暮れなずむカメリア1
(一)
目の前には、色とりどりの衣服が並んでいる。僕はクローゼットの中を覗き込んで「何をしようとしたんだっけ」と首を傾げた。
「メイさん、デートのお洋服は決まりましたか?」
ノックと共に廊下からユニスの声が聞こえる。振り向いてから気付いたが、ここはユニスの部屋だ。可愛らしい動物のぬいぐるみがベッドに並び、本棚にはたくさんの童話や恋愛小説が詰め込まれていた。
方今投げかけられた『デート』という言葉にハッとして、壁掛け時計の針を瞥見し、慌てて布地を掻きわけた。正確な時間は分からなかったが、急がなければいけない、ということだけは分かった。
『二人で出かけたい』──と、エドウィンに伝えたのは昨日のこと。だけど、僕は二着しか服を持っていない為、ユニスに助けを求めたのだった。
服の良し悪しを見定めるのは難解だ。ワンピースやブラウスを手に取り、クローゼットへ戻し、熟考する。背後では扉が軋んで、ユニスの入室を知らせていた。
「ユニス。やっぱり君に似合うものだから、僕には似合わないかも……ユニスは、どれがいいと思う? 女の子の服ってよく分からなくて」
かえりみた先でユニスは寝ぼけ眼を擦っていた。長い髪を窓明かりで輝かせながら、僕に歩み寄る彼女。僕の隣に並ぶと、何色もの布地へ手を伸ばしてハンガーをカラカラ鳴らし始める。
「メイさんだって、お姿は可愛い女の子なんですから、どれでも似合いますよ。エドウィンとお出掛けなら、落ち着いた雰囲気の方が良いと思うので……コレとかどうですか?」
ユニスが持ち上げたのは、スモークブルーの質素なワンピースだ。朝靄でかすんだ青空みたいな色合いは、確かに落ち着いていて着心地が良さそうだった。
大きめの襟はフリルで縁取られ、腰のベルトループには細いリボンが通されている。丈も長く上品で、妹の容姿に似合うだろう。
僕はワンピースを見つめたまま、羽織っていたストールを引っ張って色を確かめた。宝物のストールは紺色で、ユニスのワンピースにも似合いそうだった。
「うん、それならこのストールにもピッタリだ。ありがとう、今日だけ借りるね」
「エドウィンとのお出かけ、楽しんでくださいね。私も行きたい……っていう我儘は今日だけ我慢してあげます」
「うん、お土産買ってくるから楽しみにしてて」
ほんの少し膨らんでいた彼女の頬が、ふわりと綻ぶ。ユニスは「ここで着替えて行って良いですよ」と言い置いてから、欠伸をして退室していった。
一人だけになった部屋で、サッと着替えを済ませて一階に向かう。
出かける正確な時間は決めておらず、『お互いの支度が整ったら、声を掛けあって』という曖昧な予定の為、ゆっくり支度をしても遅刻になることはない。
だが、エドウィンは普段から物凄く早起きだ。今も待たせてしまっているのでは、とどうしても不安になる。おかげで階段を踏み外しそうになるくらい急いで駆け下りていた。
尤も、足早になってしまうのは不安のせいだけではなく、今すぐ彼と出かけたいからだ。
一階に着くと、エドウィンが手持ち無沙汰な様相でカウンターを拭いていた。燭光でつやめく鈍色の髪がさらりと揺れる。宝石に似た洋紅色のまなこが、瞬きによって見え隠れする。長い睫毛がまたたいて、人形じみた彼を息衝かせていた。
人々の想像のうちに存在する曖昧な造形美。ぼやけた輪郭から最良の線を選び抜いたような、不明瞭な美しさの明瞭な正解を、彼の瓊姿が明かしていた。
僕は、恐ろしいほどに冷艶な彼を見慣れている。それなのにひどく息が詰まった。胸が、喉が、苦しくなる。昨日も会っていたはずなのに、不思議と懐かしくて、愛おしくて堪らない。心臓を揺らす僅かな不安は、彼と目路を重ねた途端、鎮まった。
