葡萄色の哀
一人になると、心悲しさが溢れてくる。ユニスやマスターと閑談しながら遠ざけた寂寥が、立ち返って僕の首を絞める。
葬儀を終えた日の夜、僕は自室で、しばらく立ち尽くしていた。閉め切られた室内に風が吹くことは無く、吸い込む空気すらまるで無い。立ち込める温度すら分からないのに、奥歯がかちかち鳴り出して、苦り笑った。
羽織っているコートの襟を引っ張ると、己の体を抱きしめる。そうしてそのまま脱力し、扉に背を預けたまま座り込んだ。
『大丈夫?』
呼び声が後ろ髪をなぞって、眼を瞠った。この肉体の、本来の持ち主である妹。彼女の意識が目覚めたことも、僕が借り物の体で蹲まっていることも、忘れていた。
もういっそ、僕も眠りについてしまいたい。シャノンに肉体を返して、エドウィンがいるところへ僕も行きたい。だけど、全てを妹に押し付けて瞑するのは、間違っている。
エドウィンのものだったコートを指先で摘まんだまま、薄暗い部屋の床板を眺めた。カーテンの向こうから染み出す夜が、木目の模様を影に溶かしていた。
何もない床にしゃがみ込んだ夜は、幾度となく経験している。幼い頃、母の病状が悪化するたび、妹を寝かしつけてから一人で蹲った。
怖かったのかもしれない。寒灯や月明は現実を浮き彫りにする。そうして鮮やいだ現実は、いつだって絶望の形に像を結ぶから。
暗室でも真っ白な僕の髪が、シャノンの意思によって動かされた。手を差し伸べるような一束の白髪に、弱り切った母の細腕を思い出した。思い出の中で、母が僕に問いかける。その声は聞こえなくて、僕は抱えた両膝に額を押し付けた。
「……ねぇ、シャノン。お母さんのこと、覚えてる?」
『うん』
「僕は……分からない。声も、顔も、もう、あんまり思い出せないんだ。エドウィンのことも、忘れちゃうのかな。いつか思い出せなくなっちゃうのかな」
生まれてからずっと、何年も過ごした母のことさえ、簡単に忘れてしまうのだ。エドウィンと過ごしたのはたった数ヶ月。それでも、今はまだ覚えている。明日、明後日も、きっと大丈夫。でも、何年先まで覚えていられるのだろう。
彼の形見であるコートに、ほんの少し彼の香りが残っている。抱きしめてくれた彼のことを、思い出せる。
「エドウィン、僕のこと『メイナード』って呼んでくれたんだ」
『うん、知ってるよ』
「僕が、シャノンじゃなくて、女の子じゃなくても、優しく受け入れてくれたんだ」
『うん。嬉しかったよね』
「もっと、ずっと一緒にいたかった。出会ってからの全部、全部、何回も思い返した。エドウィンは、最初からずっと僕に優しかった。エドウィンにとって、出会ったばかりの僕なんて生意気で、そっけなくて、言うこともきかなくて、助けてくれたのに『信用できない』なんて喚くような、面倒くさい子供だったのに。それでも、どんな僕を知っても、ずっと優しくしてくれたんだ」
吐き出したら、止まらなかった。思えば、シャノンに弱音を吐いたことなど、ほとんどなかった。双子とはいえ、僕が『兄』らしくいなければと強がっていたからだ。
今は、シャノンの方が姉みたいだった。僕の両腕に、後ろ髪が優しく絡みつく。
『メイ、大丈夫だよ』
「エドウィンのこと、なにも、忘れたくないよ」
『忘れないよ。私が覚えててあげる。だから忘れない。でも、もし忘れてしまったら、私の脳味噌が馬鹿だからだー、って責めたらいいよ』
「……責めないよ」
熱くなった瞼を拭う。顔を持ち上げれば、柔らかな髪が頬をなぞる。涙を拭おうとしてくれたのだろう。けれど、それはくすぐったくって、苦笑してしまった。
「シャノンの脳味噌は、僕の脳味噌よりも記憶力良さそう。いいなぁ」
『でもメイは、私より行動力があって、私より戦えるでしょ』
「頭脳戦はシャノンに任せたいかな」
『私が考えてる間にメイが殴っちゃうよ。血の気が多いんだから』
暗闇に目が慣れて来て、家具の輪郭がしっかり掴めるようになる。椅子の背もたれに掛けられているストール、ベッドの上に脱ぎ捨てられているブラウスとベスト。思えば、僕はまだ喪服を着たままだった。
胸元を見下ろせば、左右から零れる横髪が重力に抗う。ふわふわの毛先が首元で上下したものだから、肩を跳ねさせた。
「わっ、くすぐらないでよ。というか、シャノンが髪を動かす度に、僕の魔力が減ってるんだからね?」
『私の魔力だもん』
「そう、だけど。魔女の体だから、僕の魔力だって一緒に流れてるはずだよ」
とはいえ、本来はシャノンのものだった体だ。きっと、彼女の魔力の方が色濃く流れている。
真っ白な掌を握って、開いて、魂と繋がる神経を確かめた。
