3 サクラサク 3-2
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「あのっ、し、秀一さん、今日部活の後なんですけど……晩ご飯、に、付き合って……貰えませんか? ふ、二人で」
「ふえっ!?……勿論構いませんけど……」
ある日の昼休みの終わり、唐突な愛奈からの誘い。
ーー昼休みに入った時、呼び出しのメッセージが届いた。彼は指定された時間に合わせて楓との昼食を切り上げて昇降口に来た。
開口一番、予想外の言葉が飛んできて秀一は驚く。出たのは愛奈のお株を奪うような気の抜けた返事。自分はこういう時『ファッ!?』とは言わないタイプだった、と妙に冷静な自分。何だどうしたとパニックの自分。それらが秀一の中で鬩ぎ合う。
対峙するのはおろおろと挙動不審の愛奈。手を頬に当てて目線はぐりぐりと右へ左へ。顔、手、首から肩に掛けてのラインに至るまで紅潮。色白な愛奈の体表は染料に浸されてしまったように染まる。秀一は愛奈のこういった反応を一度見たことがあった事を思い出す。
「愛奈先輩? ……もしかしてまた葵先輩に何か言われたんですか?」
「ふえっ!? ち、違いますぅ! これは愛奈のお願いです」
秀一が思い出したのは愛奈が告白された時だった。校門で愛奈と行動を共にしていた秀一が目撃していた告白事件。葵に言われて本人の意思とは違ったうっかり発言をしたあの時だ。
「何かあったんですか? その……顔が真っ赤なんですけど……」
「ふぇっ!? あ、赤く見えますかぁ!? そんな事ないですぅ……秀一さんの見間違いですぅ」
見間違いというのは現在進行形で起きるものなのだろうか、と思うが秀一はそれを口には出さない。彼はそれよりも現在の状況を冷静に処理しなくてはならなかった。
愛奈が照れているーーそれは事実。以前見た反応、紅潮した肌、目線からそれは確定的に明らかと表現していいはずだ。葵に何か恥ずかしい指示を受けたという線も否定された。残るのは食事に誘われた事実、そして愛奈が照れているという事実。
だが早合点は禁物だ、そう秀一は襟を正す。こと相手が愛奈という点を踏まえると、慎重にならざるを得ない。男女に限らず、単純に誰かを誘うという行為で彼女は赤面してしまう可能性がある。
秀一は鈍感な方では無いと自負している。だからこそ思わせ振りなこの仕草こそ罠に見えた。勿論そこに悪意や謀略が潜んでいるとは思わない。むしろ無自覚だからこその罠だ。普段から赤面しがちな愛奈に一々反応し迂闊な勘違いを進めるのは自傷行為に近い。おそらく彼女は無自覚のうちに男心を蹂躙してゆくのだ、と分析する。愛奈……恐ろしい子。
「何か食べたい物とかありますか?」
「あ、あのぉ……行きたいところがあるんですぅ! 出来れば、皆には秘密……がいいんですけど……」
「じゃあ部活解散したら一緒に行きましょう」
「はいっ!」
愛奈の表情に向日葵が咲く。そのまま一礼し彼女は去っていった。
正直なところ、秀一は今の数度のやり取りを普段通り恙無く振る舞えていたのかわからない。口調は抑えた。冷静を演じることは口調に関しては成功したと自覚していた。これがキャッチボールだとしたら低く抑えたいい球のはずだ。
だが、秀一は心臓が激しい膨張を訴えているのを感じていた。赤面していたかもしれない。否、していたはずだ。確かな熱量が秀一の頭部に残っている。じっとりとした汗の感触もある。
皆には秘密……そう愛奈は言った。
ーーこれは罠だ。これは罠だ。そう言い聞かせて彼は踏みとどまる。舞い上がってしまいそうな気持ちを押し留める。異性として好きかと問われたらそう意識したことは無いと答えるだろう。恋心があったかと問われたら無かったと言い切れる。しかし、この圧倒的な圧力で扉を開いてしまいそうなものは何だと言うのか。愛奈という女子が殊更特別な存在に思えてしまいそうな勢いは何だというのか。
ーーそう、それが罠だ。彼は自分に言い聞かせ続けた。
結局、午後の授業の殆どは自らを律する時間に費やされた。教師の言葉が時折、耳に入っては抜けてゆくのが解ったけれど秀一は今それどころではない。
そうこうしているうちに放課後を告げるチャイムが鳴った。
秀一が開いただけの教科書を閉じて机に押し込んでいると携帯が震えた。文芸部からのグループメッセージだ。『文芸部男子は三十分以上時間を空けて部室に入る事』と書かれている。何だろうと思いつつも一先ず了承の旨を返して彼は大きく息を吐いた。
