後悔は千草の如く5
僕は太腿からナイフを抜いて苛立ちを吐き捨てる。
「魔女、眠らせてるって言ってたよね?」
「すみません、私の匂いに気付いたのかも」
「でもここから地下は遠いし……」
「推測でしかないが、『これから船に乗せる魔女もいる』って言っていたから、その魔女が騒ぎ出したんじゃないかな。一体が目覚めて、その喚き声で他の魔女も目覚めた可能性が高い。薬が効きにくい個体もいるだろうしね」
騒ぎ出したのは一体だけではない。マスターはそう考えているみたいだった。それは当たっているのだろう。何しろフロア一帯に衛兵が見当たらない。地下か一階でも魔女による惨事が起こっている。
その証明に、騒がしいエレベーターが上がってくる。衛兵の死体と二体の魔女が柵の向こうで揉み合っていた。柵は圧し折られ、魔女の号叫が無数に響む。
「チッ……増えたな……」
「メイちゃんはあっちの魔女を頼む。私とユニスは上がってきた魔女を仕留めるよ」
「分かった」
任されたのはバーにいる魔女。ユニスとマスターはエレベーターの方へ駆けていく。実弾を伴わない発砲音。魔女と船の悲鳴。それを片耳で捉えつつ、標的たる魔女と睨み合う。
『メイ、手伝う?』
魔女がバーの敷地から飛び出す。突き出された爪が僕に届くまで約一秒。片足を下げ、腰を屈め、迎え撃つ準備は万全。
迫撃を躱しつつ首を振ったが、シャノンに伝わったか分からない。ナイフを裏返した僕は魔女の腹部を穿孔した。
「ぅううう……!」
「大丈夫だよ。僕一人でやれる。弾は残しておきたいしね」
魔女の胸倉を掴んで刃を引き抜く。従業員を巻き込まぬよう、カードルームに続く廊下へと魔女を蹴り退ける。
天光の届かない通路で照明の明かりが翻った。仰臥した状態から跳ね上がった魔女がランプを毀壊する。飛んできた金属と傘。ランプの残骸を屈んで躱し接近。鏡映しの如く双方拳を振り上げていた。
互いの攻撃は空無を穿つ。空振りは寸隙すら挟むことなく追撃へ転じる。ナイフは何度も魔女の前腕を傷付けた。切断に至らないのは力を込める前に逃れられるから。そのうえ鋼の如く硬いせい。出鱈目に振るわれる魔女の腕は、真刀と同等の鋭さを見せつける。
鮮少の血液が反目の間に跳ねては失せる。切り傷が増えていくのは魔女だけではない。腕、頬、肩、僕の方も少しずつ表皮を掻いそがれていた。
魔女の突きを回避すると共に跳躍する。泣きじゃくる童顔に僕の足首がぶつかる。涙に触れても勢いを緩めはしない。そのまま鼻をへし折って蹴りつける。乱れ髪の向こうで透徹が砕けた。
喫煙室の硝子が圧砕され、残った木枠に魔女が凭れ掛かる。その首を断つべく切っ先を振り下ろすも魔女の退避は速い。剣先は木目を抉っただけで血痕を伴わなかった。魔女は下。床に屈む姿は獣のよう。獰猛な涙眼が光り、僕を睨めかける。
ナイフを構え直した乃時、崩れたのは足元。引き摺られたのは絨毯。倒れかけた僕に跳梁した魔女の影が落ちる。すかさず避ければ荒々しい着地は僕の背後へ。振り向きざまに刃を振るえば運がいい。魔女の片腕を切断していた。
「ああああ!」
魔女の悲鳴は更に大きくなる。頬を裂きそうなほど大口を開けたまま、紅雨を散らす。残っている腕を振り乱しての痛撃。それを横目に、裸足の甲へヒールを叩きつけた。
次いで打ち込んだ肘は魔女の横隔膜に沈む。肋骨を軋ませた感触が指先まで這い上がってくる。彼女の体温を感じる前に、その痩躯はカードルームへ投げ出されていた。
こじ開けられた鉄扉が金属音を立てながら外れ、魔女の傍へ倒れ込む。
戛然と、僕のヒールが鉄の上に立つ。植物の彫刻を踏み躙って更に跳躍。魔女に向けて鋭鋒を翳せば避けられる。一台のテーブルが倒され、トランプが宙に舞った。
小刀と鋼鉄の腕による剣戟は止まない。金属が転がり続けるような応酬は鐘声さながらに高く重い。刃を返す都度シャンデリアの輝きが爆ぜ、白い火花にたびたび丹花が混じる。
暴れ回る魔女の裸足が、僕の腹部に触れた。奥歯を噛み締める。臓物が潰れる感覚に牙噛んだ即下、背中は黒革の椅子に打ち付けられる。部屋の面積は広いが家具のせいで足場は狭く、そのやりづらさに舌を打った。
