聞かなかったこと
美咲とは、施設を出てからも年に一度ほど会っていた。近況を話し、仕事の愚痴を言う。
十年前の事件は、一度も話題にしたことがなかった。
LINEで都合を聞くと、明日の夕方なら家にいると返ってきた。
翌日、マンションの入口で部屋番号を押した。
「はーい」
「佐藤だけど」
「うん。上がってきて」
玄関には靴が一足しか出ていなかった。足の置き場を探さずに歩けることが、妙にありがたかった。
廊下に煙草の臭いはない。リビングに入ると、ソファと本棚の間にも、何も置かれていない床が続いていた。
「きれいにしてるな」
「そんなことないよ。昨日、片付けただけ」
「日向の部屋、見せてやりたいわ」
「あの子、そんなにひどいの?」
「カルピスとガルボで生きてた」
「まだ好きなんだ」
美咲は笑って、キッチンへ向かった。
窓の向こうに駅のホームが見える。電車が滑り込んできたが、音はほとんど聞こえなかった。
「ここ、便利そうだな」
「うん。買い物もすぐだし」
「今、何の仕事してるんだっけ」
「本屋。週に三日ぐらい」
「美咲らしいな」
本棚には、小説だけでなく、料理や写真の本も並んでいた。
「十年前、施設で寄付金が盗まれたこと、覚えてるか」
「うん」
「あの日、美咲が園長室の掃除当番だったよな」
「そう。それで疑われちゃった」
美咲は茶葉を量っていた。
「現金を見たことはあったのか」
「見たよ。園長が数えてたから、何に使うんですかって聞いた」
「何て?」
「屋根を直してもらった分のお金なのよって」
現金は、あった。
私は、手元のメモの端を折り返した。
「その後は?」
「掃除した。いつもと一緒」
「夜、廊下にいたって話もあっただろ。あれは、何してたんだ」
「なかなか寝付けなくてね。廊下で座ってたのよ。まだ夜になると、ママのこととか思い出しちゃってて」
美咲は茶こしをカップに載せた。
施設にいた子には、親を亡くした子も、親とは暮らせない子もいた。私は、美咲が眠れない理由を考えたことがなかった。
「なあ、美咲。謝らないといけないことがある」
「何?」
「ずっと、美咲が犯人だと思ってた。本人に何も聞かずに。ごめん」
美咲はポットを置いた。
「知ってたわよ」
「えっ」
「だって、みんな疑ってたじゃない」
私は顔を上げた。
「でも佐藤は、施設を出てからも気にかけてくれたでしょう。結構一人で、不安だったのよ」
カップが、私の前に置かれた。
「それでチャラね」
救われた気がした。
ほっとした自分が、少し恥ずかしかった。
「園長には、違うって言ったんだろ」
「言ったよ。皆にもそう説明してほしかった」
「言ってくれなかったのか」
「我慢して、って」
美咲はカップの持ち手に指をかけた。
「園長のこと、調べてるの?」
「調べるっていうか。昔の話を日向にしたら、誰も確かめてないことばっかりだったから」
業者への支払いの話が違っていたことも伝えた。
美咲はしばらく黙っていた。
「園長、昔のことはよく覚えてないって言うのよ」
そう言って、机に置いていたスマホを手に取った。
「この前もね。施設を閉じるから、私への援助も終わりにしたいって」
「援助?」
「出てから、生活費を助けてもらってたの。進学のお金も。私に嫌な思いをさせたからって」
美咲は、スマホの画面をこちらへ向けた。
園長からのメッセージだった。
〈施設も閉じることになりました。来月の振込を最後にさせてもらえませんか。考えて、お返事をください〉
「今も助けてもらってるのか」
「うん。ここに住めてるのも、そのおかげ」
私は窓の向こうへ目をやった。
美咲が落ち着いて暮らしていることは、嬉しかった。園長のやさしさで説明できるなら、そうしたかった。
「急に終わると困るな」
「そうなの。だから、まだ返事してない」
「これからのこと、話し合わないと」
「佐藤からも、言ってくれない?」
美咲が、私の顔を見た。
「園長、佐藤のことは聞くでしょう。閉鎖の片付けも手伝ってるんだよね」
「うん」
「だったら、私が何をされたか、園長に言ってほしい。大人になったから平気なわけじゃないって」
引き受けそうになって、私は口を閉じた。
「まず、どういう約束だったのか聞いてもいいか」
「話すよ。佐藤が園長に言ってくれるなら」
スマホの画面が暗くなった。
*
日向の前で、美咲とのLINEを開いた。
〈生活費のこと、園長に話してみる〉
そこまで打って、まだ送っていなかった。
「現金はあった。美咲は、夜は眠れなくて廊下にいたって」
日向は、私の話を聞きながら弁当を食べていた。
今日はちゃんと蓋を開けたことに、少し安心した。
「その日、何したん?」
「掃除はしたって。その後は、まだ分からん」
「ふーん」
私は美咲の部屋のこと、本屋で働いていること、生活費の援助が続いていることを話した。
「園長から、来月の振込を最後にしていいかって連絡が来てる。美咲はまだ返事してないって」
「週三日?」
「本屋な。今の家も、援助があるから住めてるって」
「お前には?」
「ない」
「ほかのやつは?」
「知らん」
日向は箸を置いた。
「じゃ、何の約束か聞けばいいら」
「美咲に嫌な思いをさせたからだって。償いじゃないのか」
「だったら、そういう約束だら」
日向は否定しなかった。
「でも、金を出す方が、やめていいか聞いてる」
私は、園長のメッセージを思い出した。
今なら無理だと言われたら、支払いは続くのだろうか。
美咲は、終わらせてもらう側の話し方をしていなかった。
「それだけで、何かあるってことか」