エドウィンに微笑みかけられ、自身の目顔が華やいでいくのを感じる。口角が持ち上がって、嬉しさを隠せない。溢れる歓喜のままに、慌ただしい靴音を伴って彼に飛びついた。
「エドウィン、支度出来たよ。行こう!」
「ああ。早かったな」
「楽しみだったから早起きしちゃった。エドウィンの方が早かったと思うけど……」
「俺は店のことや朝食の準備があるからな」
エドウィンの後背では、ユニスとマスターが談話しながら朝食を取っている。恐らくエドウィンが作った料理だろう。ソースの香りが漂ってきて涎が出そうになったが『外食したり色んなお店を回りたい』と言ったのは僕だ。彼もそれを考慮して、朝食をとっていないみたいだった。
エドウィンは空席の背もたれに掛かっていたコートを手繰り寄せ、袖に細腕を通していく。襟を正した彼の手は、不意に僕の方へ伸びた。着崩れていたストールが彼の手に引き上げられる。両肩は優しい熱で包まれた。
近付いた彼の瞳が、僕をじっと打ち守る。鮮やかな赤に見惚れていれば、色深しいかんばせは傾いていった。
「寒くないか?」
「だ、大丈夫。エドウィンがくれたストール、あったかいから」
「そうか」
僕にとって大切なストールはふわふわで、熱を保ってくれる生地の為、とても暖かい。それに、彼といるだけで心が弾んで体温が上がるのだから、コートは必要なかった。
エドウィンはユニスに何かを囁いてから、マスターに一声かけていた。
「マスター。メイと出掛けてくる」
「あぁ、気を付けてね」
玄関へ向かった彼を追いかけ、後目にユニスを見遣る。嬉々として冷蔵庫を開けに行く背中は微笑ましい。エドウィンは彼女に『デザートがある』と教えていたのだろう。
街路に立つと白光が眩しかった。エドウィンも同じことを感じたようで、柳眉を顰めていた。早朝よりも昼に近い時間帯は、静けさと殷賑さが行き来する。大通りの方からは快活な客寄せの声が響いてきていた。
目的地のない僕達は、酒場の前に立ち尽くしたまま見交わした。
「メイ、どこか行きたい店は……いや、街を歩いたことがそんなに無かったよな。朝食は、何が食べたい?」
「うーん……エドウィンは外食とかするの? 行きつけのお店とかある?」
僕は食べ物の好き嫌いがあまりない。大抵のものは食べられるし、なんだって美味しく感じる。『特別食べたくなるもの』と言ったら、エドウィン手製の料理くらいだが、そう回答しても彼を困らせるだろう。
とはいえ、質問に質問で返された現前の彼も返答に窮していた。やはり『何を食べたいか』くらい僕が決めた方が良いのでは、と冷や汗をかきながら思い回していれば、彼の視点が石畳を辿っていく。
「あまり外食はしないが……向こうの通りに、マスターと何度か行った店がある。ワッフルのサンドイッチが美味しかった」
「えっ、美味しそう! フルーツとか挟んであるの?」
「そういうメニューもあったが、俺が食べたのはベーコンと卵とチーズが挟んであったな」
「いいなぁ……!」
甘いワッフルにしょっぱい具材が挟んであるのを想像しただけで、口端が緩んでお腹が鳴りそうになる。エドウィンは僕を見下ろすなり、ふっと一笑した。優しい笑い方と見つめ合って、ますます表情が溶けていく。
上機嫌で頭を揺らしてから、ハッとする。だらしない顔をしている気がして、羞恥が込み上げてきた。熱せられたチーズさながらの頬を今更両手で押し上げた。
「行ってみるか?」
「うん、行きたい」
こくこくと点頭して見せたら、エドウィンはゆっくり歩き出す。隣に並ぶ僕を視界の端に収めたまま、長い足を少しずつ進ませる彼は、歩幅を合わせてくれているみたいだ。
