第13話 その時間を作る
裏道は思ったより長かった。
狼煙台の裏手から続くその道は、獣道に毛が生えた程度の幅しかなかった。岩肌が剥き出しになった斜面を、木の根に足を取られながら下る。夜明け前の薄闇の中、視界はほとんど利かなかった。
背後で上がっていた喊声は、下るごとに少しずつ遠ざかっていく。だが、消えたわけではない。むしろ、その遠さそのものが、狼煙台がもう手の届かない場所になったことを、否応なく思い知らせてくる。誰かが取り返しに戻れば、と考えかけて、クラウスはすぐにその考えを打ち切った。今、目の前で担架を落とせば、それだけで一人死ぬ。優先すべき順番は、最初から一つしかなかった。
フェリクスを担架代わりの外套に乗せ、ロルフとテオが前後を持つ。傾斜がきつくなるたびに、フェリクスの喉から短い呻きが漏れた。
「――待て」
フェリクスが片手を上げた。声は掠れていたが、意志の強さだけは残っていた。
「台を取り返せ」
「今は無理だ」
クラウスは足を止めずに答えた。振り返る余裕もなかった。背後からはまだ、狼煙台のほうから乱れた声が届いてくる。勝ち鬨と呻き声の入り混じった、聞くに堪えない音だった。
「俺を置いていけ。お前らだけでも、まだ」
「それも無理だ」
短いやり取りだった。フェリクスはそれ以上何も言わず、痛みに顔を歪めながら口を閉じた。担架の上で、拳だけが強く握られていた。
丘を下りきったところで、アンナがフェリクスの脈を取り、顔色を変えた。
「今、これ以上動かしたら死ぬ」
アンナの声は静かだったが、それだけに重みがあった。傷の深さは、素人目にも分かるほど広がっていた。血の色が変わり始めている。応急の処置だけでは、もう保たない段階に来ていた。
「――ここで、止まる」
クラウスは短く言った。命令ではなく、決定を口にしただけだった。
「なら、その時間を作る」
【聖暦346年 晩秋/窪地】
周囲を見渡す。木立と岩の間に挟まれた、狭い窪地だった。追ってくる敵の足音は、まだ聞こえていない。だが、いつまでも聞こえないままではいられない。この程度の窪地では、押し込まれれば数分と保たない。
入り口は一つ。奥行きは浅い。閉じ込められれば終わりだが、逆に言えば、敵の数を一度に受ける必要がないという意味でもあった。この窪地の形は、時間を稼ぐという今の目的とだけは、辛うじて噛み合っていた。
「ロルフ、テオ」
二人はすでに得物を構えていた。何を言われるかは、聞く前から分かっていたようだった。
「時間を稼いでほしい。倒す必要はない。足止めだけでいい」
頼む言い方だった。命じる言葉を、クラウスは今日もまだ持っていなかった。
「分かってる」
ロルフが短く答えた。テオは何も言わず、ただ頷いた。二人は窪地の入り口へ向かった。
クラウスは、フェリクスの傍らに膝をついた。アンナがすでに傷口を見ている。何本もの矢傷、深く裂けた脇腹。並の体力なら、とうに意識を失っていておかしくない傷だった。
「――なぜ、まだ動いてる」
フェリクスが、掠れた声で自分自身に問うように呟いた。誰も答えなかった。答えを持っている者は、この場にいなかった。動いているという事実だけが、今はまだ唯一の希望だった。まぶたは半分落ちかけていたが、意識の芯だけは、まだそこにしがみついているように見えた。
クラウスは、遠くから響く足音に耳を澄ませた。まだ数は多くない。だが、増えるのは時間の問題だった。
最初の敵の気配は、思ったより早く来た。物音を殺して近づいてきた三人組が、窪地の入り口に姿を見せる。彼らはこちらの位置を正確に把握しているわけではなく、崩れた守備隊の残党を掃討するついでに、周辺を探っているだけのようだった。
ロルフが物陰から矢を放ち、足元を狙う。転んだ一人につまずいて、後続の何人かが足を止めた。その隙に、テオが横から飛び出し、槍の柄で盾ごと押し返す。
「怪我人がいるぞ、こっちに」
敵の一人が叫んだ。援軍を呼ぶ声だった。ロルフはすぐさま次の矢をつがえ、その声の主を狙って放った。矢は肩口を掠め、叫び声が途切れる。だが、完全に沈黙させたわけではなかった。
最初は十分近く稼げた。
アンナはその間、フェリクスの傷口を洗い直し、新しい布で縛り直していた。血は止まりかけていたが、それでもまだ動かせる状態ではなかった。手当てのたびに、フェリクスは短く息を詰めた。
「もう少し、もう少しだけ」
アンナは誰に言うでもなく、そう繰り返していた。指先は震えていなかったが、額には汗が浮かんでいた。手当ての手順そのものは、いつもと変わらない。変わったのは、その手順に与えられている時間の少なさだけだった。
二度目の足止めは、一度目より短かった。敵の数が増えていた。ロルフの矢筒は、もう半分ほどしか残っていない。テオの息も荒くなっていた。振り下ろす槍の重さが、明らかに増したように見えた。
「ロルフさん、そっちは」
「まだ大丈夫だ。声を惜しめ」
ロルフの声には、疲れの色があったが、揺らぎはなかった。矢を放つたびに、確実に一人の足を止めていく。無駄弾は一本もなかった。
