第二話 文学好きの御曹司
小説家、神山桜嵐。
昨年春、開明新聞の文芸欄に短編「花霞」を発表して以降、その名は帝都の文壇を賑わせてきた。
初めは文学愛好家たちの間で独特の作風と古典的な文体に注目が集まり、連載長編『はるうらら』によって世間での人気に火がついた。
特に、二作目の長編として刊行された小説『江戸彼岸』は誰もが話題に上げるほど帝都で流行し、大衆作家の大御所・朝峰一露や文学評論者・山鳥亭長夜が非常に高く評価したことでも有名である。
一方で、文壇の一部は桜嵐を痛烈に批判し、「文学として評する価値なし」と断じていたりする。
過ぎ去った旧時代と、文明開化で急速に変化する現代とを、桜嵐はどちらも不遜とも取れる書きぶりで風刺的に描き出しており、そこに底知れぬ悪意や憎悪を見出す者もいた。
良くも悪くも人の関心を集める、まさしく嵐の中心といってよい作家。それだけ人の話題に上りながら、誰ひとり神山桜嵐の素性を知らないという点も含めて。
だが、その謎も今、破られた。
破られた上に詰められていた。
「サインください神山桜嵐先生」
「いやいやいやいや」
神山桜嵐の正体たる貧乏大学生——雪園さくらは、普段取り澄ました彼女らしくもなく狼狽していた。
押しかけてきた財閥御曹司・東条かなたは顔を曇らせ、下げていた頭をちょっと上げると、おずおずと「……や、やっぱり署名には応じてない感じか?」などと伺ってくるので、さくらは叫んだ。
「あなたっ、どういうつもりですか?!」
「どうもこうも言った通りなのだが……。あ、俺、こう見えてもデビュー作の短編から追いかけてて結構古参というか、あの頃から書き方が革新的で物語が面白いだけではなく文学というものに独自の信念を持った硬派な作家に違いないと感じていて」
「うわあ急に早口で喋らないでください怖い!」
座っていた岩から瞬速で降りたさくらは後ずさる。
今まで平然と笑顔を浮かべてきたかなたは、彼女からの拒絶に初めて打撃を受けたようで、色紙と万年筆を抱えたまま悄然と立ち尽くした。肩を落とすかなたの姿に、さくらは理解が追いつかないながらも罪悪感を覚えてしまい、慌てて余計な感情を掻き消す。
そして改めて問うた。
「いや……え? 莫大な富と権力をお持ちの御曹司が、わざわざ自ら大学くんだりに赴いて、正体を秘匿している新人作家の素性を暴いて、要求することがこれだけ? 本当に???」
「逆にこれ以外に何を求めろと??? めちゃくちゃ勇気出して来たんだぞ??? 正直俺はいま足が震えて止まらないのだが」
自己申告通り小刻みに振動している黒洋袴を見て、さくらは額に手を当てた。何をどこから聞けばいいか分からない。
「……私の正体はどこから掴んだんですか……」
「ああ! さくら殿、帝都大学の紀要に論文を寄せていただろう? 西洋文学、特に仏利西亜国で流行りの自然主義について論じている内容にピンときてな。その文章といい文学理論といい、神山桜嵐の作品と非常に似たものを感じたのだ」
それで興味を持ったかなたは、帝都大学文科二年生・雪園さくらの経歴を調べた。
そして彼女が帝都官立女学校にいた頃に学内外の文芸誌に発表していたいくつかの掌編や随筆、海外小説の翻訳などを読むに至り、確信したという。
この女人こそ神山桜嵐に違いない! と。
……つまりこの男は、完全に自力で勘を当てたということになる。
さくらの情報を漏らした第三者などいなかったのだ。拍子抜けの事実にどっと力が抜けると同時に、かなたの異常な観察眼と行動力にさくらは呆れかえった。
そもそも、かなたはなぜ大学の紀要など、それも学部二年生の論文などを読んでいるのか。
「俺は数年ほど海外留学をしていてね、中でも仏利西亜で長く暮らした。そこで、まだろくに邦訳されていない仏利西亜文学にどっぷりハマってしまってなあ。だから、それに関連する国内の論文も、ついつい全て読んでしまう」
「それはすごいですね……」
嫌味でなく素直に感心した声が出てしまったさくらに、かなたは瞳をきらりと光らせる。
