第三話 雪国生まれのさくら
さくら。
彼女はそう名付けられた。冬の真っ只中の産まれでありながら。
雪降りしきる北国の寒村。高すぎも低すぎもしない地位の士族である神山家に生まれた三人目の子だった。長兄、次兄からやや年月を置いた末っ子で、唯一の娘であるさくらの誕生を、家族はたいそう喜んだらしい。
「さくらが見たい」。過酷な冬に苦しめられる雪国の者が抱くささやかな願いを、その名に込められた。
折しも天下はご維新で大騒ぎであり、さくらが生まれた年に秩禄処分が行われ、多くの武士が家禄による従来の収入を失い困窮していた。
神山家も例外ではなく、一家は明日の暮らしも見えなかった。そんな状況下で、よく新たな娘の誕生を心から喜んでくれたものだと、さくらは幾度思い返してもそう思う。
両親は立派な人々だった。
旧い武士の誇りを守りながらも、新時代に適応しようとする開明さを持っていた。善良で、無欲で、高潔で、教育熱心であり、自分たちが不慣れな労働で骨身を削ってでも、子どもたちが勉学に励めるよう心を配っていた。
さくらは両親を尊敬していた。
さくらが十二歳になった年、両親は死んだ。
経営していた製糸工場が差し押さえられて一文無しになり、神山家は没落した。食べる物も着る物もない貧困の中で、父と母は春の桜を見ることなく、冬の酷寒を越せないまま肺炎にかかって死んでいった。
さくらは小学校を出たばかりだった。成績は極めて優秀だったが、勉強などしている場合ではない。上級の学校へは行かず働きたいと主張したさくらを、しかし、長兄は激怒して叱りつけた。
「お前は士族の娘としての自覚がないのか! お前は学問をするのだ! そして立身出世し、神山家を再興させるのだ!」
右も左も文明開化の世の中、女子教育の整備は急速に進んでいた。女性の官吏や教員や学者がいないことには文明国とは見られないと、新政府は慌てて帝都に官立女学校を設置し、女性官僚や教師の養成および大学進学の準備機関とした。
古めかしい武士の誇りを何よりも重視していた厳格な長兄は、洒落にならない極貧にありながら、さくらに是が非でも勉学をさせた。
「雪明かりに照らしてでも書経を読め! 手が悴んでも筆を持て!」
そう訓戒を垂れる長兄を、頭が固すぎるとさくらは思った。十以上も年上の長兄はきょうだいというより親代わりに近く、四角四面で生真面目な彼にいつもがみがみ叱られてきたさくらは、この兄と折り合いが悪かった。
不服な気持ちがさくらの顔に表れていたらしい、長兄は「なんだそのぶすくれた顔は!」とさらに怒った。
そこへ次兄がひょっこり首を出し、「兄さん、僕もどこか学校へ入ろうか? それか奉公に行くよ」と言った。
次兄は長兄とは真反対に、性格は非常におっとりして朗らかであり、体が脆くて病弱で、勉学も正直まったく不向きだった。
長兄はぐっと言葉に詰まり、「お前は家のことを手伝っていればいいんだ」と断じて片付けてしまうので、さくらはこの対応の違いも不満だった。
とはいえ、この心優しい次兄がどこかへ奉公に出ていじめられている姿など、さくらも想像したくない。また官費で入れる軍学校なんかにやられても、虚弱な次兄はとても体が耐えられないのは明白だった。
この次兄をいずれ養ってあげられるのならば、苦しくともやはり勉学には励んだ方がいいと、さくらは空く腹をおさえて毎日文机に向かった。さくらは次兄とはとても仲が良かった。長兄が働きに出ている間、次兄とさくらで神山家の家事を回していた。
さくらが十五歳になった年、帝都官立女学校の試験に合格し、官費生として入学が決まった。
そして長兄は死んだ。冬だった。薪になる木を切るために雪山に入り、足を滑らせて崖下に落ちたらしい。
さくらに士族としての自覚を説きながら、長兄は薪売りや炭売りや土木工事の人夫など、ほとんど武士の誇りなど投げ捨てた日雇いの過酷な仕事で働いていた。毎日毎日牛馬のように働いて弟妹を食べさせ、命を使い切ったかのように死んだ。
さくらは帝都の寄宿舎に入らなければならなかった。出来たばかりの鉄道の駅で次兄に見送られる時、さくらは「行きたくないです」と弱音を吐いた。
