暮れなずむカメリア2
(二)
カーテンを開いて覗き込んだ空は、昼光で眩しかった。月の痕はもう消えて、朝焼けの名残もない。活気づいた街に物音と人声が行き交う。昼前か、昼過ぎか、およそそのくらいの空気が、窓硝子の向こうにあった。
エドウィンの葬儀から、数日が経ったような気分だ。まだ、一日しか経過していない。何度眠っても、彼のことばかり夢に見る。ずっと夢に居座りたい気持ちで、何回も眠ろうとしてしまう。
寝すぎたな、と思いつつ、僕は着替えを済ませ、エドウィンのコートを羽織って一階に下りる。酒場の店内たる一階からは物音が聞こえてこない。
開店時間ではないから、人気がなくて当然なのだが、マスターがいる時はうるさい。すなわち彼は今不在なのだろう。
階段の最後の一段を下ろうとした時、シャノンの意識が働いて、僕はやや後方へ引っ張られた。瞠若した僕の進行方向に流星が走る。銀色に煌めいた直線は、壁に突き刺さる──こともなく、床に転がった。
吃驚を呑み込んで、僕は足元のナイフを拾い上げた。先端が丸く、柄に草花の装飾が施されているそれは、バターナイフだ。
「す、すすすみませんメイさん! 方向を間違えたんです!」
「バターナイフは投げるものじゃないよ、ユニス……」
食事中だったのか、という予想は、踵を返してすぐに外れた。ユニスは椅子に座ることなく立っていた。カウンターの上には食べ物も食器も置かれていない。ただ、見覚えのある一本のナイフだけが、机上にあった。
近付いて見ると、それが僕達にとって思い入れのあるナイフだと気付く。銀を基調としたシンプルなデザイン、持ち手だけが黒いそれは、エドウィンがよく使っていたものだ。
磨かれた刃に、僕の影が落ちている。ふ、と、影は二つになった。
「今朝、エドウィンのナイフを持って、マスターにお願いしたんです。ナイフの使い方を教えて欲しい、って。でもダメ出しばっかりするんですよマスター! エドウィンのナイフは私には大きすぎて合わないね~とか、そもそも筋力も体力も足りないから基礎的な体つくりからしようね、とか! へらへら馬鹿にするんですもん!」
「う、うん、オッサンのへらへら顔がむかつくのは分かるけど、言ってることは正論だね」
「む、むむ……」
ユニスの頬が風船みたいに膨らんでいく。バターナイフを投げていたのは、エドウィンがナイフを投擲することもあったから、それを真似ていたのだろう。
よくよく嘱目してみると、彼女の生成り色の長髪は乱れていて、埃や木屑が絡みついている。床に寝転んで腹筋運動を試みていたのかもしれない。
僕の目先を辿ったユニスが、髪筋に指を通して埃をほどいていた。
「メイさんは魔女の肉体のおかげでトレーニング不要、エドウィンは『魔力が筋力』みたいなもの~なんて、お二人が羨ましいです。《譲渡》の魔法を上手く使えば肉体強化とか……出来ないですかね……ううん、そういう魔法を使う為の想像力と連想力が足りないです」
「あまり無理はしないで。ユニスはユニスの戦い方で戦えばいいんだよ」
不満げな団栗眼が僕をまっすぐに凝視した。泣き出しそうな目をしている、と一瞬感じた。けれどそれは気のせいで、正確には、泣き腫らした後のものだった。
気丈に振る舞う彼女の心髄で、悲しみはまだ根付いている。当たり前だ。立ち直るには、時間が足りない。それでも先を見据える彼女の、凛とした色差しは眩しかった。
「……でも、ユニスはすごいね。僕がいない間に、強くなったというか……いや、僕がユニスのことを分かっていなかっただけかもしれないんだけど。僕はまだ少し、前向きにはなれていないから」
ユニスと初めて出会った時、僕よりも小柄で、臆病な心根が時折垣間見えていて、戦いには向かない子供だと思った。守らなければと、何度も思った。誰かが守らなければ、彼女も花物のように運命を手折られてしまう。そうして芽生えた庇護欲は、守れなかった悔恨を種にしていた。
だけど、僕が思っていたよりもずっと、ユニスは強い。
ユニスはきょとんとしてから、困り眉で微笑んだ。童顔は珍しく大人びていて、片笑みを浮かべる僕の風懐をしかと読み取っていた。
「私、強くないですよ。私だって、昨日はずっと泣いていました。今朝も泣きながら起きました。でもね、前に進まなきゃダメなんです。エドウィンは……絶対に立ち止まらないから」
枯れることのない藤色の綵花が、彼女の眼窩で咲いていた。その色彩はエドウィンのものと異なるのに、その光彩は彼のものとよく似ていた。
「エドウィンみたいになりたくて、ここまで成長できたんです。ここで後戻りしちゃったら、私がエドウィンに憧れたことも、エドウィンが私の傍にいてくれた日々も、彼が教えてくれたことも全部……なかったことみたいになっちゃう」
