喚想するウィスタリア2
(二)
僕が起きてきた時にはもう、マスターは酒場にいなかった。朝方の彼は最近、頻繁に外出している。ユニスはまだ寝ているようで、一人きりの酒場は閑全としていた。食器を鳴らす音もよく響いて木霊する。
作りたてのスクランブルエッグを皿に取り分ければ、バターの良い香りが空腹を刺激してくる。卵と一緒に焼いていたベーコンも、香ばしい薫香を広げながら皿に落ちていった。作り過ぎたようで、皿いっぱいにのせても半分ほど残ってしまった。
丸いパンを半分に割って、それは別の皿へ。二つの皿をカウンターに並べた後、銀器を手にして客席に腰掛ける。
今日の夕方になれば、グレンさんが僕達を迎えに来てそのままオペラに向かう予定だ。そこで『魔力の花』や『神の住む島』について知る原作者と接触出来れば、僕達は目的地を定められる。
パンにバターを塗り付け、咀嚼していたら階段の方から靴音が聞こえてきた。ユニスは紺色のワンピースを揺らして一階の床を踏みしめた。僕をかえりみた彼女の目元は赤く腫れていて、動揺してしまった。けれど彼女が事も無げに笑うから、僕が指摘するわけにはいかなくなった。
「おはようございます、メイさん。良い匂いがしますね」
「おはようユニス。朝ごはん、フライパンの中に残ってるから食べていいよ。まだ冷めてないと思う」
「じゃあ、いただきます」
僕の咀嚼音と、ユニスの歩みが重なる。食器棚から皿を取り出した彼女は、フライパンを両手で持ち上げて数秒硬直していた。普段彼女は、よそわれたものを食べるだけの立場ゆえ、フライパンの重さに慣れていない。助け舟を出そうかと思ったが、フライパンは勢いよくひっくり返される。中身は勢いよく、皿の上に落っこちる。
豪快な盛り付け方に苦笑していれば、ユニスは棒状のパンを切り始めた。
「メイさん、オペラに行くときは私の服を貸しますね」
「服? なんで?」
「ドレスコードはないかもしれませんが、女の子のお体なんですからワンピースの方が無難です」
「そっか。じゃあ後で借りるね」
二切れのパンを皿にのせた彼女が、僕の隣に腰を下ろした。僕が味付けをしたスクランブルエッグを一口頬張り「美味しい」と漏らした童顔は華やいでいた。僕も食事を進めつつ、耳底に残る『既視感』から記憶を辿って──辿り着いて、目笑した。
「ちょうどこの前、ユニスに服を借りる夢を見たんだ」
「えっ、レストランでも行ったんですか?」
「ううん、ワッフルが美味しい喫茶店。エドウィンと二人で──……」
見えない手に後ろ髪を引っ張られ、僕は物語るのをやめた。シャノンの溜息で脳が揺れる。失言に気付いた僕は眉間の皺を押さえていた。
ユニスはエドウィンのことが好きだったのだ。僕やシャノンと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、絶え焦がれていた。夢の話とはいえ、そんなユニスを差し置いてエドウィンと二人で出かけただなんて、嫌な気持ちにさせてしまうだろう。
仮に恋愛感情がなくとも、彼はもう故人だ。辛い思い出に繋がってしまう。
失敗した、と唇を噛んでいれば、ユニスはくすっと笑った。
「私も、エドウィンの夢を見ました。二人きりの花畑は静かで、彼の声が鮮明に聞こえるんです。彼、私の髪を綺麗に編み込んでくれて……でも、起きたら髪はほどけてた。当たり前ですけど、残念でした」
ユニスはパンを一枚食べ終えると、両手を軽く払ってから長い金髪に触れていた。指を通していく髪状に結ばれた形跡はなく、夢物語は夢のまま粛然と沈んでいった。
