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第六話 花見の宴の夜

 春の霧に潤むような空を桜雲(おううん)朧月(おぼろづき)が飾る帝都の夜。


 新政府の諸官庁や外国大使館の集まる地区に立つ、見事な西洋風建築の迎賓(げいひん)の館——銀鳩館(ぎんきゅうかん)では、華やかなドレスや着物姿の人々によって花見の宴が催されていた。

 なんといっても今こそ花盛り、広大な庭園の夜桜はこれ以上ないほど満開である。吹き抜ける風には白い花びらが舞い踊り、澄んだ水が流れる小川には花筏(はないかだ)がかかり、宴に招かれた客人たちは盃を片手に上品な仕草でさざめき笑う。


 極楽のような光景に加われる殿上人(てんじょうびと)の内訳は、華族、政府高官、高級軍人、外国大使、そして財閥関係者などの紳商(しんしょう)。芸妓や役者といった芸能の人々もいるが、彼女ら彼らは仕事の時間とみえて、花見の場にさらなる華を添えつつ賑やかしている。

 銀鳩館の正門には人の出入りが絶えなかった。


 その門から二、三十歩ほど離れた、ガス灯の真下の陰。そこに、人目を忍んで立つ影があった。

 雪園さくら……否、神山さくらは、みすぼらしい地味な女学生の格好のまま、じっと銀鳩館に入っていく人々の姿を監視していた。

 馬車や人力車で乗り付けてくる貴人たちは、自らの足で門に入っていく瞬間に最も無防備になる。


 ——いつでも来い。


 羽織の内側で、左腰の物に手を触れる。袴の中に隠れるいつもの半幅帯(はんはばおび)ではなく、男用の角帯(かくおび)を締めてきたのは、これを差してくるためだ。

 脇差。短刀に近いほど短いが、それでもあくまで小脇差だ。家財をあらかた売ってしまった神山家に残った唯一の刀である。これを手放さなかったのは武士の意地だった。


 ——大兄上、敵討ちですよ。これが士族の誇りですよね?


 さくらは心の内で亡き長兄に問いかけた。

 幾百も読み返した、次兄の遺書を思い出す。


『兄さんの死を不審に思わなかったかい? 木を切るために雪山に入って足を滑らせたんだと説明されたけど、それにしては入った山が遠すぎる。兄さんは普段あんなところで仕事していなかった。それに僕はあの日の朝、兄さんが斧を持たずに家を出たのを見た。あれは町や人里へ行く格好だったよ。間違いない、あの日兄さんは、誰かに会いに行ったんだ』


 また新たな人力車の群がやって来た。

 さくらは目を凝らして、その中に目当ての人物がいないか見極めようとする。


『僕はどうにかして真相を探りたかった。さくら、怒らないでほしいんだけど、僕が奉公に入ったのは例の高利貸しの息がかかった商家だったんだ。大っぴらにするのが(はばか)られる金の受け渡しはその商家の裏帳簿の上で行われていた。そこで僕は見つけたよ。兄さんはあの高利貸しに借金を全額きっちり返済しに行ったんだ。それで神山家とは金輪際(こんりんざい)関わるなと証書も作らせていた。堅物な兄さんらしいと思わないかい』


 灰色の背広に山高帽(やまたかぼう)。その帽子には風変わりな緑のリボンが巻かれているという。

 暁子が事前に情報をくれた。彼女の仕事はいつも正確だ。信用してひたすら待つ。


『そしてね、さくら。使い走りで行った先で、古物商の帳簿を見せてもらったんだ。驚いたよ、そこで神山家の刀が売られてたんだ。売主の捺印は兄さんのものだった。あの人は武士の打刀を金に換えたんだ。それまで頑張って手放さないでいたのに。……もしかして……さくらが家を出るなら僕もそろそろ婿に行きたいって、冗談めかして言ったせいなのかな。兄さん、自分の結婚費用も無かったのに』


 手をかけた左腰の脇差は、長兄が売ったであろう打刀と揃いの拵えで、大小二本差しの兄弟刀だ。まさに武士の誇りの象徴である。妹の手元に脇差のみを残して、自らは打刀を売った長兄が、どれだけさくらに神山家の再興を託していたのか今更ながらに痛感する。


『ここからは僕の推測なんだけど……。あの高利貸しは、打刀を携えて訪ねてきた兄さんが、自分に復讐に来たんだと思い込んだんじゃないかな。そのまま見送るのが恐ろしくて、帰路の山道で人に襲わせたんだ』


 長兄は新しい時代を生きるために、誇りを捨て、屈辱を飲んだ。弟妹がそんな思いをしないために。

 その覚悟すらも、あえなく踏みにじられたのなら。

 もう、さくらの復讐に、遠慮はいらない。


 ——いた!


