園長室
園長室の前で、日向が足を止めた。
「まだ?」
「ここだよ」
「暑い」
私はドアを叩いた。
「失礼します」
園長は床に置いた段ボールの前にしゃがんでいた。子どもの名前を書いた紙を、一枚ずつ箱に貼っている。
「あら、佐藤君。……日向君?」
立ち上がり、日向の顔を見上げた。
「大きくなったわね」
「どうも」
園長は笑った。
その顔を、私は何度も見てきた。
「ちょうどよかった。そこの箱、少し動かしてもらえる?」
「話があるんです」
園長の手が、箱の縁に止まった。
「十年前の寄付金のことです」
私は机に資料を置いた。
最初の寄付の入金と出金。山下さんの確認票。寄付者による工事代の支払い。
その横に、美咲の了解を得て撮った、園長のメッセージの写真を置いた。
園長は、立ったままそれを見た。
「美咲に会ったのね」
「はい」
「自分で見せたの?」
私は頷いた。
「園長先生が預けた二百万円を返してほしい、と書いてあります」
「ええ。私は返してほしいの。あの子も、返すと言ったでしょう」
「使ってないと言っていました」
園長は長く息を吐いた。
「だったら、返してもらえれば済むでしょう。私が預けたお金を、あの子が勝手にどこかへ持っていったのよ」
日向は、壁際の椅子に座っていた。
園長を見ず、足元の箱の取っ手を指で触っている。
「職員には、盗まれたと言ったんですよね」
「戻ってこなかったんですもの」
「なくなったと連絡したのは、山下さんです。園長先生が外出している間に」
私は確認票を指した。
「園長先生は、美咲に持っていかせた。どこへしまうかも決めていた」
「一時的に預かってもらうつもりだったのよ」
園長は椅子に座った。
「美咲は、昔のことを全部正しく覚えているわけじゃないわ。腹を立てていると、違うふうに話すこともあるのよ」
「美咲は、園長先生が出かける前に渡されたと言っていました。でも、山下さんが数えたのは、園長先生が出た後です。実際には、どう預けたんですか」
「山下さんが数えた後で、美咲に持っていってもらったの」
園長は私に向き直った。
「でも、返す予定だったのは、本当でしょう」
「園長先生に返す予定でも、工事会社へ払う予定ではなかったですよね。現金払いは頼まれていません」
「そこは……私が違っていたわね」
園長は資料の端を揃えた。
「屋根は直ったわ。杉浦さんにも、ちゃんと助けていただいたんですから」
「二回ですよね」
「工事代は足りなくなっていたのよ」
「足りなくしたのは園長先生だら」
日向が言った。
園長は、日向を見た。
日向は、箱の取っ手から手を離した。
「お金のある場所、知ってたら。美咲に入れとけって頼んだだら」
園長は黙った。
私は、雨の日のバケツの位置を思い出した。
屋根の上に立っていた人たちも。
「どうして、自分で隠さなかったんですか」
園長は、私の顔を見た。
「自分で持って出たら、山下さんは数えれんら」
日向が言った。
私は確認票を見た。
外出した後にも、現金は机にあった。
園長が帰る前に、職員がなくなったと気づいた。
杉浦さんは、その職員にも話を聞いてから、もう一度お金を出した。
「留守中に盗まれたって、園長先生以外の人に言ってもらえる」
園長の手が、確認票から離れた。
私は、美咲の掃除当番を思い出した。
園長室に出入りしていてもおかしくない子。
頼めば言うことを聞く子。
困れば、まず園長に助けを求める子。
「そのために、美咲を選んだんですか」
園長は、しばらく答えなかった。
「……あの子は、私を頼りにしていたから」
「ほかの大人に頼んだら、こんなことはしてくれなかったでしょう」
「分かってくれると思ったの。あの子の進学も助けるつもりだったし」
私は、美咲が持ってきた援助の手紙を思い出した。
「どこへしまうかも、園長先生が決めたんですね」
「美咲が持っているあの辞書は、ほかの子は触らないから。職員が荷物を確認するときには、私が先に取り出せばいいと思っていたの」