魔女はインテリアなど意に介さず。シャンデリアを掠めて舞い上がる。僕が壁際に飛び出すと、魔女はテーブルを壊裂させていた。
チェス盤が跳ねて小さな駒が散乱。眼前に迫った玩具の歩兵。顔を傾けると歩兵は壁にぶつかって地へ落ちる。魔女はその駒と同じ軌道を辿った。だが、通過はさせない。
素手で彼女の胴を通徹した。藻掻く背中の向こうで、指に絡んだ内臓を握り潰す。そのまま腕を引き抜けば、裂けた腹部から血と臓物が溢れた。魔女は青ばんだ唇から血を吐き、それでも抗い続けた。
見交わした僕達の体温はもう一度繋がる。細腕が僕の肩を貫通して、攻撃の手はそこで停止した。彼女の前腕部を肩口で握り潰す。掌理で骨と肉がひしゃげていく。空いている手でナイフを逆手に握り、眼前の悴首へ宛がった。
腥い猩紅が迸る。音骨はぷつりと折れて余韻さえもかえらない。憎々しげに見開かれた瞳。それが瞑する様を見届けることは出来なかった。転がった首は僕に項を向けて眠ってしまった。
束の間の恬静に小息を吐く。魔女の腕を肩から引き抜いて、血塗れの片手を舐めた。指の間に残る肉塊を喰み、空いた傷口を魔法で塞いでいく。
『メイ、後ろ!』
シャノンの叫びが頭蓋に響くと、息を呑みながら振り返った。魔女は完全に仕留めたはず。構えたナイフを掠めたのは、また別の魔女だ。短髪の少年が前方に着地し、咆哮と共に僕を振り仰ぐ。
カードルームの出入り口は三つ。廊下に繋がる二か所と甲板に繋がる広い扉。廊下側の扉がまた轟いて女の魔女を招き入れる。正面と後背に敵影。冷汗が下るのに口角は吊り上がっていった。
「ハッ……ちょうどいい。動き足りなかったんだ」
勁風は前後から僕を圧迫する。屈んで手を滑らせたのは影の中。すかさず頭上に突き出した爪先は少年の腹をたわませる。彼は高く、高く飛ばされた。
さざめく金属音。シャンデリアに絡みつく彼。僕は女の魔女を瞥見。両腕で彼我の間隔を切り苛む彼女。踵を鳴らして退避、回避、回転しながら持ち上げた椅子を女に打ち込む。
女への注視はかしがましい照明に引っ張られた。少年がシャンデリアをかち落とし、砕片が煌めく中で僕だけを見ている。その虎視は今や現前。速い。人間を喰らってからここへ来たのか、鼻先に触れた呻き声は血の香りがした。
彼の頭部を片手で払い除ける。カーテンを掴んで倒れた彼が布地を破く。立ち上がる前に追撃。その腹部に靴底を打ち込もうとした。けれども彼が起き返る方が先。床板を軋ませて舌を打つ。
近付く足音が二人分。僕は少年の懐へ踏み込んだ。薄汚れた衣服を掻い繰り、そのまま後方へ引き摺る。血飛沫が上がった。少年は僕の壁となって、女に心臓を貫かれている。その背を蹴飛ばしてやれば、彼らはより深く繋がれる。
抱擁は長く続かなかった。女は煩わし気に少年の胴を横截。僕は崩れた少年の頭部を踏み抜き女に迫る。
赤らんだ眦が僕を映す。その顎をナイフの柄で殴り上げた。無防備に晒された喉へ切っ先を伸ばす。穿刺する前にこちらの脇腹が歪んだ。
「く……っ!」
押し出された宙で体を捻り、テーブルの上に着地。女は僕を払った姿勢のまま、片足を揺らしていた。踊るような足付きで進行方向を定める。道筋を決めた魔女の頭脳に躊躇は生じない。泣き声じみた哄笑が目睫に至るまで、寸閑。
一弾指の間に互いの得物が擦れ合った。狭い机上で足を払えば魔女は別のテーブルに跳ねていく。今度は僕が追う側。翻る刃。肉を削ぐ魔女の爪。
テーブルを鳴らし、椅子の革を引き攣らせ、玩具を蹴散らす。カードがはらめく目界で、魔女の矛が一枚の心臓を押し潰した。紙は血を流さない。膏血を噴き出したのは魔女の腕。
突き出されている腕が退く前に切断してやった。太刀先は流れを止めない。振り抜いた刀身を翻し、首に狙いを定める。喉を掠めた。表皮を削いだ感覚が拳固に伝った。それは致命傷にならない。
魔女は軽捷に後方へ。着地はバネのよう。弾丸さながらに間髪入れず飛び出した魔女。骨を浮かせた片手は僕の心臓を捉える。狙いが判然としているからこそ簡単に免れられる。