いくつもの看板に彩色された大通りは賑わい始めている。仲の良さそうな親子が旅行鞄を持って歩き去り、元気な子供達が僕の横を駆け抜けていく。それを目で追ったら黒い馬車が横切って、僕の髪を掻き乱していった。
前髪を指先で整え、焦点を移すと、親し気な男女が腕を組んで歩いていた。何の気なしに、彼らを目で追ってしまっている。恋人達をぼんやり眺めてから、エドウィンの袖を引いていた。何故そうしてしまったのか、その理由は自覚出来ていなかった。
「あの、さ」
「どうした」
「……手、繋ぎたい、な」
望みを口にして納得する。先程の僕を満たしていたのは、純粋な羨望だった。
エドウィンは気抜けたように睫毛を持ち上げていたが、その明眸は優しい弓形にしなった。僕の手よりも大きくて、男性にしては細い繊手が、目の前に差し伸べられる。
「ほら」
掴んでいいのだと、たった一音が合図を出して、僕はすぐさま彼の手を取っていた。飛び付いた、と言った方が正しいかもしれない。僕は喜色満面で互いの手を見下ろした。
エドウィンが少しだけ、手に力を込めた。包み込まれた肌が、彼の温度を吸い取っていく。温かさに笑窪が深くなる。雑踏の中を歩んでいるのに、二人分の靴音しか聞こえないくらい、僕は彼との空間に浸っていた。
「少し冷たいな。寒いか?」
「ううん、大丈夫。暑いくらいだよ」
「……なんで顔だけ真っ赤なんだ」
空いている手で自分の顔を煽いだ直後、投げかけられた指摘に硬直した。エドウィンは僕に張り付いている吃驚を認め、苦笑していた。
自分がどんな顔をしているのか、想像すればするほど表皮が熱を帯びて汗ばんでいく。意識すると耳まで熱くなってきた。それを見られたくなくて、頭を振り乱すしかなかった。
「う、嬉しくて!! エドウィンとゆっくり過ごせるのが嬉しくて、体温上がっちゃうんだよ……! 一緒に過ごせないと全身冷たくなりそうなくらいで……!」
疾言を連ね、その失態に気付けば言葉も浮かばなくなる。それでも誤魔化したくて、魚のごとく開口と閉口を繰り返していた。
くす、と、穏やかな気息が零された。高名な画家でさえ描けない典麗な微笑みが、僕を見守っていた。
「なら、メイが低体温症になる前に、定期的に出かけないとな」
彼にしては珍しい冗談に、心臓が躍る。ゆるゆると落ち着かない唇を噛み締めて、首が痛くなるくらい何度も頷いてみせた。
冷気で感覚の失くなっていた指先が、彼の体温で温まった頃。僕達は目的の喫茶店に到着していた。
煉瓦造りの建物は、赤茶色の両開き戸で来客を迎え入れる。店内は木造りの家具で統一されており、落ち着いた木香と食べ物の匂いが上品に混ざり合っていた。テーブル席には数組の先客がいて、お肉の薫香や、甘いスイーツの匂いが食欲をかき立てた。
「いらっしゃいませ──おお、エドウィンじゃないか。今日は可愛い子を連れてどうしたんだ? デートか?」
「こんにちは、シオドアさん。席は空いていますか」
「おう、好きな所に座りな。もう一度聞くが、デートか?」
「はぁ……そうですね」
「!?」
店員の男性も、僕も、見開いた目でエドウィンを凝視してしまった。当の彼は僕達に一瞥もくれず床板を踏み鳴らしていく。適当な返答だと分かっていても、なんだか嬉しかった。
僕は男性に会釈をしたのち、慌ててエドウィンの背中を追いかけていった。
彼は日当たりのいい窓際の席を選んだ。僕が寒そうだから配慮をしてくれたのかもしれない。彼の向かい側に着座する。そっと手を突いたテーブルは滑らかな手触りで、陽光を浴びた木目が赤く艶めいていた。マホガニー材と赤煉瓦の壁は色彩が調和していた。
