喚想するウィスタリア1
*(一)
ああ、これは夢だなぁ、と、私はすぐに気が付いた。私が座り込んでいるのは見たことのない花畑の中で、手元には編みかけの花冠。大きな木が風に揺れ、落ちる翠影が花の色をちらちら変えていた。木暗がりは傍にいる私を包んだまま、数歩先の花とたわむれる。
冠を象った茎を整えて、白い花弁のふちを指でなぞった。私は、私が一人ではないことを知っていた。振り返れば『彼』がいる。木の幹に背を預け、座っている彼は静かに睫毛を伏せていた。
「エドウィン、起きてます? 寝てます?」
「……起きてる。どうかしたのか」
交睫をほどいて、けざやかな赤を晒した彼は私を平視した。彼の妙相は現実よりも夢中の方がよく似合う。楽園の中で、どの名花よりも色深しい解語の花が首を傾げていった。
氷肌玉骨の女性と見紛う面立ちも、凛とした柳眉が顰められれば男性らしい冷艶さを纏っていく。佳人薄命とはよく言ったもの。神様はきっと、存外美しく咲いた花は、それが萎れてしまう前に摘み取って押し花にするのだ。
私は、私達が皺だらけになっても傍にいたかったのに。
色とりどりの花が踊ったとき、爽籟と彼の呼声が重なる。「ユニス?」と、心地よい低音に、私はどうにか笑顔を見せた。
「花冠が出来たので見せびらかそうと思ったんです。ほら、見て見て」
シロツメクサの花冠を差し出せば、彼がそれを受け取った。まじまじと眺める目遣いは真剣で、さながら検品でもしているようだ。彼は結ばれた茎を矯めつ眇めつ。ようやく開口したかと思えば、落ちたのは感嘆が一つだけ。
「器用だな」
それは心からの賛辞で、口数の少ない彼が選んだ最良の褒め言葉だ。だから私は得意げに口角を持ち上げ──しかし、慌てて首を左右に振った。
「貴方だって出来るでしょ。いつも編み込み、綺麗ですもん」
少しばかり傾いている彼の顔。その額では、前髪が一部分だけ綺麗に編み込まれていた。彼の指先は私の目線を追いかけて、鈍色の三つ編みに触れていた。
彼はあまりお洒落をする性格ではない。前髪が邪魔だから編み込んでいるのか、と思いきや、右目は長い前髪の向こうで見え隠れする。そもそも髪を留めるだけなら編み込む必要もない。
きっと彼にとって三つ編みは、何か思い入れのあるものなのだろう。もしかしたら、妹さんとの思い出がそこに結ばれているのかもしれない。
「編み込みは、慣れれば簡単だ」
「私は出来る気がしません。ヘアアレンジって可愛いけど苦手です。三つ編みもなんか、ぐちゃぐちゃになっちゃいますよね」
「……髪、触ってもいいか?」
見つめ合った時間の中で、花弁が何枚か散っていた。嬉しさが緊張に負けないように、彼に誤解されないように、過剰なくらい頷いてしまった。
木漏れ日の中で彼は莞爾として微笑んだ。優しい表情に心が揺れる。彼に返された花冠を膝の上にのせ、自分の心音を聴きながら恥ずかしくなってくる。
私の後ろに回った彼が、軽い力で頭を撫でてくれた。ゆっくりとした手つきで、私の耳元から髪を梳いていく。涼しい風と植物たちがどれほどの音を生んでも、私の拍動のほうがうるさかった。
編み込むために髪を攫う際、頭皮や首筋を掠める彼の手。こんな風に触られるのは怖かったはずなのに、不思議と心地良い。彼と触れ合っていると、ゆりかごの中で寝かしつけられているような気持ちになる。
私は緩んでいく口元を一度だけ噛み締めて、彼に訊ねた。
「どんな髪型にしてくれるんですか? お姫様みたいな?」
「『お姫様みたいな髪型』はよく分からないが……三つ編みを左右に二本作って、残った後ろ髪と合わせて一つにまとめる」
「ふむふむ……鏡を見るのが楽しみです!」
「触られるの、嫌だったら無理はするな。言ってくれればやめるからな」