騒がしい教室のそこかしこから「じゃあね」「また明日」などの声が上がり、一人、また一人と教室の外へと消えて行った。潮騒のように秀一の耳に流れていくそれらの声は、やがてボリュームを捻るように少しづつ小さいものへと変わってゆく。秀一はその教室の背景になって時間を過ごす。退屈そうにレ・ミゼラブルと書かれた本を開き、時折携帯電話を見るだけの男子生徒に。
相変わらず本の内容など興味は無かったが、そろそろ同じ本ばかり持っているのも気不味い。違う本にしようかななどと考え時計を見る。時刻は放課後のチャイムからおよそ四十分。秀一はそろそろいいだろうと教室を後にした。
廊下を抜け、階段を登ろうとした辺りでふとピアノの音が耳に滑り込んでいた事に気付く。この階段を上って四階に上がればすぐ音楽室だ。そこからだろう。秀一は何処かで聞いたことがあるその曲の名前を思い出そうと試みる。
ゲームだろうか、ドラマだろうか、取っ掛かりも曖昧で出て来ない。幻想的な曲だ。秀一の頭に北欧辺りの湖畔、夜の水面、そんな風景をイメージさせる。けれどクラシックなど馴染みがない彼は結局その曲名に辿り着く事なく部室に着く。
「おはようございまーす……ぅお!!」
秀一はガラガラと扉を開く。いつもの部室、いつもの空気、いつものテーブル、そこに見慣れない人物が立っている。
背中まで伸びた銀髪、肩をざっくりと見せた大胆な黒い服……ビスチェと呼ぶべきだろうか。背中側からだから秀一には顔は見えない。パックリと裂けた背中に紐が交差し、繋ぎ止めるように張っている。ふわふわとした黒いレースの付いた短いスカート、太腿まで伸びた黒いタイツは薄く肌色を透けさせた。
「こんにちはっ、秀一さん!」
秀一の姿に気付いた部員達。いち早く愛奈が笑顔を送った。
「いやースイマセンねお兄さんッ!! こんな感じになってまして。玲ちゃんが着替えたいって事だったのでお兄さんには少し時間をずらして来て貰う事になりました」
「あぁ、なるほど。部室に魔女が居たのでびっくりしましたよ」
「や、秀一クン! どうかな? 結構本格的でしょ!?」
玲が声を弾ませて秀一に向き直りポーズを決めた。開いた手のひらを頭の上でクロスさせ、足を絡ませる。「召喚!!」とでも言いたげなポーズだ。
確かに本格的と自称するだけあって、少し過激だが衣装は細かく作りこまれているようだ。活動的な玲のイメージとはかけ離れた凛とした雰囲気、長い銀髪は玲のボーイッシュな雰囲気を完全に封じ込め、可憐な女性へと変貌させる。男を魅了する悪い吸血鬼、サキュバス、それらのイメージだろう。
「どう? ほらほら。可愛い?」
秀一の目の前でポーズを決める玲。秀一は直ぐに目線を逸らした。
ざっくりと空いた肩は正面から見ると目の毒であった。スラリと伸びる鎖骨に紐が掛かり、その下の方でなだらかな曲線がレースの縁に吸い込まれていく。確かな重量を支える柔らかな付け根が露出し、ハッキリと視認できてしまう。見てと言われて無遠慮に見ると非難されるタチの悪いやつだ。
「あぁ、可愛いよ。すげぇ可愛い」
紅潮した秀一はなるべく玲に視線を向けないようにそう放つ。「わかったわかった」と言わんばかりに半ばヤケに近い勢いで言った……のだけれど。
「えっ……そう……かな……? やだな……あんまりストレートに来られると……照れるよ」
と急に頬を赤らめてしおらしくモジモジしだす玲。
あっこれ扱い易いやつだ、と秀一は察した。以前より度々彼をからかい、反応を楽しんでいた玲に正直やられっぱなしの秀一だったーーけれどこれで返り討ちにするのが楽になった、と胸を撫で下ろす。
「ッはー! お兄さんも好きですねぇ。 しかしこの国穂葵、玲ちゃんのこのスタイルの良さは正直想定外でしたねッ!! 一応玲ちゃんのコスプレ活動的なものは一通り見たのですが、ここまで攻めた衣装は無かったですからねぇ! これは文芸部序列も更新しなければなりませんね……ふむ。今まで通り大中小に特大を加える感じでいきましょうか……それとも大中小に極小を加える感じの方が……」
「何の話よッ!!」
怒号と同時にテーブルにハンマー的な何かがガンッと叩き込まれた音がする。秀一は慌てて愛想笑いを作り、いそいそと席に着くのであった。
それからはいつもの部活が始まる。葵や桜、愛奈の様子は言わずもがな。玲は何やら鼻歌を交えて紙と携帯を交互に眺めてはペンを走らせる。コスプレを着てきたということは恐らく何かを参考にして衣装や小物の図面を作っているのだろう、と考えられた。横目で追うのも限界があって詳細は解らないけれど。
「……こら、秀一クン。あんまり変なところ見ないで欲しいなぁ。……ちゃんと言ってくれれば多少際どいポーズで写真撮ってもいいのに」