「知らん。お前が代わりに頼む前に聞けばいいじゃん」
私は、打ちかけた一行を消した。
「屋根屋の金、振り込んだのは施設?」
「何?」
「施設が払ったけ?」
「そこまでは聞いてない」
日向は弁当の蓋を重ねた。
「じゃ、そっちも」
〈もう一度、援助の約束について聞かせてほしい〉
美咲へ送ってから、メモに柴田さんの名前を足した。
*
翌朝、柴田さんに電話した。
先日のお礼を言い、振込の名義を確かめたい理由を説明した。
「園長の話と、記録のつながりが分からなくて。閉鎖の前に、当時のお金のことを確認しています」
「施設の方にも、その確認はされているんですね」
「はい」
すぐには答えられないので、確かめて折り返すと言われた。
昼前に電話が鳴った。
「杉浦正明さんという方からです。施設からは、代わりに支払っていただくと連絡がありました」
最初の寄付者と、同じ名前だった。
「金額は」
「二百万円です」
私は礼を言い、電話を切った。
午後、片付けを手伝いに施設へ行った。
園長は外出していた。昔からいる職員の山下さんに、気になっていることを話した。
「園長から見ていいと言われた資料、続きを見せてもらえますか。二百万円が二回動いているかもしれなくて」
「二回?」
山下さんも、帳簿を持ってきた。
最初の寄付の入金後、二百万円が現金で引き出されている。
工事代は、寄付者による直接の支払いとして別に記録されていた。
「盗まれた分を、杉浦さんがもう一度出してくださったのよ」
山下さんは、そのことを知っていた。
お金がなくなったのも、本当だと言った。
「私が確認したの。園長が地域の連絡会へ行っている間、支払い用のお金を見ておいてって。戻ってきたら、現金を取りに来る人に渡すからって」
「園長が出かけた後に?」
「ええ」
現金の確認票が、帳簿の間に挟まっていた。
〈十三時十分 支払用現金 二百万円 確認 山下〉
「枚数を確認して、封筒を机の引き出しに戻したの。その後、子どもたちの方に呼ばれて。二時過ぎに戻ったら、なくてね。私が園長に電話したのよ」
余白には、所在を確認できなくなった時刻と、連絡したことが書いてあった。
園長の帰着は、その後だった。
私は、紙の上の時間を指でたどった。
山下さん自身が、お金のあった時と、なくなった時を見ていた。
「その間、美咲が掃除を?」
「ええ。ほかにも出入りした人はいたと思うけど、美咲には何か見なかったか聞いたわ」
「誰に聞けばいいって、言われたんですか」
「園長よ。外から電話でね。掃除当番の美咲が、お金を見ていたはずだからって」
美咲が疑われた話の始まりには、園長がいた。
しかし、掃除当番に尋ねるのは、不自然なことではなかった。
「辞書の箱を、園長が調べたことも覚えてますか」
「覚えてるわ。ほかの子を私たちが見ている間に、美咲のロッカーへ行って、あの箱を出して。ほかも見ますかって聞いたら、もういいって」
私は、学校の鞄を抱えて座っていた美咲を思い出した。
園長が何もない箱を棚へ戻した姿も。
あの時は、見つからなかったことより、園長が直接見てくれたことの方が大事だった。
資料を見ながら、杉浦さんに連絡を取ってもらった。
山下さんが用件を伝え、先方の了解を得て私に電話を代わった。
「一度お金を送ったんですが、盗まれたと言われましてね。工事は済んでいるのに払えないと」
「それで、会社へ直接」
「ええ。今度はその方が確かでしょう」
杉浦さんは、施設が閉鎖することを既に聞いていた。
「杉浦さんは、当時、職員の方にもお話を聞いたんですか」
「聞きました。園長がお出かけの間に、職員の方がなくなったと気づいたそうで。それなら困っているだろうと思いまして」
「その後、お金が戻ったという連絡は」
「ありませんでした」
電話を山下さんに戻した。
屋根は本当に直った。
職員も、本当に現金がなくなったところを見た。
その二つを否定しなくても、二度の支払いは残った。
私は山下さんに、確認した資料の写しを取ってもらった。
一人で続きを決めるのは、もうやめたかった。
*
確認票の写しを、日向の前に置いた。
「山下さんが数えたのは、園長が出た後だって。なくなったって電話したのも、園長が戻る前」
日向は紙を見ていた。
「誰かが持っていっただら」
「うん。杉浦さんは、職員にも話を聞いてから、屋根代をもう一度払ったって」
日向はガルボの袋を開けた。
「美咲の箱、何もなかったんだって」
「空だったのは、調べたときだら」
「そう。山下さんが、ほかも見ますかって聞いたら、もういいって」
「じゃ、何で箱から?」
私は、確認票の端を押さえた。
「たまたま最初に見たのかと思ったけど」
「捜したんじゃなくて、取りに行ったのかもしれん」
私は頷いた。
日向は、ガルボを一つ口に入れた。
「美咲への援助、何人かに聞いた。連絡が取れたやつは、もらってなかった」
「美咲には、約束があっただら」
「それが償いの約束なら、俺は続けてほしいって言うつもりだよ」
「あっそ」
「でも、何を約束したのかは聞く」
美咲には、日向も一緒でいいかとLINEを送っていた。
返事は、「分かった。明日の午後なら」だった。
「お前も来い」
「やだ」
「もう美咲には言った」
「めんどくさい」
「帰りに煙草買ってやる」
「ガルボも」
「分かったよ」
日向は、ゴミの中から見たことのないキャラクターのTシャツを取り出した。
その下に埋まりかけていたスケッチブックも引き抜き、鞄に入れた。
「絵も持ってくのか」
「ここに置いとくと踏むら」
もう踏まれたように見えたが、私は黙っていた。