「大丈夫です。貴方に触られるのは、全く嫌じゃないです。嬉しくなります」
「……そうか」
ふっと落とされた吐息は多幸感を与えてくれた。彼の優しさが嬉しい。彼に触れてもらえるのが嬉しい。永遠を願ってから思い出す。これは夢でしかなくて、私の脳が見せている甘やかな幻想なのだと。
私の右耳の後ろから背中にかけて、一束の三つ編みが作られる。彼は次いで、左耳の後ろから髪を掬って編み始めた。
清らかな風の流れを黒目で追いかけ、頭を動かさずに見える範囲を回視した。私達だけの世界は人気がないどころか、建物さえ見当たらない。白い花々ばかりが私達を取り囲む。点々と赤い薔薇の低木も見つけ、紅白の色彩は彼への献花を連想させた。
「……ねえ、エドウィン。もし、貴方がもう亡くなっていて、ここが私の夢の中だったら、どうしますか?」
「なんだそれ。嫌な夢でも見たのか」
溜息混じりの彼はきっと信じていない。相槌でしかない返事に苦笑した。私はどんな言葉を期待していたのだろう。生前の、本物の彼なら、どんな言葉をくれただろう。
「……そうですね。ここが現実だったなら良かったのに」
二つ目の三つ編みは仕上がったのか、エドウィンの手が私の頭にのせられる。撫でてくれる感覚も、温度も、幻でしかないのに私を満たしていく。昼光がいつの間にか赤らびいていて、現実とは違う時の流れが空に在る。
薄い雲を天心にとどめたまま、空間は夕紅に綾取られていった。私を宥めてくれていた彼の手が、離れていくのを感じた。
「ここが夢なら、目が覚めるまで今を楽しめばいい。短い間だけでも嫌なことを忘れてちゃんと休め」
「『ずっとここにいろ』とか言ってくれないんですか」
エドウィンが私の後ろ髪をまとめていく。溜息も相槌も返ってこない悄然に息が詰まる。沈黙は決して長かったわけではない。ほの赤い閑雲が太陽を目指していて、だけどまだ届かない。黙りこむ私達をよそに、花々がさざめく。
夕照が雲隠れするまで返事が聴こえなかったら、このまま窒息してしまいそう。唇を噛みしめて、噛みしめて、血の味が滲む前に彼が言った。
「もし、ユニスの話が本当で──俺が死んでいて、お前は生きているのなら。お前は現実に行くべきだ」
その通りだ。私もそう思う。けれど、それは私が望んだ答えではなかった。込み上げる悲涼を呑み込めば喉が痛んだ。涼風がうなじを掠めていった。震えた背筋の向こうで、彼が立ち上がった。
「ユニス。髪、終わったぞ」
エドウィンを振り仰ぐ。綺麗にまとめられた後ろ髪は揺れなかった。私も両足で地面を踏みしめたが、背の低い私では、彼との距離は遠いままだった。
何を考えているのか分からない人形のような面差しはいつも通りの彼。幻じみた美しさは事実夢幻で、現前の彼に何を言っても無意味だというのに、感情は鎮まらなかった。
「私、エドウィンと一緒にいたいんです。現実にはもう、貴方がいないんです。大好きな人が、現実にはいないんです……! それでも、現実に戻れって言うんですか……!?」
この愛は彼に伝わらない。彼は私を子供だと思っているから、明確な愛を告げても恋情に結びつけてはくれない。
だからほら、やっぱり。
彼は愛の音差しに戸惑うことなく苦笑するのだ。どうやら夢は、私の理想を映し出してくれるわけではないらしい。
光の泡が膨らんで目の前を滲ませていく。赫々とした晩景に目が眩む。花の香りが近付いた。それは、咲き誇る生花のものではなくて、彼の心臓からこぼれる香りだとすぐにわかった。
片膝をついた彼が、私を抱きしめてくれている。眩燿に蝕まれていた両目には、今や彼しか映らない。
守るように包み込んでくれる長い腕。思いのほか薄い体。あたたかな温度も、鼻腔に透き通っていく佳芳も、在りし日と変わらなかった。けれど私達の心音が重ならない。彼の拍動が聴こえない。彼がもう死者だからか、脈打つ命は聞こえない。
