表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第五話 敗けないで

 その男ははじめ、親切そうな顔をした紳士の姿でやって来た。


 背広に洋袴(ズボン)に外套という完全な洋装は、当時の北国の寒村では目を見張るほど先進的だった。四十そこそこと見える男は、帝都の新政府から派遣されてきた金融業者で、地方産業の振興と旧士族の支援のために来たのだと、自分の身元をずいぶんなめらかな語り口で説明した。


 ちょうどその時、さくらの両親は今後の生活のために新たな事業を始めようとしていた頃だった。元手に悩んでいたところへ、その背広男が大変良心的な金利で融資してくれるというので、夫婦は熟考の末に彼を信用することにした。

 彼は新政府が発行したという身分証明書を持っていたし、神山家のいる北国の元藩主や家老の名前を出して繋がりを示唆したりして、自分を売り込んできた。素朴な地方の中級武士であった両親は男の洗練ぶりに戸惑ったが、こうした相手を受け入れて協力していくことこそ、新時代へ適応することなのだろうと考えたのである。


 背広男の融資した金を元手に、神山家は小さな製糸工場を開いた。「利益を求めて人を使い潰すなど武士の習いに(もと)る」と、雇った女工たちなどの労働者をなるべく酷使しないよう気を配ったこともあり、最初の頃は失敗も続いた。「士族の商法」と笑われたりもしながら、しかし地道に試行錯誤を重ね、徐々に経営は安定していった。


 製糸工場がいよいよ軌道に乗って稼げるようになると、例の背広男が成功祝いだと言って神山家を再び訪れた。


 その時やっと十か十一だった幼いさくらは、初めて背広男と顔を合わせた。のちの次兄曰く「さくらは花の精のような幼子で可愛いことこの上なかった」とのことだが、さくら本人は自身の容姿などにはてんで意識がなく、近所の神社の狛犬の横にこっそり猫の「狛猫(こまねこ)」の雪像を作って遊んでいる子ども盛りだった。


 両親の隣にちょこんと座ったさくらを、背広男は目を丸くして見つめて、それからぐにゃりと気味悪く相好を崩した。

 両親は末娘のさくらを背広男に紹介し、彼女の小学校での優秀な成績を自慢していたが、さくらは父親ほどの歳の見知らぬ男が、自分をやけに注視してくるのが居心地悪かったのをうっすらと覚えている。


 背広男が本性を現したのは、それからすぐのことだった。


 まずは噂が流れてきた。あの男は神山家の他にも方々に金を貸し付けて、商売が上手くいき始めたところで、いきなり暴利を上乗せして全額返済を迫ることを繰り返しているらしい。当然払えぬ者が続出し、財産は差し押さえの上に借金を背負わされることになる。

 被害に遭っているのは大半が士族だった。背広男が身元も怪しい悪徳高利貸しであったと、神山家が気付くのに時間はかからなかった。


 その頃はまだ新政府の法律の施行も田舎では不整備な上、背広男は地域の役人とも癒着しており、いつの間にやら誰も逆らえない存在になっていた。

 次々と借金地獄に堕ちていく周囲を見て、神山家は腹を括り、こうなれば意地でも全額返済してみせようと金を準備すると、満を持して背広男を迎えた。


 だが、背広男が神山家に要求したのは、金や財産ではなかった。

 一人娘のさくらを寄越せと言ってきたのである。


 両親と長兄は、当初理解できなかったらしい。背広男がさくらを求めるのは、自分の息子や甥や親戚の若い男子の嫁としてですらなく、自分自身が囲う妾として育てたいためであると判明した瞬間、神山家は爆発した。


 なんたる不届き者がうちの娘に邪な目を向けているのか成敗してくれると、父と長兄は大刀を、母は薙刀を掲げて、似非(えせ)紳士を家の門から叩き出し、逃げ惑う男を何町も追いかけ回したという。

 こうして神山家は背広男と交渉の余地もなく決裂した。


 即座に製糸工場は差し押さえられた。金も(むし)り取られた挙句、法外な利息が借金に上乗せされた。不法だと訴えても役人は当然動かない。おまけに、逆恨みした男の差し金で、他の事業を始めたり仕事に就いたりすることも出来なくなった。

 地域の者たちはよそよそしくなり、神山家は貧しく孤立した状態に陥った。それ故、その年の冬に両親が肺炎にかかっても医者を呼ぶあてもなく、死にゆく様を見届けるしかなかったのである。


 こうした事情を全て、当のさくらは知らなかった。知らされていなかった。

 さくらが事の背景を把握したのは、官立女学校の卒業間際、訃報の後に届けられた次兄の遺書によってだった。


『僕も兄さんの死の直前まで知らされてなかったんだ。そして教えられた時も、さくらには黙っていてくれと言われた。兄さんは僕たちに秘密にしていたんだよ』


 両親の死後、年若い弟妹を守って一人矢面に立ったのは、家督を継いだ長兄だった。


 背広男はこの神山家の長男に、親も死んでさすがに弱ったかと見込んだらしい。

 借金も生活苦も全て解決してやるから、今夜さくらを自分の寝所へ連れてこい、兄の手で妹を引いてこいと打診してきた背広男は、どうも士族というものに対して屈折した恨みや妬みがあったのかもしれない。