上体を反らした僕と魔女はすれ違う。触れたのは空気だけ。奮然たる叫びが肌を痺れさせた。僕を打擲するはずだった力は、甲板に繋がる扉を毀棄して冷気を取り込んだ。
強い海風が不香の花を漂わせる。曇り空は仄かに赤ら引いていた。甲板に下りれば靴音は高くなる。頬に触れた白片は冷たくて、僕を冷静にさせた。
船を取り巻く漣漪の音柄に、魔女の唸りが重なる。彼女の片腕から滴る血液が、床板を染めながら溝に溜まっていく。灰色の雪景色に点々と赤が四散した。
駆け出した魔女が色彩を散らす。さざなみの音が消えるほど彼女は哭する。理性などないはずなのに、見開かれた眼は涙ぐんでいた。
透明な滴と、赤い流血と、真白な六花が斜陽で煌めく。切り裂いたのは無感触の涙。赫々たる光だけが刃に残る。彼我の一手は交わらぬまま背を向け合った。
それは眇たる空隙でのこと。瞬きすれば僕達は打ち合っている。雪で濡れた床は跫音をいやに高鳴らせていた。
息無しに攻防を切り替える。彼女がふれる先を正確に逆睹する。肩を逸らして引き避きつつ反撃。首筋へ打ち込む一閃。
魔女の長い髪が風を孕んで遠のいた。後退した影へ踊り入る。逃がしはしない。
叫び続ける声帯を貫かんとすれば、彼女の片腕が割り込む。こちらの刃金は彼女の尺骨を押し広げて皮下へ潜り込む。
張り詰めた皮膚がはちきれる前に彼女は更に背進。甲板の柵には彼女の影がかかった。
波声が渦巻いて魔女の声をも呑み込む。刃音がそれさえも突き破る。涼やかな璆鏘が一面に鳴り満ちた。それは魔女によって払い除けられたナイフの音差し。
空いた手の平が、凍り付いた天花を握っていた。武器をなくした僕は徒手での戦闘に思考を切り替えようとした。その判断は間緩い。
魔女の拳が僕の肋を押し上げた。吐き出した息は赤く染まって見えた。両足が地面から離れる。
下瞰した足場が遠い。腕の紐がひらめいて晩照を明滅させる。夕焼けが眩しい。
紅霞の隙間から日輪が僕を見ていた。見下ろすでも見上げるでもなく、輝きは目線の高さにあった。
その色差しは燃えるように赤く、僕は、夕轟きを覚えていた。
血の味を呑み込んで目を細める。伏せた睫毛に灰雪が絡む。
転瞬ののち──炯眼を突きつけたのは着地点。元いた甲板には着地出来ない。波打つ水が僕を手招く。汪汪たる海の広さを知った。けれど、溟海には落ちるものか。
伸ばした手が白い柵を掴む。その鉄は氷の温度をしていた。腕に力を込め、二階ではなく一階の甲板に這い上がっていた。
魔女は僕に跟随し、上階から軽々飛び下りてくる。鳴き声を漏らして僕を窺う女の姿は、まるで遊び相手に縋る子供のよう。何も言わずとも矢庭に攻めてくるはずだ。
それでも。
「──おいで」
それでも声を掛けたのはどうしてだろう。同じ魔女として、自我さえ失くした彼女とも対等に在りたかったのかもしれない。一人の『人間』として、葬りたいのかもしれない。
「うあああああ!」
彼女も人だったのだ。認識し直せば哀哭が痛ましい。赤い紐が躍る。寸断を躱して、躱して、細腕を掴み取った。手放すことなく捻り上げれば、暴れる彼女が落涙する。その滴に色はなく、感情もない。僕の言葉も届かない。
朱殷が彼女を泣き止ませた。素手で切り払った生首は床に落ちる。
彼女の躯幹が崩れ落ちる前に、片腕で抱き留めた。腕に伝う血液が温かかった。
亡骸を横たえて眉間の皺を緩めていく。
己の腕を掻き抱いていた。魔女の証たる、赤い紐。忌まわしいもの。エドウィンもこれを見るたび顔を顰めていた。
ずっと、魔女に対する憎しみだと思っていた。彼にとって魔女は厭わしいものでしかないのだと思っていた。どうして今、あの眼差しを思い出して、今更気付いてしまったのだろう。
彼は、魔女の境遇を憂いていたのだ。
復讐と称して振るわれていた刃は、何度も魔女の涙を終わらせてきた。無辜の人間を魔女に変えた研究者へ、色濃い憎悪を向けていた。
──魔女にならなければ、幸せに生きられたはずなのに。
「……終わらせないと」
独り言ちた決意は熱くて、冷たい空気を白らかに染めていた。揺蕩したコートには、彼の香りが残っていた。両手で襟を掴んで、しかと背負い直した。




