第12話 届かない矢
【聖暦346年 晩秋/ドレイク家館/グレゴール】
西方諸侯の評定の間には、いつも二つの声があった。
「交易を止めるな」
セドリックが繰り返すのはいつもその一言だった。国境の小競り合いは商人にとって邪魔でしかない。荷が止まれば税収も止まる。関税を治める七家にとって、戦は儲けにならない限り歓迎されない仕事だった。
「これ以上続けるなら、評定にかける」
マーロウの声には脅しの響きがあった。七家のうち一家だけが突出して兵を動かすのを、他の家は面白く思っていない。ドレイク家の名は、すでに何度かこの場に上がっていた。度を越せば、七家全体でその家を裁く場が開かれる。それが評定という言葉の意味だった。
どちらの声も、ドレイク家の当主グレゴールの耳には届いていた。届いた上で、彼はまだ止めるつもりがなかった。評定の間から下がる馬車の中で、彼は窓の外に流れる国境沿いの畑を眺めていた。今年もまた、収穫は豊かではない。豊かでない土地ほど、隣の土地の水と道が欲しくなる。
「押す。ただし、退けなくなるところまでは押すな」
グレゴールの指示は短かった。軍事責任者のカスパルは、その一言をどう軍事目標に翻訳するかを考える役目だった。短い指示ほど、翻訳の幅は広く、責任も重くなる。
「正面はもう試しました。押し切れないと分かっただけです」
カスパルの言う正面とは、数日前のヴェルト側小隊との衝突のことだった。数の上ではこちらが勝っていたはずが、崩れかけた中央を、向こうの誰かが土壇場で立て直した。名前までは報告に残っていない。ただ、崩れなかったという事実だけが、苦い後味とともに記録されていた。
「なら、狼煙台です」
カスパルは地図の上の一点を指した。国境沿いの高台に建つ、監視のための小さな砦。あそこを押さえれば、正面で削り合うよりよほど安く、相手の目そのものを潰せる。狼煙が上がらなくなれば、ヴェルト側は次の一手を後手に回すしかなくなる。
「壊すな。一時的に借りるだけだ、という形にしろ」
グレゴールの条件はそれだけだった。恒久的な領有には見せない。あくまで国境警備上の一時的な措置だという建前を、最後まで崩さないこと。それがセドリックやマーロウへの言い訳にもなる。
カスパルは頷き、武闘派のダミアンに出撃を命じた。
「難しいことは分からんが」
ダミアンは肩の得物を担ぎ直しながら言った。
「どこを抜けばいいかだけ教えてくれれば、それでいい」
その一言に、カスパルはこれ以上の説明を諦めた。ダミアンに戦略の意味を理解させる必要はない。抜くべき場所さえ分かっていれば、あとは十分すぎるほど働く男だった。
評定の間に戻れば、セドリックとマーロウはまだ同じ言葉を繰り返していただろう。交易を止めるな。これ以上なら評定にかける。だが、その二つの声も、実のところドレイク家を本気で止める気はなかった。七家の中で最も声が大きいのは、七家の中で最も兵を持つ家でもある。誰も、進んでその機嫌を損ねたくはなかった。
グレゴールはそのことを承知の上で「押す。ただし退けなくなるところまでは押すな」と口にしている。声を上げる家があるうちは、まだ引き際を自分で選べる。声さえ上がらなくなった時が、本当に危ういのだと、彼は知っていた。
【聖暦346年 晩秋/狼煙台/フェリクス】
狼煙台の柵に、最初の槍が突き込まれたのは、その日の昼過ぎだった。
突いた兵の槍を、大男が左手で掴んだ。フェリクスは、それを見た瞬間、背筋に冷たいものが走るのを感じた。柄を握られた兵は、当然のように引き戻そうとする。二人がかりで引いても、槍は戻らなかった。
「離せ!」
フェリクスが叫んだ時にはもう遅かった。三人目が横から斬りかかり、大男はそこで初めて槍を手放した。二人の兵がまとめて後ろへよろめく。振り向きざまの一撃を、盾を構えた兵がどうにか受けた。盾は割れなかったが、持っている兵ごと後ろへ運ばれていく。