私はあの夕方を思い出した。
園長が、箱を開ける。
棚へ戻す。
ほかを調べようとはしない。
「見に行ったんじゃなくて、戻してもらうつもりだった」
「そうよ。誰もいないときに、あとで。あの子が、勝手に場所を変えたから」
園長はそこで、少し声を強くした。
「私は、何日もあの子に持たせるつもりなんかなかったのよ」
日向は鞄を膝に載せた。
「園長先生は何日でも、美咲が疑われてていいんだら」
園長は、息を吸った。
「疑われるとは思っていなかったわ」
「掃除当番に聞くように言ったのは園長先生だら」
日向の声は、変わらなかった。
「心当たりがある子って、最初から誰か知ってたら」
私は、食堂で園長が出ていくところを思い出した。
心当たりのある子。
いつでも話を聞きますから。
皆に犯人を探させる言葉だと思っていた。
美咲だけには、自分のしたことを話さず、園長のところへ来いと言っていた。
園長は目を伏せた。
「美咲に聞けば、お金を見たことが分かる。それで、私以外の誰かが持ったようには見えると思ったわ。でも、美咲が盗んだと断定させるつもりはなかったの」
「誰が持ったと思わせるつもりだったんですか」
「……少しの間で、忘れると思ったのよ」
園長は、箱に貼られた名前を見た。
「私も先の暮らしが不安だったの。ここを辞めた後のこととか。少しぐらい、自分のためのお金が欲しかった。でも、子どもたちのお金にそのまま手をつけるつもりはなくて」
「寄付のお金です」
「そうね」
園長は、資料へ目を戻した。
「二度目のお金で工事代を払って、最初のお金は自分で持とうとしたんですよね」
「……ええ」
私は、園長が美咲の横に座って話を聞いていた姿を思い出した。
あの時間は、全部嘘だったわけではない。
その人が、美咲なら逆らわないと考えた。
「疑われたとき、美咲は説明してほしいと頼んだそうです」
「説明したら、私が頼んだことまで話さなくちゃいけないでしょう」
「だったら、美咲の方が我慢するしかなかったんですか」
「お金が戻れば、落ち着いてから説明するつもりだったのよ」
「金が戻っても、美咲が犯人だった話は残るら」
日向が言った。
「私は、悪い子だなんて一度も言っていないわ。間違えたなら、謝ってくれれば許すって」
「園長先生が待ってたのは、謝罪じゃなくて返金だら」
園長は唇を閉じた。
美咲が謝れば済むと思っていた私も、その言葉の外で待っていた。
「美咲が学校へ持っていった後、どうしたんですか」
「返すよう言ったわ。あの子は、私が頼んだことを話すって。だから、進学の約束はちゃんと守るし、出てからの暮らしも助けるからって」
園長は引き出しから通帳を取り出した。
「私のお金よ。生活費に施設のお金は使っていないわ」
美咲の名へ、送金が並んでいた。
「いつまで?」
日向が聞いた。
「自分で暮らせるようになるまでと思っていたの」
「美咲も、そう言ったけ?」
「話さないでいてあげるから、困らないようにしてほしいと。最初は、子どもの言うことだと思ったのよ。そのうち仕事をして、昔のことも忘れて……」
園長は、通帳を閉じた。
「止めると言うと、話すって。何年も、それを繰り返したわ」
「施設が閉じれば、終われると思ったんですか」
「もう、守る施設はなくなるから。あの子も、これ以上は求めないだろうって」
私は、箱に貼られた名前を読んだ。
ここに来たばかりで、人の顔を見て話せなかった子の名前があった。
「施設だけじゃなかったですよね。園長先生がしたことも、人に知られたくなかった」
「そうね」
園長の声が小さくなった。
「だから、十年も払ったのよ。美咲は、まだ二百万を持っているでしょう」
「金を返しても、知ってることは返せんら」
日向が言った。
園長は、ゆっくり頷いた。
「佐藤君も、日向君も、ここまでにしてくれないかしら。美咲には、私からもう一度話すわ。今度こそ、ちゃんと終わらせるから」