長兄の死体を見てからほとんど記憶がなかった。粥でさえ喉をろくに通らず、さくらが痩せこけて醜態を晒していても、叱りつけてくれる声はもはやない。
優しいはずの次兄はこの時、さくらの弱音を受け入れてはくれなかった。
「さくらは勉強しなくちゃ。兄さんが言ってただろ。出世して偉くなって、神山の名を上げるんだよ」
ある有力な商家に住み込みで奉公することになった次兄は、有無を言わさず「僕は大丈夫だから行ってらっしゃい」と微笑んで妹を送り出した。
官立女学校でさくらは覚悟を決めた。こうなったら是が非でもさくらが神山家を再興させるのだ。
生活費は支給されるので、あとは勉強するだけだった。競争相手たちは手強かったが、さくらは同級生の中で成績優秀者の席を勝ち取っていった。
実家に帰る時間と金の余裕はほとんどなく、次兄とは手紙のやり取りで近況を報告するのが精一杯だったが、次兄はさくらの躍進を喜び、手紙の結びには必ず「僕は大丈夫だから安心してください」と記してあった。
さくらが十八歳の年、帝都大学への進学が決まった。
選りすぐりの優秀な女子たちが集まる官立女学校でも、大学への入学保証書を得られる者は一握りだった。大金星であった。
次兄は死んだ。もともと病弱な身を奉公先でこき使われた挙句、結核にかかって路頭に放り出された末の死だった。
最後は狭い貸間でひとり、黴びた布団の上で死体を腐らせていたところを発見されたらしい。妹の大学入学を知らせる連絡と入れ替わりで訃報が帝都に届けられた。桜の花はまだ咲いていない時期だった。
さくらは神山家の生き残りとして家督を継いだ。
立身出世も、家の名誉も、全てがどうでもよくなってしまった。
——こうして、神山さくらは志を捨てた。神山の姓を背負うのも煩わしくなった。当時さくらは二十歳の成人年齢に達していなかったために後見人が必要であり、役所から紹介された遠戚の雪園家と面会した際、明らかにさくらの存在を厄介がっている彼らに「世話など一切しなくていいから姓を借りてもいいか」と頼んだ。
そして今、雪園さくらを名乗り、高級官僚なんてものになるための勉学にはやる気をなくして大学の文科に流れ、手すさびに小説なんぞを書き散らして小銭を稼いでいるのである。
神山の名は、「神山桜嵐」の筆名にのみ残っている。
その日もさくらは新作小説の原稿を抱えて新聞社へと向かっていた。
冬の寒さはまだ残っているが、公園のしだれ桜には蕾がつき始めている。帝都の中心街は平日の昼下がりでも多くの人で賑わっており、中央通りを挟んで立ち並ぶ華やかな店のショーウィンドウを眺めて若者たちがぶらついている。
さくらは駆けていく鉄道馬車を横目に、ある煉瓦造りの洋風オフィスの前まで歩いていって人を待った。
ほどなくして、「開明新聞社」と看板を掲げた白塗りの大きな建物から一人の女が出てきた。
非常にハイカラな格好の女だった。職業婦人らしいシャツブラウスに派手な柄の上着を重ね、膝下丈のぴったりしたスカートを履いている。
おまけに大胆な断髪で、真っ赤な石の大ぶりな耳飾りを垂らした、気の強そうな眉と濃い口紅の凄まじい美人である。
着古した地味な着物に女書生風の海老茶袴、結ってもいない下ろし髪のさくらとは大違いだ。そんなハイカラ美女は、さくらの姿を見つけると、革の長靴の踵を鳴らして早足に近付いてきた。
「サク! 待たせて悪かったわね。いつもの喫茶店でいい?」
「そんなに待っていないですよ、アキ。経費でカレーライスが食べたいです」
「いいねいいね。うちの新聞の稼ぎを支える大作家先生なんですもの、何でもお食べなさいよ」
帝都の喫茶店は仏利西亜のカフェをモデルに、文化人の優雅な社交場として開かれている。二人の行きつけである「可否喫茶」は開明新聞社のすぐ斜向かいにあり、珈琲や茶だけでなく洋食の味の良さでも有名だ。
打ち合わせと原稿の受け渡しにいつも使っている、店の奥の二人用の席につくなり、さくらはあっさりと切り出した。
「それで、東条財閥のお坊ちゃんに正体を知られたって?」
さくらが動揺して視線を泳がせると、相手は愉快そうにケラケラ笑う。
アキこと市川暁子。開明新聞社では初の女性記者にして編集者。
彼女は覆面作家・神山桜嵐の——さくらの共犯者であった。