僕は、羽織っているコートを軽く引っ張った。僕は形ある形見にとらわれて、形のない形見を見落としていた。彼のおかげで得た力も、覚えた感情も、大切な形見だ。人を信じられなかった僕達が、心から笑み交わしていることこそが、彼の生きた証だった。
「一緒に頑張ろう、ユニス。僕も、エドウィンみたいに強くなりたい。お店の手伝いも出来るようになりたいね。オッサン一人で接客するの、大変そうだし」
「そう、ですね。カレンさんも、亡くなってしまいましたものね……」
カレンさんに何があったか、僕は知らない。ユニスも、彼女が何故亡くなったのか聞いていないみたいだった。けれど時期を鑑みれば、クレイグが関わっているのは確かだ。
無関係のカレンさんを巻き込んだクレイグも、彼女の妹が泣いていた姿も、怒りを象って肺腑に溜まっていった。
「そういえば、オッサンは──」
「ちょうど今帰ったところだよ」
両肩に大きな手が絡みついて、鳥肌が立つ。首元から指先へ寒気が伝播していって、僕は背後の闖入者へ頭突きをかましてから振り返った。
「うっわ、音もなく近付くなよ……!」
「そんなつもりはなかったんだけどね!?」
顎を高く持ち上げて、マスターの微苦笑を見上げる。いつも通りのへらへら顔は、寝不足なのか、少しばかりやつれて見えた。僕と彼の身長差のせいで首が痛くなってきて、彼から目を逸らす。俯いた頭は彼の手に撫でられた。
「馬車を用意したから、王立図書館に行こう。魔力の花や神様の居場所について……兄が目指す場所がどこになるのか、調べないとね」
「それで出掛けていたのか……ねえ、クレイグがいる宮殿に攻め込んで、エドウィンの心臓を取り戻す、じゃダメなの?」
「彼が今どこにいるのか、私には分からない。メイちゃんを軟禁していた宮殿はもぬけの殻、父上の暮らす宮殿に向かったかもしれないし、どこの宮殿にもいないかもしれない。ただ、エドウィンの心臓を神に捧げることだけはハッキリ分かっている。目指す場所を特定した方が早い」
宮殿を全て回っていけば良いのでは、とも思ったが、マスターの顔ばせを見るに、王族が所有している宮殿は、僕が思っているよりも沢山あるらしい。
クレイグの悪相を思い出すだけで、いくつもの感情が胸裡に灯る。憎しみで臓物が焼けていくようだった。
『人のフリをした化物』。あの男は、僕にそう言った。魔女となった僕達は確かに化物で、けれど奴自身も似たようなものだ。奴みたく酷薄な人間は脳室に化物を飼っている。先生も、故郷の村人たちもそうだった。
他人に『お前は化物だ』と思い込ませる人間は、たいてい自覚のない化物。弱者を身代わりにして、自分の醜悪さから目を逸らす本当の悪人だ。
カツ、と、ヒールの音が響いた。
僕達だけの『酒場・化物退治』の店内で、小さな靴音は余韻さえ大きく聞こえた。ユニスが袖と髪をひらめかせ、階段に向かっていた。
「着替えてきます」
「ああ、メイちゃんとのんびり待っているよ。手枷を持っておいで」
「いえ。手枷は……着けないで過ごしたいです」
彼女が残していったのは穏やかな微笑み。そこにぎこちなさや強張りはなく、僕もつられて唇をしならせた。
ユニスの歩みが遠のいて、聞こえなくなってから、僕はマスターと見合った。彼は床に片膝を突くと、僕の襟に手を伸ばす。サイズの合わないコートが肩から落ちていたみたいで、彼はそれを直してくれた。
「エドウィンも華奢な方だったが、やっぱり女の子には大きいね」
「……うん。でも、あったかいよ」
これを羽織っているだけで、エドウィンが傍にいるように感じられる。彼に抱きしめてもらった体温を、思い出せる。それだけで十分だった。
マスターはコートが落ちないようにブローチの位置を調整すると、満足げに破顔した。肩を覆うコートを見下ろして、僕も目笑する。顔を持ち上げれば、視界の端で机上のナイフが光った。エドウィンのナイフを見守ってから、マスターの袖を引っぱった。
「ねえ、オッサン。ユニスに戦い方を教えてるって聞いたけど」
「まだ教えていないよ。これから少しずつね」
「あのさ。僕に、魔法の使い方を……もう一度教えて。自分の傷を治せるようになって、それで満足してた。でも、駄目だ。貴方みたいに、誰かの傷も治せるようになりたい」
エドウィンの最期を、回思した。誰かの傷を治す想像。それが上手く出来なくて、硬直した自分の両手。冷たくなっていく彼の体温。息絶えたフロアは僕を取り除いて静物画になる。過ぎ去った一場面はもう動じない。僕の涙で滲むだけ。立ち尽くす僕が延々と、喘鳴を繰り返していた。
もう繰り返さないために、僕は変わらなければならない。