他の客席との間隔が広く取られており、静かにくつろげる空間だ。良いお店だな、と見回した視野にメニューが差し出された。
「メイ、この中から好きなものを頼んでいい。何品でも構わないからな」
「えっ、頼み過ぎは良くないよ。僕はお金持ってないし……」
「金は気にするな。食べきれる量で、好きなだけ頼め」
彼の温顔は、どこまでも優しかった。今の言葉は『適当』なものではない。恩愛と称しても許される気遣いに、僕は破顔していた。
鼻歌を歌いたいほど愉楽した気持ちで、メニューの文字をなぞっていく。僕は店員を呼び、二種類のワッフルと紅茶を注文した。エドウィンも注文を済ませて、僕達は料理の完成を待ちながら見つめ合う。
彼の虹彩が窓の外に向いて、絡んでいた目線がほどける。だけど、まだ彼と向き合っていたくて、どうにか彼の意識を掻い繰ろうと、考え無しに喋り出していた。
「僕、物心ついた頃から、お母さんは寝たきりみたいなものでさ。お母さんのご飯の支度も、妹の世話も全部僕がやらなきゃってなってて。お母さんは、そんな僕を褒めてくれるけど、甘やかしてくれるほど元気ではなくて……」
「それは……寂しかっただろうな」
「うん、寂しかった。だから、エドウィンが甘やかしてくれるの、嬉しいんだ。『僕も誰かに甘えていいんだ』って思わせてくれるから、エドウィンのそういうところがすごく好きで……」
緩みきった顔で彼を見た。彼は真剣に僕の話を聞いてくれている。だというのに、この頭蓋には花畑が詰まっていて申し訳なくなってきた。ただ『彼が好きだ』と言いたかっただけなのに、辛い過去を明かすような前口上が重い空気を生んでしまっていた。
陰気を振り払うべく両手をばたばた振るう。質量のない雰囲気を払い除けるのは容易ではなかった。
「だッ、だから、いつもいっぱい甘えたり頼ったりしてごめん……!」
「謝ることじゃない、それは良い事だろ。お前に、信頼してもらえるようになって良かった」
穏やかな相貌に、胸を撫で下ろす。一息を吐いて、同時に困り眉で笑った。
彼はきっと、出会ったばかりの僕の怒号を覚えている。『どうせ裏切るくせに』と、理不尽に、八つ当たりみたいに、彼とユニスの善意を跳ねのけた。
今は、二人のことを信じられる。エドウィンの為人をずっと見てきた。だから、甘えたいし、頼りたい。
一抹の疑念もなく寄りかかれる関係は、こんなにも心地良いのだと、彼はいつも言外に教えてくれていた。
「お待たせいたしました」
「わっ、美味しそう……!」
僕達のテーブルにはカップが二つと、ケーキ皿が二つ置かれた。苺のワッフルも、ベーコンとチーズのワッフルも、注文者である僕の方に置かれている。エドウィンは湯気の立ち上る珈琲にミルクを注いでいた。
「エドウィンは珈琲だけ? 食べないの?」
「食べ物を頼んでも、一人前を食べきれないんだ。半分くらい残すことになる。残すのは勿体ないだろ」
「そっか……じゃあ、僕のを半分あげるよ! 甘いのとしょっぱいの、どっちがいい? 僕も、ちょっと多かったかなって思って」
二皿とも食べきれる、とは思うが、満腹になって動けなくなる恐れもある。それに、エドウィンだって朝から何も食べていないのだから、食べられるだけ食べてもらいたい。
じっ、と彼を視一視して、ちゃんと食べるように訴える。彼は渋面を浮かべていたが、僕の眼光に押し負けて、ワッフルを指さしてくれた。
「なら、チーズの方を半分貰ってもいいか?」
「うん!」
ナイフとフォークを即座に持ち上げ、半分に切り分けていく。その間、エドウィンは先刻の店員さんに取り皿を一つ頼んでいた。運ばれてきた空き皿にワッフルをのせて、エドウィンに差し出した。