私は机の上を見た。
工事代の支払い。
現金の確認。
援助の約束。
「俺は、黙る約束をしません」
「美咲だって、話したくないことがあるでしょう」
「それは本人に聞きます。ただ、園長先生に頼まれたことも、疑われたことも、二回寄付してもらったことも、ここだけの話にはしません」
自分の声が少し震えた。
「説明してください。杉浦さんと、職員の方に。あの事件を知っている俺たちにも」
「全部?」
「はい」
園長は、箱に目を向けた。
私は返事を待った。
日向は、鞄の口からはみ出した紙の角を、中へ押し込んでいた。
しばらくして、園長が頷いた。
「分かったわ」
私は資料を指さした。
「記録は、捨てないでください。美咲のお金のことも、第三者を入れて話してください」
「ええ」
席を立つと、日向も立ち上がった。
鞄を椅子に置き忘れ、私に呼び止められた。
*
数日後、園長は職員と杉浦さんに説明する場を設けた。
あの事件を知る卒園者にも連絡が入り、来られる人が集まった。私も、確認したことを伝えるために同席した。
美咲は来なかった。
私には、短い返事が届いていた。
〈園長が何をしたか、ちゃんと話して。私が何をされたかも〉
私は、本人が求めていたことを伝えた。
今の暮らしについては話さなかった。お金を返すことと、これからの援助については、職員が間に入り、別に話すことになっていた。
園長の説明を聞き終えると、山下さんが確認票を手に取った。
「私は、数えて確認したから、本当に盗まれたんだと思いました。その話を、杉浦さんにもしました」
園長が頷いた。
「そう言ってもらうために、見ておいてほしいと頼んだの?」
園長の目が、紙の上へ落ちた。
「……ええ」
山下さんは確認票を机に置いた。
少し離れた場所に、美咲の掃除当番が書かれた紙があった。
「私は、美咲にも聞いたわ。ほかに何か見なかったかって。あの子は、私が見たのは園長がお金を数えてたところですって。それ以上聞かなかった」
杉浦さんは、しばらく窓の方を見ていた。
「屋根が直ったのは、よかったと思っています」
園長が顔を上げた。
「ですが、最初のお金が残っているなら、残っているものとして話してください。子どもが困っていると言われたことと、園長先生が自分のお金を欲しかったことは、同じ話ではありません」
園長はまた、目を伏せた。
私も、昔は美咲が盗んだと思っていたと話した。
隣に座っていた卒園者が、小さく頷いた。
「俺も。返せばいいのにって言った」
誰も、そこで「仕方なかった」とは言わなかった。
園長にも、私たちにも。
二百万円がその場で返されたわけではなかった。
美咲への送金も、今後どうするか決まったわけではない。
ただ、現金がどこにあるかを知らないふりをして話す人は、もういなかった。
施設を出ると、日向が門の脇にいた。
説明会には来ないと言ったので、終わったら買い物に付き合うと伝えていた。
「終わった?」
「今日の話は」
「じゃ、煙草」
「分かってる。ガルボもだろ」
「うん」
日向の足元に鞄があった。
歩き出すときに持ち上げた拍子に、スケッチブックがのぞいた。角が折れないよう、別の本の間に挟んである。
「あれ、捨てんかったんだな」
「俺のだら」
私は、それ以上聞かなかった。
スーパーへ向かう途中、私は尋ねた。
「美咲が園長に金を出させてるって、いつ分かったんだ」
「分かったって、美咲が言ったら」
「その前に、何かあるって思っただろ」
「払っとる方が、やめていいか聞いてたから」
「償いだって説明もあったじゃん」
「うん。だから、何の約束か聞いたら」
日向は空になった煙草の箱をポケットへ戻した。
「俺だったら、そこで納得して帰ってたかもしれん」
「お前、園長に払ってほしかったんだら」
「……そうだな」
「だったら、お前が約束する前に聞かんと」
店に入ると、日向は菓子の棚へ向かった。
私は弁当を二つ手に取った。