止まったのは、槍・盾・剣、三人がかりでようやくだった。押し返せてはいない。ただ、足を止めているだけだった。それでも、十分だと思えた。そのはずだった。
「右!」
声が飛んだ。大男に三人を割いた分、隣の柵が薄くなっていた。ドレイク兵がそこへ入り込む。フェリクスは兵を二人回した。埋まる。だが、その二人が抜けた場所が、今度は空く。
守っているのではない。空いた穴を、次の穴で埋めているだけだった。それに気づいた時には、もう全体を見渡す余裕がなくなっていた。
「退け! 東へ下げろ!」
フェリクスは叫んだ。台を守るための声ではなかった。もう、それだけの声だった。
【聖暦346年 晩秋/狼煙台への道/クラウス】
その日、クラウスたち四人は、狼煙台への矢の補充搬入という、地味な任務で駐屯地を出ていた。定期的な物資搬入で、危険な任務のはずではなかった。
「今日は帰ったら風呂に入れるらしいぞ」
ロルフが荷馬の手綱を引きながら言った。
「本当ですか。だったら足取り軽くなります」
テオが即座に反応する。荷馬のひづめの音に混じって、テオの声だけが少し弾んでいた。アンナは荷の縄の締まり具合を確かめながら、二人のやり取りに小さく笑っていた。
「矢の数、多めに積んでるみたいだけど」
「哨所は雪が来る前に備蓄を厚くしたいそうだ。書類にはそう書いてあった」
クラウスが答えると、ロルフは肩をすくめた。書類の理由と現場の理由が食い違うことは珍しくない。誰もそれ以上気にしなかった。
「あそこの哨所長、会ったことあります?」
テオが荷馬の横を歩きながら聞いた。
「一度だけ、書類のやり取りで名前を見ただけだ」
「フェリクスさんとかいう人でしたっけ」
「よく覚えてるな」
「だって、俺たちより階級上の人が、こんな辺境の見張り台にいるの、なんか変じゃないですか」
テオの言葉に、ロルフが軽く笑った。
「変な配置なんて、この国じゃ珍しくもないだろう」
アンナが荷の上から二人の会話に加わった。
「無事に届けて、無事に帰る。それだけの日にしましょう」
誰もそれに異を唱えなかった。この時点では、まだ誰もが、それだけの日になると思っていた。
狼煙台が見える丘の裏手に差し掛かったところで、クラウスは足を止めた。
何かが、いつもと違う。
空気の張り方がおかしい。遠くで、金属のぶつかる音が途切れずに続いていた。矢の補充などという呑気な仕事の音ではない。
「ロルフ、荷を止めてくれ」
命じる言葉ではなく、頼む言葉だった。ロルフはそれだけで察し、荷馬を木立の陰へ寄せた。テオが息を呑む音が聞こえた。アンナはすでに救急の道具袋の紐を確かめ始めていた。
丘を回り込んだところで、逃げてくる兵とすれ違った。一人、また一人。装備は半分脱げかけ、顔には血の気がなかった。
「狼煙台が、正面から破られた」
最初にすれ違った兵が、そう吐き捨てるように言って走り去った。呼び止める間もなかった。
クラウスは丘の上から狼煙台を見下ろした。
守備隊は十二、三人ほどのはずだった。今、その隊列はもう隊列の形をしていなかった。押し寄せる敵の数は、明らかにこちらより多い。中心にいる大柄な男が、盾ごと兵を跳ね飛ばしているのが見えた。
聞かれてもいないのに、答えだけが先に出ていた。理由を考えたことはない。ただ、そういう質なのだと思っていた。
崩れているのは、隊列の形だけではなかった。誰がどこを守り、誰がどこを諦めるかという判断そのものが、もう誰の頭の中にも残っていなかった。守るべき線はとうに消え、あとはただ、押し寄せる数がどこまで届くかだけの場所になっている。
ここへ四人足しても、一緒に沈むだけだ。
分かっていて、足が止まらなかった。