私は、彼にしがみついていた。彼の胸郭に耳を押し付けて、華奢な体を抱きしめて、しばらく離れることが出来なかった。
どのくらいの間そうしていたのか。私の息遣いが落ち着いたころ、彼がゆっくりと私を引き剥がした。
彼の赤い虹彩に、私の影が溶けていく。真っ直ぐに私を見つめた、かと思えば、その美玉は虚空をさまよう。彼の、上下の睫毛が絡んで、ほどけていく。厚すぎず、薄すぎない花唇が開かれ、また結ばれる。
もう一度私達の焦点がぶつかった。彼の懸珠は砥がれた宝石のようだった。
「ユニス。夢に逃げていても現実はどうにもならない。誰かの死を、自分が逃げ出す理由に使うな」
彼は私を甘やかしてはくれない。彼が生きていたとしても、恐らく同じようなことを言われるはずだ。夢の中くらい、夢を見せてくれたっていいじゃないか。思いながら、エドウィンらしい彼に苦笑するしかなかった。
「いじわる」
「……悪い。また、言葉足らずだったな」
困り顔の彼に、首を左右に振ってみせた。気にするな、という意味だったのだが、彼はますます顔を顰めていく。その渋面は、私を咎める形ではない。彼自身を咎める形がそっと緩んで、彼は私に軫憂を注いだ。
「俺はただ……お前の足を引っ張るような存在に、なりたくはないんだ」
口を噤んだまま、彼の音吐を咀嚼した。理解した。私が無意識に彼を責めていたことを。決して、彼のせいだなんて思ったことはなかった。けれどもそれは、言葉にならなかっただけで万感の中に撹拌されていた。
申し訳なさと悔しさで頬が歪んでいく。寂しさの成れ果てはあまりに醜いものだった。それでも愛情が彼を求めてやまない。愛おしいから、苦しくなる。
私の涙眼を認めた彼が、優しい笑い方をしていた。赤い木漏れ日のもとで、彼は木の根元へ手を伸ばした。そこには私達の鞄が置いてあり、彼はその中から手鏡を二つ、取り出していた。
「そんな顔するな。髪型、綺麗に出来たから元気出してくれ」
私は目元を拭って、手鏡を一つ受け取った。「後ろ、向いてみろ」と彼が柔らかな色音で囁く。彼の顔ばせ、彼の声色、その全てに、誤魔化せないほどの愛おしさを味わった。
彼が亡くなる前から、自覚はしていた。それなのに、彼が亡くなってからも愛染は色濃くなっていく一方。これ以上好きだと感じても辛いだけなのに、色付いた鼓動は止まらない。
俯いていくまなこを持ち上げて、鏡を見つめた。彼が私の背丈に合わせた高さで、もう一つの鏡を持ってくれていた。合わせ鏡に映る髪型は、お姫様のよう。両耳のそばから細い三つ編みが伸びていて、後ろ髪はお団子みたくまとめられている。彼の器用さが、繊細な編み方から見て取れた。
「見えるか?」
「はい。とっても、可愛いです……」
「気に入ってもらえたなら良かった。そろそろ帰らないとな」
「まだエドウィンと二人でいたいです」
「そうか」
手鏡を鞄に仕舞い込んだ彼は、木の幹を背にして、私の隣に座り直した。私達の距離は夢の始まりと同じ。だけど、夢許り近付いたような気がした。
鏡を見つめていたら、頭に花冠が乗せられる。それは私が作ったまま足元に放置されていたものだった。鏡の中の私は、ますます幸せなヒロインみたいだった。
満足げに鏡を裏返して膝に置く。夕空には夜が降っていた。斑に落ちる濃藍は、いずれ茜色を攫い流してしまう。夢の終わりが近付いているように感じた。それは、エドウィンも同様だったのかもしれない。
「俺は何度も同じ夢を見ることがあったが……ここが夢なら、また会えるかもしれないな。だから今目覚めても、二度と会えないわけじゃない」
「……そう、ですね」