僕はナイフとフォークでベーコンを持ち上げ、パンの上にのせた。皿に残っているスクランブルエッグをその上にのせると、大口を開けて食い付く。卵の甘さとバターの香り、ベーコンの塩気と胡椒が、小麦の風味と溶け合った。最後の一口を見つめつつ、口内のものを嚥下する。
「メイさん、ご飯を食べ終えたら私と戦ってくれませんか」
僕は、口を開けたまま固まった。唾だけを呑み込み、ユニスを見遣ると、彼女は食べかけのスクランブルエッグを見つめて真剣な目をしていた。
「昨日、マスターに言われました。今から接近戦を鍛えても、付け焼き刃の子供の技に屈する衛兵はいない。基本的には銃を使って戦えって。戦闘時に銃を手放してしまった時や、魔力がなくなった時にナイフを抜く。そうしてあくまで護身のために使いなさいって。だから咄嗟にナイフを抜く動作や、ナイフに持ち替えた時にちゃんと戦えるか、試したいんです。今夜にマスターとも訓練をしますが……その前にメイさんと戦って、少しは強くなりたい、です」
マスターはもっと、女子供に甘い印象があった。それでも命のやりとりをする際は、相手がユニスだとしても厳しく正論を告げてくれるらしい。ユニスは納得しつつも不満があるようで、桜色の唇は些か尖っていた。
彼女に頷きつつ、手元のパンを口腔に押し込む。噛み砕いて飲み込み、丸い椅子の上で体ごとユニスの方へ向き直る。
「じゃあ僕は、全力でユニスの拳銃を払い飛ばしに行けばいいんだね?」
「ええ。銃弾は……魔力の弾丸だと痛いですよね」
「気にしないで撃っていいよ。僕は魔女だから、多分首を刎ねられない限り死にはしない。……シャノンには申し訳ないけど」
『今更でしょ。メイみたいに痛くないから気にしないで』
僕の横髪が柔らかに、それでいて不自然に揺れる。風のない室内での揺動は、シャノンの了承であるとユニスにも伝わった。ユニスは微かに笑みを浮かべた。だけどその顔気色は浮かない色をしていた。
「分かりました。では、メイさんも私が死なない程度に切り飛ばしてください。腕でも足でも断ち切って構いません」
「いや、それは危険だから……」
「手を抜かれたら、手合わせの意味がありません。貴方が『自分は魔女だ』と言うのなら、魔女と戦う感覚を私に味わわせてください。そうじゃないと……貴方達と一緒に肩を並べて戦えない。私もちゃんと、戦いたい、のに」
俯いていった彼女の相貌は窺えなくなる。生成り色の前髪が垂下して、飴色の照明を真っ直ぐに受け流していた。小さな握りこぶしが、紺色のワンピースに皺を生んでいく。
やがてたった一言、零されたものは涓滴の音によく似ていた。鼓膜に届かず消えてしまいそうだったその余響をどうにか捉えて反芻した。
ごめんなさい。彼女は今、そう言った。
何故謝られたのか分からず、言葉に詰まる。然無顔で惑う僕の前で、ユニスが髪を振り乱した。僕を見上げた彼女の花顔は、泫然と濡れていた。
「メイさん、ごめんなさい。私、あの日……エドウィンの傍にいなくて。私、エドウィンやメイさんが戦っている時に、一人で何してたんだろうって……! 本当はずっと、ずっと引き摺ってて……! もう、あんな思いしたくないのに強くなれなくて……!」
透明な真珠が光りながら、彼女の裾に染みていく。声を掛けようとした唇が、咽喉が、引き攣る。吐き出された後悔は、僕の胸宇にある真情と共鳴していた。
僕達はあの日、違う形の杭を呑み込んで、同じ痛みに苛まれていた。
目の前の彼を救えなかった僕も、遠い所で彼を失ったユニスも、自分を許せないのだ。喉が締め付けられるくらい、彼女の思いが分かる。僕達が違う道を選んでいれば、違う結果になったかもしれない。