「クラウス、行くのか」
ロルフが低く聞いた。答えないまま、クラウスは丘を下りかけていた。
だが、下りきる前に、もう一度だけ見た。
正面はすでに崩れていた。押し寄せる敵の数に対して、こちらの立て直しの余地はどこにもなかった。四人がそこへ入ったところで、守れる隊列自体がもう存在しない。加わる場所がない。
助けに入ろうとして、入れる場所を探して、探した先にその場所がなかった。何度見ても、答えは変わらなかった。
「――ロルフ」
クラウスは丘の中腹で止まった。
「正面には、もう入れない」
「じゃあ、どうする」
「哨所長を探す。逃げるならこっちの道しかないはずだ」
クラウスの目は、すでに狼煙台の裏側、崩れかけた守備隊の背後にある細い道を追っていた。あそこが、生きて出られる唯一の隙間になる。正面の崩れを立て直す道具は、この四人にはない。だが、そこから逃げる誰かを一人でも拾うことなら、まだできる。
「アンナ、道具は」
「いつでも」
短いやり取りだけで、四人は動き出した。テオが最後にもう一度、崩れていく隊列を振り返った。何かを言いかけて、結局何も言わなかった。
裏の道を駆け上がったところで、クラウスたちは倒れている男を見つけた。少尉の徽章をつけたその男は、腹から血を流しながらも、まだ自分の足で立とうとしていた。
「――お前ら、誰だ」
「補充部隊です。矢を届けに来ました」
クラウスがそう答えると、男は乾いた声で笑った。血の混じった息が漏れた。
「間に合わなかったな」
「フェリクスさんですか」
哨所長の名は、事前に受けていた任務書に書かれていた。男は頷く代わりに、狼煙台のほうへ目をやった。旗が下ろされ、見知らぬ旗が上がろうとしていた。
「台は、もう」
クラウスは、それに答えなかった。
「今は、あなたを連れて下がります」
「――俺の隊は」
「今、何人残っているか、分かりますか」
フェリクスは答えなかった。答えられなかった。目だけが、まだ丘の上を追い続けていた。
アンナが駆け寄り、傷を確かめて顔色を変えた。
「これ、今すぐ縛らないと」
アンナの手は震えていなかった。布を裂き、傷口に当て、力の入れ加減を確かめながら縛っていく。数えきれないほど繰り返してきた手順を、今もただ淡々となぞっていた。
「やってくれ」
クラウスは短く答え、周囲に目を配った。追ってくる足音は、まだ聞こえない。だが、いつまでも聞こえないままではいられないことは分かっていた。ロルフが少し先の茂みに身を寄せ、テオが反対側を見張っていた。誰も何も言わなかった。言葉より先に、体が動いていた。
丘の向こうで、狼煙台の頂に、見慣れない旗がはためいた。
風に乗って、勝ち鬨とも呻きともつかない声が、途切れ途切れに届いた。
木立の陰に残された荷馬車には、届けるはずだった矢が、そのままの数だけ積まれていた。誰も取りに戻る余裕はなかった。冬に備えて厚くするはずだった備蓄は、届く前に、届け先そのものを失っていた。
ロルフがちらりとそちらへ目をやり、何も言わずに視線を戻した。テオはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、結局口を開かなかった。アンナはフェリクスの傷口を布で押さえ続けている。
クラウスは、荷馬車のことも、正面に残った兵たちのことも、今はまだ考えないことにした。考えたところで、今この場でどうにかできることは増えない。増やせるのは、目の前で血を流している一人を、生きたまま丘の下まで運ぶことだけだった。
「ロルフ、道は」
「こっちだ。俺が先に行く」
答える声に、迷いはなかった。四人は、旗の色が変わった丘を背に、細い裏道を下り始めた。
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