慰めは私に希望を与えてくれた。本当の彼にはもう二度と出会えない。だけど、一時の夢だとしても構わなかった。
もう一度、約束を願った。この約束は、いつかこの夢で叶うから。
私は彼の袖を強く引っ張った。
「私が成人したら、ここで一緒に踊ってください」
彼は呆然と、気抜けた顔で私を見つめた。凛とした目元が、ふっと綻ぶ。細められた彼の双眸は、夕焼けを湛えて花燭を灯していた。
「お前が俺のことを忘れなければ、きっと踊れる」
「忘れるわけないじゃないですか。死ぬまで、忘れません。現実でも、夢の中でも、貴方に何度だって花を贈ります」
瞬きをすれば空想の景色が僅かに移り変わる。すぐ傍に赤い薔薇が咲いていた。そっと摘んだ薔薇はたった三本の花束になる。私は両手で握ったそれを、彼のほうへ差し出した。
「私が成人したら、夢の中で貴方に百八本の薔薇を贈ります。でも今日は、三本で我慢してあげます」
「……よく分からないが、百八本を数えるのは大変そうだな」
「ゆ、夢ですから、きっと手品みたいにポンって百八本の薔薇が出てくるんです! ポンって! いいからコレ受け取ってください!」
子供じみた口吻に恥ずかしさを覚えていれば、エドウィンが少年のように笑った。とても楽しそうで珍しい、彼の一笑。彼は私から薔薇を受け取ると、その花弁を眺め入ってから顔を上げた。
天光はもう燃え果ててしまって、訪れたばかりの夜の中で彼の明眸が灯火になる。
「お前の夢が叶うことを、祈ってる」
烏夜さえ欺く洋紅を、しかと焼き付けた。彼という燭花があれば、どんな暗い道でも進んでいける。だから、今、焼き付けなければいけなかった。
「またな、ユニス」
彼が立ち上がる。薔薇を胸元に当てる仕草は、それを『大切にする』と告げてくれているようだった。微笑はすぐに後ろを向いてしまう。短いような、長い夢の終わりを、私は受け入れなければならない。
彼の眼差しが消えれば明かりのない暗夜だけが残った。離れていく影も見えなくなる。それでも、彼の赤い残燭を思い出せる。大丈夫。一人でも、歩き出せる。
だけど。
「っエドウィン!」
もう一度だけ抱きしめたくて、駆け出していた。まだ追いつけると思った。もし追いつけたとしても、彼はきっと呆れるだろう。
それでも許して欲しかった。彼の訃報を聞かされた時に、私がどれだけ泣いたかを彼は知らないのだから。
あの日。待っていれば、エドウィンもマスター達も帰ってきて、これまでみたいに笑い合えるのだと信じていた。彼と約束した未来も、マスターとの約束も、信じて待っていた。二度と会えなくなると分かっていたなら、私はマスターに攫われる選択をしなかった。
私は、貴方と一緒に戦いたかった。
あの日。どうして、と何度叫んだか分からない。貴方にも、マスターにも、噓吐きって言いたいのをどれだけ堪えたか分からない。喉が痛くてたまらなかったのを覚えている。
何より、皆が戦っていた中、一人で馬鹿みたいに幸せを信じて、紅茶を飲んでいた自分が許せなかった。私だって力になれたはずなのに。私も戦っていれば、私が彼の傍にいたなら、彼を守れたかもしれないのに。
守りたかったのに。
喉の奥に叫びが渦巻く。悲しみも苛立ちも沢山ある。しかし、愛情より、哀情より、本当はもっと、伝えなければならないことがあった。
私はまだ、彼に、謝ることが出来ていない。
零下の夜風が私を嘲笑った。強風でぐらついた足元は崩れ始める。落ちていく感覚に足を痙攣させ──私は床の上で目を覚ましていた。
全身が痛むのは夢ではなくて、確かな現実だ。絡まっている掛布団を引っ張りながら起き上がれば、ベッドのシーツは乱れていた。朝日が皺だらけの生地を白く染めていた。その皎皎は、濡れた瞳に眩しすぎた。
「…………痛い……」