僕達は何度も通過した三叉路を見返す。引き返せない道を進んでも、振り返ればまだ分岐点が見える。もう戻れないのに、過ぎた道は無数に枝分かれしていく。
振り返っても見えなくなるまで、進み続けなければ辛いまま。
僕は離席してユニスに歩み寄った。丸められた彼女の拳固に、そっと触れる。彼女が怯えていないのを確かめて、そっと握り込む。
彼女が落ち着くまで、体温を注ぎ続けた。掻い澄んだ隔たりを埋めるのは互いの息遣いだけ。どんな美辞も慰めにならない。口無しの僕達は音のない慰めを求めていた。
暫くして、ユニスの両手から力が抜けていく。握り拳を緩めた彼女は手の平を裏返し、僕の指先を軽く握った。
暖色の照明の下で、僕達は温かく咲笑う。ユニスの憂思は消えていったようで、晴れのいた藤色が僕を映していた。
「すみません。もう、大丈夫です。本当は、エドウィンに謝りたかったんです。でも、もう届かないから。メイさんに当たってしまって、ごめんなさい」
「ううん。君が、思っていることをちゃんと吐き出してくれて……良かった」
「……メイさん。私に教えてください。『魔女』と一人で戦う厳しさを。『魔女』としての貴方と、戦わせてください」
ユニスの心火は再び灯っていた。溶けた蝋燭を新しいものに取り換えたよう。丸い眼眸の奥で、燄燄とした炎が熱を放っている。
僕はコップの水を飲み干し、ユニスに頷いた。
「分かった。先に地下で待っているから、食べ終えたらおいで」
「あっ、私も一緒に行きます」
ユニスの皿に残っていたスクランブルエッグとベーコンが、小さな口内に吸い込まれていく。瞠若するほどの速さで食べ終えた彼女は、いつもの食欲旺盛で元気な姿を想起させ、僕の頬を緩めた。
皿は後で洗うことにして、僕達は地下に向かった。まだ朝といえど、地下に続く廊下は相変わらず暗晦だ。階段を下るたび互いのヒールが高く鳴る。地下室の扉を開けて電気をつければ、的皪とした光に目がくらみそうになった。
まばたきを繰り返して光に慣れつつ、僕は屈伸運動を、ユニスは武具の装備を始める。ユニスが埋め込み棚の一番下から取り出したのはショルダーホルスターだ。エドウィンが着けていたものとよく似ており、ナイフ用の形状をしている。彼女の体には大きく見えたが、紐を調整してどうにかサイズを合わせていた。
装着された肩紐は、ワンピースの白襟が整えられてほとんど隠れる。左右に一本ずつナイフを収めると、彼女は拳銃を携えた。取り外された弾倉が掠れた璆鏘を鳴らす。込められていた実弾を抜き取った後、僕達の影が直線上で繋がった。
ユニスから見た僕は、強張った顔をしていたみたいだ。緩頬した彼女は安堵を誘う笑い方をしていた。
「メイさん、安心して。私が傷ついても、メイさんが治してくれるでしょう? 腕の一本や二本、飛ばすつもりで来てください」
深呼吸をする。全力を出せるように、指先まで力を注いで拳を固めた。僕は武器を持たず、徒手のまま片足を下げた。飛び掛かる準備は出来ている。
ユニスは凛然と背筋を伸ばしていた。彼女の覚悟を見解く。覚悟が出来ていないのは僕の方。もう一度、深く息をした。
傷付けたくない仲間を、傷つける覚悟を求めた。彼女の言う通り、片腕くらい切断したほうが治癒魔法を練習している僕にとっても都合がいい。だけど出来るだろうか。何度も慰めてくれた彼女を、切り裂けるだろうか。
「……武器を構えて」
迷いは呑み込んだ。気道へ落ちたそれを遺却していく。僕はユニスの覚悟に応えることだけを意識した。同じ熱量をぶつける為に炯眼を突き付けた。