ぎょっとする秀一。視線に気づかれてしまったようだ。しどろもどろに「そんなんじゃなくて、ホラ何やってるのかなって」と答えたものの、周りの視線が痛い。否、確かに紙の少し奥に視線をずらすとそこに玲の胸元がある。あるのだけれど決してそこを見ていたわけではなかったのだが……。
「いやはや、お兄さんにはちょっと刺激の強いコスでしたねぇ」
などと口元を歪める葵を見ると、抵抗は泥沼への入り口だと悟ってしまう。秀一は違いますとだけ答えて押し黙る事にした。桜や愛奈も苦笑いを残して作業へと戻っていった。それぞれが作業に没頭し始めると当然それは訪れる。即ち、沈黙。
ふと、秀一は先程の曲がまた流れている事に気付いた。
「あ、これ何て言う曲でしたっけ? 来る時も流れてたんですけど……」
「これ、月光ね。ベートーヴェン」
直ぐに桜がその曲を言い当てる。秀一は閊えた物が落ちたようなスッキリした気持ちを感じた。同時に印象的なタイトルなのに出ない時はなかなか出てこないものだと苦笑する。
「なるほどなるほど。今日はブラスバンド部がお休みの日ですからね。誰かが音楽室を借りてるのではないでしょうか? 音楽室の窓を開けてたらこんな風に少し聞こえてくるんですよ」
「そういう事ですか。あんまり意識して聞いた事なかったですけど、いつもブラバンの音が聞こえてたような気がします。でも桜先輩すごいですね。すぐにクラシックの名前出てきて」
「月光くらいは流石に知ってるわよ……アタシはこれ弾けないけど、一応ピアノやってたし。っていうか葵の方がアタシよりクラシック詳しいんじゃないかしら? ピアノも弾けるし、ヴァイオリンも弾けるし」
「はい。弾けますよ、ピアノソナタ第十四番」
「入部の時のあれマジだったんだ!!」
人は見かけによらないとはよく言われるが、そんな空気が全くない二人からクラシックの話題が出てきた事に秀一は衝撃を受ける。葵のヴァイオリンに関しては完全に出任せと踏んでいただけに尚更だった。眼鏡を反射させ「お望みなら今度持ってきますが」と言った葵に敗北した気すらしてしまう。
「じゃあこれは何て曲ですか?」
秀一は会話の流れで質問する。先程のゆったりとした幻想的な、少し悲し気な月光とは違う、高音が跳ねるような曲だ。陽気、とは違うどこか刹那的な輝きを感じさせる。
「お兄さん、まだこれも月光ですよ」
秀一は顔から火的な何かが放出されているような恥ずかしさを覚える。そう言われないと気付かない位、曲の雰囲気が変わってしまっていた。
「まぁアンタが勘違いするのも無理ないけどね。でもこの辺が終わったら最初の激しいバージョンみたいのが始まるからわかると思うよ?」
桜の言った通りに耳を傾けてみる秀一。
暫く明るく跳ねるようなフレーズが続いた後、一転して怒涛のように押し寄せる激しいフレーズが流れ始めた。ーー速い。緩やかで幻想的だった序盤のフレーズを感じさせながら、その局面は激しく力強さを込めて展開されてゆく。まるで心の高鳴りに合わせるように下から上へ、上から下へと駆けあがって駆け下りて、少し静けさを取り戻したかと思えば、一気に駆け抜けてピアノの音が止んだ。
「ハイ、これで終わり。第一楽章から……まぁ要するに場面が三つあって、それのどっかだけ流れる事が多いから勘違いしちゃいがちだけど全部纏めて一曲。まぁ無理もないと思うよ」
「全部聞いたのは初めてですね」
秀一は苦笑する。もともとクラシックに縁など無いのだから一曲に十五分超というのはピンとこない。
「ボクも初めてだよ。でも……何か良かった。解釈とかよくわからないから間違っているかもしれないけど……何ていうか、最後に揺るぎない決意、みたいな感じがしたよ」
「実際の所は曲を書いた人にしかわからないからね。どんな解釈でもいいんだとアタシは思うよ。音から色々な世界を想像して楽しくなったり、悲しくなったり、それでいいと思う」
座って耳を傾けていた桜は、そう答えると席を立ちコーヒーを淹れ始めた。
秀一はぼんやりと曲を思い返す。同じ曲なのに色々な顔があった。本を書くみたいに、物語を書いたのだろうか。だとすると最後の畳み掛けるような音の嵐は何を表現したのだろう。
ーー暫くすると香ばしい香りが部室へと広がった。
「月光はね、とある詩人さんがスイスの湖に浮かぶ小舟をイメージしてそう呼んだからって言われてるの。という訳で……スイス風コーヒーを詩人な玲クンに淹れてみました。エスプレッソに果実酒……は入れられないから生クリームとサクランボのジャムを乗せてどうぞ」
「うん、いい香り。いただきます」
「あるの!? サクランボのジャムとか常備してるの!?」
愛奈が「前にケーキに使うから作ったの」と微笑みかけた。秀一はこの部活の喫茶力の高さに改めて戦慄する。そして一向に文学の話題が出ないことにも戦々恐々とするのであった。