「帰国時にはたくさん向こうの小説を買い込んできた。今うちにあるぞ」
「へえ。……やはり自然主義の作家の本を? 別に興味ないですけど」
「いや。俺は節操がないからな、ロマン主義もレアリスムも何でも」
「…………ちなみに……」
「ユーグとブルダックとフロレンタールはほぼ全作品。あとエリック・ソルの新作」
「うっ……!」
「詩ならマティエとリオレーヌは一通り」
「ぐ……!」
さくらの顔が羨望に歪む。かなたは、いよいよ喜びを満開の笑みに爆発させた。
「な、な、いいだろう! この豊かな蔵書! いくらでもお貸しするぞ神山先生!」
「い、いやっ! 騙されたくないっ! 都合が良すぎる!」
耳を塞いで頭を振るさくらに、かなたは「それでサインの方は……?」と遠慮がちに色紙を差し出してくる。さくらは気が進まないようだったが、やや逡巡したのちに諦めたのか、そのほっそりした白い手で万年筆を奪うように取った。
かなたの表情がぱっと輝く。さくらはそれを見て、不機嫌そうに顔をしかめながら、色紙にペン先を走らせつつ呟いた。
「……こんなもの、手に入れても何にもなりませんよ。多少注目されていると言えどたかが新人作家、他の名だたる文豪たちへの伝手になるわけでもなし、サインを他人に自慢できるわけでもなし」
「さくら殿はずいぶん偏屈なことをおっしゃるな。だがそこがいい! 本物の神山桜嵐って感じがする!」
満足げに一人で頷いているかなたに、さくらはもう何か言う気が失せたようだ。
書き上げた色紙を渡すと、かなたは感激した様子でそれを受け取り、ため息をついた。居心地が悪そうにしている彼女へ、かなたは微笑みを向けた。
「単純に俺が嬉しいのだ。憧れの作家と会えた記念を手にすることができて。ひと目でいいからお会いしたかった」
「それはどうも……」
「おや、信じていないか? 本気だぞ。洋行帰りと言っただろう。留学の間、生まれて初めて本当の孤独を味わって、苦労もしたが新鮮だった。それから帰国して、まあそれなりに窮屈な実家で忙しくしていると、時折ひどく息が詰まるようになってしまってなあ。他の作家でも好きな作品はあるが、どれも完璧には心にしっくりこない。貴女の小説に出会うまで、実は少々つらかった」
かなたが指を上に向けたので、さくらの視線もそちらへ行った。
指し示す先には、池のふちに植わっている桜の木がある。冬枯れで裸の枝を晒した木は寒々としていたが、これがもうひと月ほど経てば、見事な花の衣に包まれるのである。
「最初の短編『花霞』。豪雪の中、行き倒れた旅人が死ぬ間際に満開の桜を幻視する場面が、俺は本当に好きなんだ」
夢見るような目で語られる声には、確かな熱がこもっていた。思わず微かに肩を跳ねさせたさくらは、唇を引き結ぶ。
彼女の変化に気付くことなく、かなたはつらつらと楽しげに喋り続けている。
「いや、かねてより俺は、神山桜嵐の作品は仏亜文学の影響を受けていると思っていたのだ。士族的な古典教養の深さに注目されがちだが、むしろ桜嵐作品は最新の仏亜文学の作劇や理念を取り入れているのが特徴で、ロマン的な個人の深い憂鬱や激情を描きながらも人間社会の残酷さを冷徹に見通す写実的な筆致はまさに……」
「もうやめてください」
遮られたかなたが瞬きしている隙に、さくらは片手に読みさしの本を持って立ち上がっていた。
「……私の小説は、貴方が期待するような高尚なものではないですよ」
きょとんとするかなたに色紙を押し付けると、傍らを足早に通り過ぎる。もう彼と話すことなどないと背中で示すように。
かなたは慌ててさくらを追いかけようとしたが、無理に引き留めるのは躊躇したらしい。その場に立ち止まると、最後にこの問いを投げかけてきた。
「待ってくれ。そういえば、貴女の本名は雪園じゃなくて神山だろう。神山さくら。どうして別姓を名乗っている?」
さくらは答えなかった。ただ黙って、足の歩みを早めて立ち去り、人気のない帝大の池には場違いな洋装の御曹司ひとりが取り残された。
北風が吹く。春はまだ遠い。




