もう一度、話を聞く
「日向も来たの?」
美咲は玄関で私の後ろを見た。
「どうも」
「久しぶり。上がって」
日向は、踵を踏んでいた靴を脱いだ。脱いだ靴が裏返り、私が直した。
美咲は笑っていた。
リビングに通されると、日向はソファの端に座り、鞄を隣へ置いた。
「ここ、煙草いいけ?」
「だめ」
「あっそ」
出しかけた箱をポケットへ戻す。
「お茶、二人とも飲む?」
「うん。ありがとう」
私は向かいの椅子に座り、持ってきた確認票の写しを机の端に置いた。
美咲は、その横に紙を一枚置いた。園長からもらった、進学の援助についての手紙の写真を印刷したものだった。
「これ、施設を出る前にもらったの。授業料と、在学中の生活費は助けるって」
最後に、園長の名前があった。
「卒業した後も、私がすぐには一人で暮らせないから、続けてくれた。園長も、あのとき悪いことをしたと思ってたのよ」
「美咲を疑わせたことか」
「そう。皆の前で違うって言ってくれなかったし。謝られても、戻らないものはあるでしょう」
私は手紙を読んだ。
そこに書かれた援助だけなら、不自然ではない。
園長は実際に、美咲の進学を助けていた。
「その説明で足りるんじゃないのか」
日向に言うと、日向はカップを持ち上げた。
「うん。償いで払っててもいいら」
美咲は、私を見た。
「佐藤にも、今度はちゃんと分かってほしかったの」
「うん」
「このことを話してくれる?」
「あのとき美咲を疑わせたこと、園長には説明してもらう。俺たちにも」
「援助を終わりにしないように、って話よ」
美咲の指が、手紙の最後の行を押さえた。
「それも話す。ただ、まずは、あの事件で何があったのかを」
「先に皆に話すのは、やめてほしい」
「どうして?」
「園長が援助を続けてくれるって決めてからにして」
私はカップを机に戻した。
日向は、まだ飲んでいた。
飲み終えると、美咲を見た。
「美咲が疑われたのは、もう説明していいら。何が困るん?」
美咲は、私に向き直った。
「園長を怒らせたら、払ってくれなくなるでしょう。佐藤だって、急に生活できなくなるの、怖いでしょ」
「それは分かる。でも、園長が償いとして払っているなら、事情をほかの人にも知ってもらった方が」
「園長は、そういう人じゃないのよ」
美咲の声が少し大きくなった。
「佐藤は、園長が助けてくれてたって思いたいんだよね。違うの。こっちが何も言わなかったら、園長は何もしてくれない」
美咲はスマホを手に取った。
画面を動かし、止めた。
「これも、今度来てるの」
こちらへ向けられた画面には、前に見せてもらった援助を終えたいという文の、少し上が表示されていた。
〈あの時お預けした二百万円は、援助とは別にお返しください。私が頼んだことについては、これまでの約束どおり、二人の間に留めてほしいと思っています〉
その下に、来月の振込を最後にさせてほしいという文が続いていた。
私は、画面から目を上げた。
「お金、預かってるのか」
「そう。あのお金は、私のところにある」
「十年前の二百万?」
「うん。園長が持っててって言ったの。だから、勝手に盗ったんじゃない」
美咲はスマホを机へ戻した。
「これを返せ、生活費は終わりにする、でも話すなって。園長だけ都合がいいでしょう」
「それで、俺に話したのか」
「佐藤は、調べ始めてるでしょう。園長に先に何か言われたら、また私が悪いことになるから」
美咲の目が、私から離れなかった。
「今度は、私の話を先に聞いてよ」
私は頷いた。
聞くことと、引き受けることを、同じにしないようにした。
「どうやって預かったんだ?」
「園長が、封筒を渡してきたの。出かける前に。少し隠しておいてって」
「最初から、援助してもらう約束だったのか」
「進学のときは助けてくれるって。あのときも、そう言ってくれた。私、学校に行きたかったから」
「それを、今までずっと持ってる?」
「使ってない。返したこともないよ」
日向が、机の端に置いていた確認票を引き寄せた。
「園長が出てった後に、山下さんが数えてるら」
美咲は紙を見た。
「十三時十分。机の引き出しに、まだ二百万ある」
日向はそれ以上言わなかった。
美咲が、自分のカップに手を伸ばした。持ち上げず、取っ手に指をかけたまま止まった。
「山下さんにも聞いたけ?」
「うん」
私が答えた。
「美咲が掃除したのは、その後だって。お金がなくなって園長に電話したのも、山下さんだよ」
美咲は、確認票へ目を戻した。
「園長が出かける前にもらって、その後一度も返してないって、今、言ったよな」
私が尋ねると、美咲は唇を結んだ。
日向がカップを置いた。
「渡したんじゃなくて、持っていかせただら」
電車が窓の外を通った。
音は、ほとんどしなかった。
「……そう。園長に頼まれたの」
美咲は、まだ取っ手に触れていた。
「山下さんがお金を見た後で、私が掃除するときに持っていってって。私のロッカーの辞書の箱に入れておくようにって。そこなら、ほかの子が勝手に開けないから」
私は、園長があの箱を開けた姿を思い出した。
