が落ちただけ」
フェリクスは、それきり目を開けず、呼吸だけがかすかに続いていて、担架を担ぐロルフとテオの手に、無言のまま、じわりと力がこもった。
その先、尾根を下りきったところで、木の陰から二つの人影が現れた。
「――誰だ」
ロルフが即座に得物を構えると、木陰の人影は驚いたように両手を上げた。
「哨所の生き残りだ。他に、誰もいない」
声は震え、装備は半分脱げかけ、片方は足を引きずっていて、名乗ることも忘れているような、そんな様子だった。
「怪我は」
クラウスが静かに聞くと、二人は疲れた顔のまま、首を振った。
「歩ける。ただ、他にどこへ行けばいいか、分からなくて」
クラウスはアンナに目配せし、アンナは軽く頷いて、それ以上何も聞かずに、二人の傷を手早く確かめ始めた。
「一緒に来てくれ」
命令ではなく、それだけの言葉だったが、二人は他に選択肢がないというように、静かに頷いた。
六人になった一行は、追撃の気配が薄れたのを確かめながら、駐屯地への道を急いだ。歩みは遅く、誰の体力もすでに限界に近かったが、それでも誰も、足を止めようとはしなかった。
【聖暦346年 晩秋/グライフェン駐屯地】
グライフェンに戻り着いたのは、翌日の昼過ぎのことだった。
西部国境に築かれたこの駐屯地は、北部駐屯地とは違い、石壁で囲まれた堅固な作りをしていた。切り出された灰色の石が幾重にも積み上げられ、壁の上部には見張りのための狭間が並んでいる。国境沿いの要衝として、長い年月をかけて築かれてきたことが、一目で分かる造りだった。門の脇には、平時であれば旅商人の荷を検める詰所もあったが、今、その前を行き交うのは商人ではなく、伝令と負傷兵ばかりだった。
門番の兵が、六人の姿を見て一瞬驚いた顔をしたあと、すぐに門を大きく開けた。
石壁の門をくぐった瞬間、テオがその場に膝をつき、ロルフも同じように座り込んで、しばらく立ち上がれなかった。二晩ろくに眠らず、食べるものも僅かだった体には、駐屯地の門そのものが、ようやく許された休息の合図に見えたのかもしれない。
フェリクスは軍医の手に渡され、一時的に意識を取り戻し、傷は深いが命に関わる段階は越えたという診立てだった。二人の生存兵も、簡単な手当てを受けたあと別室で休むよう指示され、クラウスたちは、その足で報告のために小隊長室へ呼ばれていた。
「狼煙台は失った、と」
キルシュナーは、机の上の報告書から目を離さないまま言った。声に責める色はなく、ただ事実を確認しているだけで、書類机の向こうで、細身の体が、いつもより少し疲れて見えた。
「はい。守備隊はほとんど残っていません。哨所長と生存兵二名を連れ帰りました」
クラウスは、それ以上のことを言わず、守れなかった十数人のことを、今はまだ、言葉にする気にはなれなかった。
「よくやった、とは言えない状況だが……よく、生きて帰った」
キルシュナーの言葉は、それ以上でも以下でもなく、数字だけで見れば失ったもののほうが大きいが、失わなかったものが、確かにここにいた。部屋を出る間際、キルシュナーはもう一言だけ付け加えた。
「休め。今日のところは、それでいい」
兵舎に戻ったクラウスたちは、久しぶりに屋根の下で体を横たえた。テオはすぐに眠りに落ち、ロルフは肩の傷を軍医に診せ、たいしたことはないと言われて、それでも布を厚めに巻いてもらっていた。
アンナだけが、しばらく眠らずにフェリクスの様子を見に行っていた。戻ってきた時、その顔には、いつもの世話焼きの表情とは少し違う、隠しきれない疲れの色が浮かんでいた。
肩から提げた道具袋の紐が、いつもよりわずかに緩んでいて、締め直す気力さえ、今は残っていないようだった。二晩ろくに眠らず、気を張り詰めたまま処置を続けてきた反動が、ようやく体の芯にまで追いついてきていた。緊急時には決して震えなかった指先が、今になって、小さく震えていた。
「大丈夫か」
「大丈夫。ちょっと、疲れただけ」
アンナはそう言って、いつものように笑おうとしたが、その日はうまく笑えていなかった。
助けられなかった命のことを、治療師という立場は、誰よりも近くで見つめることになる。守備隊の誰かを救えたかもしれない、という思いは、簡単には消えない種類のものだった。
クラウスは、それ以上何も聞かず、ただしばらくの間、アンナの傍に黙って座っていた。何を言えばいいのか、答えは持っていなかったが、それでも、その場を離れないことだけは、自分にもできた。
やがてアンナは、無理に区切りをつけるように、小さく息を吐いて立ち上がった。
「――ありがとう。もう平気」
本当に平気になったわけではないだろう、とクラウスは思ったが、それを口には出さなかった。今はまだ、そう言わせておくことのほうが、大