「君は、僕みたいに動いたり喋ったり出来ないの? 意識を入れ替える、みたいな……僕じゃなくて君が表に出る感じ……」
『何度か試そうとしたよ。でも出来ないみたい。不思議だね、私の体なのに』
「そっか……不思議だ、君の体なのに」
恐らく、この体の手綱を握っているのは僕の魂で、シャノンは僕にしがみついて後ろに乗っているような感じなのだ。僕が意識を手放しても、手綱は僕の両手から離れない。
魔女となった肉体や、魂の在り方が未だによく分からなくて、眉根を寄せた。
「エドウィンを殺した王太子を倒したら、君に体を返したい。そのための方法も探さないといけないけど……今は、もう少しだけ、君の体で戦わせて」
シャノンに体の主導権を渡せないのは、申し訳なさ半分、安堵が半分。僕はまだ、妹を守る兄でいたいのだ。エドウィンのように、大切な人を守り抜く覚悟を、胸に刻んでいたい。
立ち上がると優しい衣香が漂った。透きとおっていく暗香は、調香師にだって造れない、彼だけのもの。美しい花を連想させるが、この世のどこにも存在しない花の香り。
僕は菱形のブローチを外して、コートを脱いだ。丁寧に畳んで枕元に置くと、喪服のジャケットに手を掛けた。哀咽が染み付いた黒衣を、床に落としていく。絡みついたままの弱さを、剥ぎ取っていく。
左腕に縫い付けられた紐が露わになると、その赤がモノトーンの視界を色付けた。『僕達』が魔女である証。僕と妹が二人の人間だった証。そして、僕とエドウィンの運命を繋げてくれたもの。
憎めばいいのか、愛おしく思えばいいのか、今となっては分からなかった。
エドウィンが買ってくれたブラウスに袖を通していれば、波打つ白糸の影が揺らいだ。
『メイ。戦いたいっていうのは、メイだけの気持ちじゃないよ。エドウィンさんがいなくなって悲しいのも、復讐をしないと気が済まないのも、私だって同じ。メイと同じ体で、同じ視界で、同じ経験をしてきた。だから私達、一緒に戦うんだよ』
不意に、指を止める。掛け違えていたボタンを外して、頷きながら留め直していく。
もし、エドウィンが今も生きていたなら、シャノンのことを彼に紹介できた。彼はシャノンにも優しくしてくれたはずだ。きっとシャノンの名前も呼んでくれた。
この体で、二人で同じ優しさを受け止めていたはずだ。でも実際は、僕だけが彼の温情を独り占めしていた。
ごめん、と小さく口にして、ベッドに腰を下ろした。
「シャノンは……エドウィンのこと、好きだった?」
尋ねてから、僅かに後悔を覚える。答えは分かりきっていて、それを彼女の声で聴いてしまったら、罪悪感が膨らむのも分かっていた。僕は、妹の初恋の人を、見殺しにしたのだから。
だが、項垂れる僕を打つほど明朗にシャノンは言った。
『そりゃあね。メイと同じ気持ちだった。ううん、メイより好きだったかも』
「そっ、か……いや待って、僕の方が好きだったよ」
『そうかなぁ。私の体がエドウィンさんを好きだって言ってるから、メイが錯覚してるだけだよ』
「そんなわけない! じゃあ、エドウィンの好きな所を一つずつ言っていって、先に黙った方が負けにしようよ」
『えぇ……』
僕達は、同じ過去を追想した。星を探すみたいに、視線を彷徨わせて夜色の部屋を見回した。
彼からの贈り物、彼が触れたもの、廊下での出来事、階段で裸足の僕を抱き上げてくれたこと。思い出すたびに虚空を指さし、目に見えない星座を描いた。
酒場の内装を想像の中で辿り、家具や食器にも愁いを結びつける。
やがて瞼を伏せると、記憶の底を踏みしめた。思い出の路傍に咲く愛しさを、何度も拾い上げては見せ合った。
「次はシャノンの番だよ」
『えっとね……っふふ、メイ、元気出た?』
夢中になって頭を回していたおかげで、いきなり問われて気抜けてしまった。しばらく開口したまま固まって、唇が乾き始めた頃、ようやく頷いた。
「多分、元気出た、かも」
『じゃあ、あとはゆっくり寝て。私の負けでいいから』
「えっ」
『明日もメイがウジウジしてたら、私が何度でも元気付けて、立たせてあげるからね』
早く寝ろ、と言わんばかりに後ろ髪を引っ張られる。ベッドに背中を沈めて、明かりのない天井と向き合った。
シャノンだって辛いはずだ。なのに、ずっと明るい声で僕を励ましてくれていた。今更そのことに気付いて、兄として情けなくなった。
「ごめん。ありがとう、シャノン」
布団にくるまり、枕元のコートを抱きしめる。大丈夫、と、自分に言い聞かせるよう呟いた。
僕にはシャノンがいる。外に出れば、ユニスやマスターもいる。眼裏に残るエドウィンの姿が、僕を奮い立たせてくれる。
奪われたエドウィンの心臓を取り戻す。そのために、いつまでも伏し沈んではいられない。