じっと矯め見た先で、マスターは頬を緩めて頷いていた。
「図書館から帰ったら、三人で訓練しようか」
(三)
マスターに案内された図書館は三階建てで、エントランスホールから全貌が見回せる。僕は入口を潜ってからたった数歩目で立ち止まっていた。ひたすら唖然と、吹き抜けの上階を仰ぐ。豪華なシャンデリアの電灯が眩しかった。
壁一面には隙間なく並ぶ何冊もの本。棚は高く、天井のすぐ傍まで伸びており、梯子を使わなければ届かない書物も無数にある。別室に通じる扉の上にも本が並んでいるが、取る時に困らないのだろうか。
各階に人影が点在しているものの、僕やユニスみたいな子供の姿は見かけなかった。そのせいか話し声は殆ど聞こえず、僕とユニスの感嘆はホールに響いていた。
「広いですね……」
「ああ。この国で最も蔵書数の多い図書館だからね。ただ、エドウィンの一族のことや魔法のことは、王族にすら隠されていたものだ。参考になる本が残っている可能性は低いけれど……とりあえず、色々見て行こう。歴史書は向こうだよ」
一階の中心には机と椅子がいくつも置かれており、そこで読書をしている人も多く見られた。僕達は彼らの邪魔にならないよう声を潜めつつ、二階を目指していった。
館内をよくよく窺察してみると、各本棚の上部に分類が書かれていた。哲学や心理学に関する難しそうな本がいくつも収められている。それを横目に、僕達は通路の端まで進んだ。
木造扉がめいっぱい開かれたまま固定されており、床板が別室との境目で色を変えている。制服を着た警備員が、寄せ木張りの床に立ち、後背の大理石の床へ影を落としていた。
彼に近付いたマスターが懐から何かを取り出す。僅かに見えた透影は金色で、金属製の、許可証の類と考えられた。それのおかげで僕達は別室に入ることを許されたのだ。
跫音の響き方が変わる。本棚の配置や装飾は変わらないが、空気が異なる。エドウィンの故郷でも嗅いだ匂いがした。古い本特有の、しおれた年華の香りが薫然と漂っていた。
通り過ぎた木造の館内よりも、こちらの方が閑散としている。本を探している人はほとんどいない。しかし、まとまって並ぶ棚の一角一角に、衛兵が立っていた。
衛兵の服装には見覚えがある。僕がクレイグに決闘を強いられた時、対戦相手が着ていた服だ。妹と力を合わせ、大勢殺した衛兵たちも、同じ装いをしていた。
僕の警戒が眼付いたのか、マスターの手が肩に置かれた。
「ここはね、王族や、国王に許された身分の人しか入れないんだ。この国の全ての衛兵がクレイグの部下なわけじゃない。ここはクレイグの所有地でもない。悪漢が紛れ込んだ時に排除するための警備だよ」
「そ、そっか」
「マスター、ここは大事な歴史の本だけが置いてあるんですか? それ以外のジャンルはないんです?」
「そうだね。歴史、神話、宗教関連の本くらいかな。古い時代の本があるのはもう少し奥だ」
彼はどうやら、この図書館の奥まで通い慣れているようだった。図書館の出入り口を潜った時から彼の足付きに迷いはなく、今も目的地を一瞥すらせず明言していた。
しかしマスターの長い足はぴたりと止まる。直進した僕は彼の踵を蹴飛ばし、たたらを踏んだ。髪を引いた魔法のおかげで、頭皮の痛みと引き換えに転倒は免れていた。
仏頂面でマスターを見上げれば、彼は僕よりも後方──ユニスに首を傾げていた。先に足を止めたのはユニスだったらしい。
「どうしたんだい?」
「いえ、私は違うジャンルで探してみてもいいですか? さっきの別館に戻ります」
「広いから迷子にならないようにね。エントランスホールに大きい柱時計があるから、五時になったら時計前に集まろうか」
「はい」
細腕を振ったユニスがくるりと方向転換する。遠ざかる背中はいつもより背筋が伸びていた。どこか凛とした歩き方を注視して、普段との違いが手枷の有無であることに気が付いた。
途端に憂慮が湧き出し、「ユニス」と呼び止めてしまった。
「本当に一人で大丈夫? ここをオッサンだけに任せて、僕もユニスと行こうか?」
「大丈夫ですよ。一人で出歩くのも、慣れないといけませんし」
「いや、でも……もし変な男が近付いてきたら、走って逃げるんだよ」
「っふふ、メイさんは過保護ですね。分かってますよ」
微笑みが後ろ髪に隠される直前、確かに滲んでいた緊張を僕は見た。だけど彼女の足取りにぎこちなさはない。果敢に挑戦していく彼女に、頑張れ、と胸中で声援を送った。
マスターを見上げたら、彼も僕と似たような心境なのが分かった。温順な視線は、ユニスの靴音が聴こえなくなってから僕に移された。気障なウインクを合図に彼は歩き出していく。