サンドイッチみたいな二枚のワッフルの間から、とろとろのチーズが溢れている。一口大に切ったそれに食い付いて、咀嚼する。カリカリに焼かれたベーコンは香ばしく、胡椒とチーズの塩気が口腔に広がっていった。
ふわふわで弾力のあるワッフル生地はバターの香りがした。ほのかに甘くて、塩辛さを緩和してくれる。たっぷりと味わってから飲み込み、思わず叫んでいた。
「おいしい……! もちもちだ! あまじょっぱい!」
「ああ……そうだな」
エドウィンは、微笑ましいと言わんばかりの優しい瞳で僕を映していた。美味しい食べ物が胃を満たし、柔和な彼が胸を満たしてくれる。僕はゆらゆらと肩を揺らして、控えめに小躍りしたまま、ワッフルを一つ食べ終えた。
紅茶を一口飲んでから、食後のデザートに手をつける。苺のワッフルは、チーズのワッフルと食感が違った。表面がサクッとしていて、生クリームと絡み合いながらホロホロと溶けていく。みずみずしい苺の酸味が程よく、甘すぎない。いくらでも食べられそうだった。
「いちごのワッフルも美味しい!」
「口に合ったなら良かった。また来ような」
「うん! 今度はバナナのワッフル食べたいなぁ……」
苺のワッフルを食べ進めつつ、メニュー表に思いを馳せる。他のメニューも全部美味しそうだった。全部食べきるまで、何度も彼と通いたいくらいだ。
彼と外出する口実が、出来たような気がした。勿論、彼はきっと『出掛けたいなら出掛けたいと言えばいい』『理由も目的も要らない』と言ってくれるだろうけれど、僕は遠慮してしまいそうだから。
この店が、彼との思い出の場所になればいいと思った。二人きりの休日は、ここのワッフルから始まる。そんな日々が過ごせたら、きっと幸せだ。
食べ終えた食器をカウンターに返して、店員にお礼を言ってから、僕達は明昼の街へ立ち戻った。通行人を避けて道の端に佇んだ彼は、次の目的地を探しているようだった。
「メイ、次はどこに行きたい?」
洋紅色の瓊玉が僕を眼差す。静かな見合いは、五感から喧騒を遠ざける。
彼の、濁りのない赤に、そのまま溺れてしまいたかった。だけど永遠の秒間はない。どれほどその虹彩に囚われていても、彼は簡単に目線を外して僕を解放するだろう。
そうなる前に、彼の痩躯を抱きしめていた。僕が離さない限り、彼はきっと離れないから。
「どうした?」
「幸せだなぁって、くっつきたくなって。まだ、くっついてて良い?」
「……行きたい場所が決まったら離れてくれ。それまでは好きにしていい。急がなくていいからな」
「わ、わかった……!」
ぎゅっと抱きしめた体温が、心地いい。彼が僕の頭を撫でてくれて、清福が満面の笑みを象っていく。
透き通った花みたいな彼の香りが、僕の心を穏やかに鎮める。秒を刻む心音はどちらのものなのか。それが曖昧なくらい、僕達の息遣いは緩やかな間隔を保って重なっていた。
幸福は時折、『これは夢なのではないか』という不安を滲ませる。だから、彼を強く抱きしめた。瞬きをしても終わらない現実に深呼吸をした。
メイ。彼が、僕を呼ぶ。それでも顔を上げない僕に、もう一度呼び声が届く。
メイナード。
優しい声。彼が、そう呼んでくれたのはあの日以来だ。あの日、が、いつのことだったか。思い出そうとして。
「──!」
僕は、目を見開いた。
僕達を取り巻いていた喧騒が遠ざかり、彼はどこにもいない。
一人きりの寝室は、ほの明るく、ほの暗い。抱き枕にしていた彼のコートには、僕の体温だけが染みていた。五感が正常に働いて僕に現実を思い出させる。
「……っ……全部、夢じゃないか……」
持ち主を失ったコートは、抱きしめても、抱きしめても、空っぽだった。