「なくなったことにして、杉浦さんにもう一度お願いするって言ってた。その寄付で屋根代を払って、残った方から、私が学校へ行く準備もできるって。園長がお金をどこにしまったか知ってたら、私も困らないと思ってた」
美咲は、机に置かれた手紙を裏返した。
「嘘だとは思ったよ。でも、園長がいいって言ったの。私の進学のことも、何とかできるって」
「皆の前で盗まれたって言うのも、知ってたのか」
「知らない。子どもたちには話さなくていいって言ってたから。私、何も悪いことにならないと思ってた」
手紙の裏には何も書かれていなかった。
「私が疑われたとき、園長に言ったの。皆に違うって話してほしいって。そしたら、今は少し我慢してって。今、説明したら、余計にややこしくなるからって」
「だから、箱から移したんだな」
「うん。次に学校へ行く日に、鞄に入れて持っていった。その日は、体操服の袋に入れて学校のロッカーに置いてきた。園長の言うとおりにしてたら、私だけ盗ったことになると思ったから」
あの夕方、美咲が膝に抱えていた布の鞄。
私は、箱だけを見ていた。
「学校に置きっぱなしにはできなかったから、それからも、少しずつ場所を変えた。今は家にある」
「園長は?」
「箱に戻しなさいって。私が取ったんじゃないと言ってくれれば返すって言ったら、話したら美咲も困るよ、って」
美咲は私を見た。
「最初から、私が悪いことになるようにしてたんだよ」
私は、すぐには答えられなかった。
「じゃあ、生活費を払うのは、償いだけじゃないんだな」
「償いもあるでしょう。私が何をされたか、佐藤も分かるよね」
「分かるよ」
日向がソファの隣を見た。鞄が、床に落ちていた。
拾って膝へ載せる。
「お金は返す、償いは続けるって話なら、今からでもできるら」
美咲は日向を見た。
「園長が、償いなんて認めないもの」
「じゃあ、何で払ってるの?」
美咲の指が、カップから離れた。
「私が話さないから」
「二百万を返しても?」
「知ってることはなくならないでしょう」
日向は私に目を向けた。
私は、園長のメッセージをもう一度読んだ。
援助とは別に。
二人の間に留めて。
園長は、お金と沈黙を、別々に求めていた。
美咲も、その二つを別々に持っていた。
「今も、それを条件に続けさせてるのか」
私が聞くと、美咲は頷いた。
「進学のお金だけじゃ、出た後は暮らせないから。園長には、一人でちゃんと暮らせるまで助けてって言ったの。助けてくれるなら、私も話さないって」
「今は?」
「今も、同じ約束よ」
「いつまで」
「私が困らなくなるまで」
美咲は、ほとんど冷めた紅茶を飲んだ。
「無理して働いて、またどこにもいられなくなるのは嫌なの。ここに来れば、落ち着ける。園長にはそのぐらいしてもらってもいいでしょう」
窓の向こうに、人の並ぶホームが見えた。
この部屋にある何も置かれていない床は、ただ片付けが行き届いているからだと思っていた。
「二百万、本当に使ってないのか」
「うん」
美咲は少し迷ってから立ち上がり、隣の部屋へ入った。
戻ってきた手には、古い封筒があった。
「佐藤には、使ったと思ってほしくないから」
机の上に置いた封筒には、園長の字で、屋根代、二百万円、と書かれていた。
中に札の束が見えた。私は手を伸ばさなかった。
「使ったら、私が盗って使ったって言われるでしょう。園長から返してって言われたら、返せるようにはしておきたかった」
「でも、返さなかった」
「園長が、先に約束を守らなかったから」
封筒だけで、十年前の出来事を全部証明できるわけではない。
けれど、美咲は返す相手を知っていた。園長も、どこに戻せと言えばいいか知っていた。
「佐藤も、私を責めるの?」
私は顔を上げた。
「あのとき、俺が美咲を疑ったことは、謝る。園長に頼まれたことを知った今も、それは変わらない」
「だったら、園長に言ってくれるよね」
「園長には、全部説明してもらう。美咲にしたことも、二度寄付してもらったことも」
「そんなことしたら、生活費が」
美咲は言葉を止めた。
「そこまで調べたの?」
私は頷いた。
「園長に話すなら、私だけが悪いみたいに言わないで」
「そうは言わない」
「お金を出してもらうことだって、私が勝手に始めたんじゃない」
私は、援助についての手紙を美咲の方へ戻した。
「それも、説明する。ただ、俺が黙ってる代わりに払ってもらうって約束はしない」
美咲は、紙を持ち上げなかった。
私は、園長のメッセージを写してもいいか聞いた。
美咲は、スマホをもう一度こちらへ向けた。
「園長が書いたことは、そのまま見せていいよ。私が何をされたか、分かるでしょう」
私は画面を撮った。
日向が立ち上がり、鞄を持って煙草の箱を取り出す。
「下で吸ってくる」
美咲は返事をしなかった。
*
美咲のマンションを出ると、日向が門の脇で煙草を吸っていた。
「帰るのか?」
「帰りたい」
「園長のところにも来い」
「一軒って言ったら」
「一軒とは言ってない」
日向は煙草の先を見た。
「二箱」
「分かったよ」
暑い、遠い、めんどくさいしか言わない日向の横を歩くと、いつもの倍は疲れた。
施設の門が見えたとき、私は少しだけ歩く速さを落とした。
日向が先へ行き、振り返った。
「行かんけ?」
私は追いついた。