 今まさに門の前に降り立った男。灰色の背広に山高帽、それに巻かれた珍しい緑のリボン。

 横顔が見える。老いて弛んだ胡散(うさん)くさい笑みが、いつかの(おぼろ)げな記憶と重なって、さくらの視界が真っ赤に染まった。


 小沸源造(こわきげんぞう)。どういう手を使ってか銀鳩館の招待客に紛れ込んだ悪徳高利貸し。神山家の仇。


 ——殺してやる。


 さくらが大きく一歩、脇差に手をかけながら前に進み出たところで——


「さくら殿! さくら殿、そこで一旦休止だ!」


 ぐいんっ、と何者かに背後から羽交(はが)()めにされて、さくらは息が詰まった。


 体が動かない。がっちり押さえられている。足をばたばたさせて脱出を(はか)ると「うおお暴れないでくれ!」と焦った声がさくらの耳元からした。

 聞き覚えのあるその声に目を見開き、さくらは頭だけ回して振り返る。


 そこには、いつかと同じ黒羅紗(くろらしゃ)瀟洒(しょうしゃ)な洋装をした好男子——東条かなたの、ほっと安堵した顔が間近にあった。

 途端、さくらは怒り心頭に発して叫んだ。


「貴様ッ、どこから湧いて出た! 私が何をしようとしているか分かって邪魔立てをするのですか?! 離しなさい!」

「貴女が何をしようとしているか知っているから止めるんだ! どうか落ち着いてくれ!」


 脱出しようとさくらは足掻(あが)いたが、かなたは思ったよりも力が強い。足を(かかと)で踏もうとして回避され、腕を引いて抜けようとしたのも阻止された。この男は護身術を知っている。

 さくらは抵抗を諦め、凄まじい形相で彼を睨みつけた。かなたはそれに(ひる)むことなく口を開いた。


「あの小沸(こわき)とかいう男を復讐のために殺しに来たのだろう? やめた方がいいぞ、敵討ちなんて時代がかったこと」

「黙れ。あなたに指図される(いわ)れはありません」

「いやある。今夜の花見会は東条家の主催だ。うちの催しで殺人騒ぎが起きようとしていたら普通に止める」


 正論である。さくらは無数に湧いてくる言いたいことを抑えて、ひとまず「なぜ私の事情を知っているのですか」と呻るように尋ねた。


「開明新聞社の市川暁子殿という方から手紙があったのだ。花見会に招待されている小沸(ぼう)という男と神山桜嵐の因縁と、貴女の今夜の計画について。あと開明新聞を今後ともご贔屓(ひいき)にと」

「アキめ裏切ったのですね……!」


 あの女は自分の利益を何よりも優先する。友人さくらの悲願達成と、東条財閥の御曹司に売れる恩を天秤にかけて、迷うことなく後者を選んだのだろう。その気持ちのいい潔さゆえに親友となったのだが、こういう時には恨めしい。

 緊張した面持ちのかなたは、あくまで言葉で思いとどまらせようとしているのか、さくらに丁寧に語りかける。


「我が国はもはや文明国だぞ? 侍と御奉行(ごぶぎょう)の時代ではない。例の男の悪行は司法と警察が解決すべきことだ。貴女個人が武力制裁をしなければ救われないわけじゃないし、またすべきでもない」

「へえ? そんな御託を、旧時代の遺物である士族の娘によく言えたものですね」


 さくらはせせら笑った。捨て鉢な、破滅的な笑いだった。


「あなたのお祖父様は半農半士の下級武士だったのでしたっけ? 取るに足らない郷士身分で、武士の心など最初から無かったら、ご維新の際にせっせと集めた刀を海外に売り飛ばして成功できたのでしょう? そして孫のあなたは今や男爵のご令息です。そんな人間に、私の親兄弟の無念が分かるとは思えない!」


 さくらの叫びを、かなたは黙って受け止めてから、口を開いた。


「おっしゃる通り、士族の悲劇は俺には分からない。理解した気になって的外れな同情を示す気もない」


 かなたは一瞬だけ腕を解いた。そして、さくらの体をくるりと回転させた。

 両肩を掴まれて正面から向かい合う。さくらは、自分を真っ直ぐ見下ろしてくるかなたの目に、思わず(かす)かに動揺してしまった。


「だが、作家・神山桜嵐は? 小沸を殺せば貴女は当然逮捕され、神山桜嵐も破滅する。それを恐れる権利は俺にもあるだろう? 俺は憧れた作家が、筆を握る手を血で染めるのが嫌だ。そんなの見ていられない。俺は貴女の文学を心底愛する読者だ。だから俺は貴女を止めるぞ、さくら殿」

「その口を閉じろ!」


 さくらは耐えきれずに吼えた。ほとんど悲鳴のようだった。


「何が文学ですか、あなたの目は節穴です!」


 衝撃に見開かれる、腹立たしいほど澄んだ瞳に向かって、さくらはついに叫んだ。


「神山桜嵐の小説は全て復讐のために書いたのです! 敵討ちの道具で、売名のためのものです!


 神山桜嵐の作品は——文学などではありません!」

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