 旧時代の武士の理想そのまま真面目一徹に育てられた長兄は、これに無言の鉄拳で返答した。

 ほどなくして彼は弟妹を連れ、夜逃げ同然に故郷を離れた。


 移り住んだ先でも人里を避け、身を隠すように山奥へ逃れ、薪売りや炭売りをして糊口(ここう)をしのいだ。

 長兄は背広男の魔の手が追いつくことを恐れていたのだろうか。思い返せば、長兄はさくらを半ば軟禁するようにして家から出さず、常に次兄を彼女のそばにつけていた一方で、「帝都の学校へ行け」とさくらを遠方へやることばかりうるさく言っていた。さくらは学校も教師もない環境で、両親の遺した書籍や教本のみにより勉学に励んでいたのである。


 長兄の希望通り進学した官立女学校の寄宿舎でひとり、次兄の遺書を読みながらさくらは叫びたかった。


 売ってしまえばよかったのに!

 そんなことで家族が苦労もなく暮らしていけたのなら、さくらなど高利貸しの好色爺のもとへ売り払ってしまえばよかったのに! 

 そうでなくともいっそ、金と引き換えに遊郭にでもやってしまえばよかったのに! あの時もこの時も金さえあればどれだけ状況がましになっただろう!


 なのに実際は、さくらのために家族は次々と犠牲になった。

 さくらを守るため。さくらを逃がすため。神山家に降りかかる不幸がさくらのせいで起きているのだとさえ悟らせずに。


『僕もこのことをお前に知らせていいか迷った。でも、僕はまもなく死ぬ。僕が伝えなければお前だけが何も知らされないままになる。それは良くないだろう? さくら、お前が神山家の跡取りになるのに』


 寄宿舎のベッドの隅で、さくらは震えながら手紙を読み進めた。


『正直に言うよ。これは初めて伝えるけど……お前を妬んだこともあるんだ。体が弱くて頭も良くない僕より、兄さんはお前に期待しているようだったから。だけどね、さくら、やっぱりお前が生き残ってよかったと思うんだ。お前なら僕たちの無念を晴らしてくれる。神山家の誇りを担ってくれる。さくら、覚えているかい』


 ——父上と母上が没した冬、僕たち兄妹三人だけになって間もないある夜のこと。


 覚えている。

 雪の降りしきる深い夜だった。日中からどこかへ出かけていた長兄がやっと家に帰ってきた。

 暗い家の中では次兄とさくらで布団を被って身を寄せ合い、父母を失った悲しみで静かに泣きながら、沁みるような寒さと寂しさを(しの)いでいた。


 そこへ、床板を踏み鳴らしてやって来た長兄は、寝室の襖を勢いよく開けた。何やら怒り狂った様子の長兄は、さくらが彼を見上げるなり、手を強い力で引っ張って布団の外に出させた。

 驚く彼女に長兄は、


「何をめそめそと泣いている! お前も武士の娘だ、そんな暇があれば刀の鍛錬をするんだ!」


 と、隣の間に連れ出して、さくらの手に無理やりに脇差(わきざし)を持たせた。「居合をやってみろ!」と命じる長兄に、さくらは信じられない気持ちで抗議した。


「こんな灯りもない深夜に、大兄上(おおあにうえ)はどういうつもりですか?! 父上と母上が亡くなったばかりなんですよ?! 私も小兄様(しょうにいさま)もとてもすぐには立ち直れませんよ! そんなに武士の誇りが大事ですか!」

「ああそうだ、誇りが何より大事だ! つべこべ言わずに刀を持て! 己の身を己で守れる程度にはなれ!」


 どう足掻(あが)いても長兄はさくらが言うことを聞くまで解放してくれないようだった。さくらは半泣きになりながら脇差を振るった。

 見かねた次兄が「兄さん、もうやめてあげて」と止めに入っても、長兄は「黙れ! お前もやるんだ!」と次兄に木刀を押し付け、自身もさくらの隣で打刀(うちがたな)を振るった。異様な光景であった。長兄は何か焦っているようだった。


 弱々しく泣き続けるさくらに厳しく稽古をつけながら、長兄は繰り返した。


「さくら、敗けるな! 敗けるなよ!」


 さくらは覚えている。長兄の強く張った声が耳に残っている。


 今なら分かる。この夜の長兄は、背広男から再びさくらのことを打診された帰りだったのだ。


 次兄の遺書はこう結ばれていた。


『さくら、敗けないで』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