二度目は半分ほどしか稼げなかった。
稼げる時間は、確実に目減りしていた。一度目より二度目、二度目より三度目。同じだけの覚悟を注ぎ込んでも、返ってくる時間は少しずつ短くなっていく。それでも、ゼロになるまでには、まだ僅かな猶予がある。クラウスは、その猶予を数えながら、アンナの手元から目を離さなかった。
囲む側にも、余裕があったわけではなかった。
矢を避けながら舌打ちしたのは、ダミアン配下に加わって日の浅い、若い斥候上がりの男だった。
「怪我人一人に、こんなに手間取るのか」
命じられたのは、崩れた守備隊の残党を掃討するだけの仕事だったはずだ。数合わせの、退屈な仕事のはずだった。だが、退がりながら矢を放つ男の狙いは正確で、無駄弾が一本もない。槍を振るう若いほうも、明らかに息が上がっているのに、間合いだけは崩さなかった。
「囲め。数で押せばすぐだ」
年嵩の一人がそう叫んだが、窪地の入り口は狭く、一度に押し込める人数には限りがあった。左右に回ろうとすれば、足場の悪い岩と木立が邪魔をする。数の多さが、そのまま勝敗に直結しない場所だった。
「あっちの矢、もう切れかけてるはずだ」
「だったら、なおさら急ぐことはない」
年嵩の男の声には、余裕があった。矢が切れれば、あとは押すだけでいい。時間をかければ削り切れる。焦る必要はない、と誰もがそう思っていた。
その余裕を崩したのは、後方から合流してきた一隊だった。数が、一息に倍近くまで膨れ上がる。
「まとめて行くぞ」
先ほどまでの慎重さが、途端に消えた。若い男は、その勢いに押されるまま、槍を構え直した。誰かが号令をかけるより先に、足はもう前へ出ていた。数の圧力が、窪地の均衡を一気に押し流そうとしていた。
後退する際、テオの二の腕に敵の刃先がかすった。浅い傷だったが、血が滲んだ。
「――大丈夫か」
「平気です。まだ動けます」
テオは強がって見せたが、槍を握る手が微かに震えていた。アンナがちらりとそちらを見て、口を開きかけ、だが今は手を止められないと判断したのか、フェリクスの縛り直しに戻った。優先すべき順番を、誰も言葉にせずに分かっていた。傷の深さで比べれば、答えは最初から一つしかなかった。
クラウスは窪地の縁に立ち、状況を見続けていた。同じ答えが、また静かに返ってきていた。このままでは、いずれ足りなくなる。だが、いつまで、とは教えてくれない。答えを出すのは、いつも自分のほうだった。
「アンナ、まだか」
声をかけながらも、クラウスは急かす気にはなれなかった。急いだところで、傷が早く塞がるわけではない。ただ、時間だけが確実に目減りしていく事実を、誰かが言葉にしておく必要があった。
「あと少し、あと少しだけ待って」
アンナの手は止まらなかった。血に濡れた布を替え、新しい布を巻きつける。フェリクスの意識は、朦朧としながらも、まだ保たれていた。
ロルフの矢筒が、とうとう空になった。テオの槍は、刃こぼれして本来の切れ味を失っていた。二人とも、それでも武器を手放さなかった。手放した瞬間に、稼いできた時間そのものが無駄になる。それだけは、言われなくても分かっていた。
三度目の足止めは、ほとんど止まらなかった。
合流した敵は、もはや慎重さを装う必要すら感じていないようだった。数を頼みに、一息で押し切る構えだった。ロルフの矢はもう底が見え、テオの槍は刃こぼれの先が丸まりかけている。それでも二人は、崩れかけた足場を最後の一歩まで譜代の壁として使い続けた。
敵の先頭が窪地の入り口まで迫った時、テオが叫んだ。息は上がりきり、槍を構える腕も震えていた。
「クラウスさん、もう――」
「動かす」
クラウスの声が、初めてはっきりと大きくなった。
「アンナ、今すぐ動かせるか」
「動かせる。動かすしかない」
アンナの答えは短かった。フェリクスを担ぎ上げる。ロルフとテオが最後の矢と槍で入り口を塞ぎながら、じりじりと後退する。息を切らしながらも、二人とも自分の足で走ることができていた。
窪地を抜けた先には、細い沢があった。水量は多くないが、足を取られる速さの敵にとっては、それなりの障害になる。
「渡る」
クラウスは短くそれだけ言った。
四人と一人、冷たい水に足を浸けながら、沢を渡り切った。水は凍えるほど冷たく、フェリクスの担架を持つ手が滑りそうになる。それでも誰も落とさなかった。対岸に上がったところで、追ってくる足音が、ようやく遠ざかり始めた。
窪地に残してきた足止めの跡は、じきに敵の目にも留まるだろう。だが、それを気にする余裕は、今はなかった。稼いだ時間は戻らない代わりに、確かに距離へと変わっていた。四人は、その距離だけを頼りに、次の場所へ向かって歩き出した。振り返る者は、誰もいなかった。前だけを見ることが、今できる唯一の選択だった。
読んでくださりありがとうございます!
・本作を★★★★★で評価
・ブックマーク
この二つで応援していただけると、とても励みになります。




