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第一話 作家・神山桜嵐

 神山桜嵐かみやまおうらん


 本名は当然のこと、年齢や性別や出身、その素性が何もかも秘匿された帝都の新鋭作家である。


 作風は悲劇的にして優雅。文体は格調高くも軽妙。深い教養を伺わせる一方で随所に遊び心があり、情景描写は素朴ながらも静かな気迫に満ちた水墨画のよう。

 何より、物語の根底に流れる深い諦念と厭世観が、作品の荒涼として侘しい美を際立たせ、読む者の心を捕えてやまない。


 そんな、文壇と世間の注目の的にも関わらず、謎に包まれた神秘の小説家は——


「貴女が神山桜嵐だろう!」


 ——今まさに、正体を暴かれようとしていた。


 時は冬。

 所は帝都、大学の中庭の池のほとり。

 人はふたり。


 一方は、全身を洋装できめた若い男だった。黒羅紗(らしゃ)の三つ揃えに、整えられた短髪という、りゅうとした出で立ちの伊達男である。

 何より、端整な顔には自信に満ちた笑みがあり、瞳は健康的に輝いた好男子だ。すらりとした長身で仁王立ちした彼は、人差し指を目の前の人物に向かって突き出していた。


 そしてもう一方は。


「……どちら様でしょうか?」


 素っ気ない声の温度は、冬の凍える空気よりも冷たい。


 池のふちの岩を椅子代わりにして腰かけた、うら若き女性。

 (からす)の濡れ羽色と評するに相応(ふさわ)しい、見事な下ろし髪を耳にかけ、読んでいた本を開いたままにして膝の上に置いた。白樺の細枝のような腕や脚、それを質素な雪模様の灰色の上衣と海老茶袴(えびちゃばかま)に隠した痩身は、少し強い風を受ければ簡単に折れてしまいそうである。


 けぶる睫毛(まつげ)に飾られた黒い瞳は、氷の張った湖面のよう。

 表情に乏しくも美しい顔立ちは、精巧に作られた人形のよう。


 そんな、生気を感じさせない儚げな風貌の佳人は、形のいい眉をあからさまに(しか)めて、突如現れた男に対して敵意を剝き出しにしていた。


 美人からこうもはっきり拒絶されると、並みの男なら気圧されそうなものである。

 しかし、この男は「おっと失礼! こちらの名乗りを忘れていた」と黒の紳士帽を手に取り、胸に当てて軽やかに謝ると、改めて真夏の太陽のような笑顔を光らせた。


「俺は東条彼方という者だ。彼方と書いて、かなた。女性みたいで変だと言われるが、俺はひらがなの表記の方が好き。珍しい名だからきっとすぐに覚えていただけるだろう。ちなみに父は太一郎、祖父は太郎吉左衛門」

「悪い冗談だと思いたいのですが、もしや東条財閥の関係者の方ですか」

「おおっ、察しがよろしい、その通り!」


 何が嬉しいのか、男は明るくはしゃいだ声を出す。反対に、女は心底関わりたくない相手と、それでも関わらないといけない億劫さを眉間の(しわ)に滲ませて、言葉を付け足した。


「さすがに分かりますよ。東条太郎吉左衛門といえば財閥の創設者にして総帥、新政府の影の支援者でしょう。ご維新の動乱で荒稼ぎし、北や西の戦争では軍需で莫大な富と利権を手にしたとかいう。今は海運業の独占で儲けていらっしゃるのでしたっけ? さぞかし敵が多そうなことですね」

「詳しくお見知りおきいただいて恐縮だが、祖父は数年前に亡くなっていてな。現総帥は東条太一郎、俺の父ということになっている」


 つまり一族経営である東条財閥の中枢も中枢、総帥の息子とかいう後継者候補の一人なわけだ。女は、嫌味も効かない厄介な相手に、思い切り舌打ちしてやりたい気分だった。楚々とした容姿の彼女がそんなことをすると皆が驚くので、控えるようにしているのだが。

 男——東条かなたは、「だが俺の身元などどうでもいい!」と大げさに手を振った。


「こんなどこにでもいる平凡な財閥の御曹司なんかより、重大なのは神山桜嵐の正体だ。俺は確信しているぞ! 貴女がかの『江戸彼岸(えどひがん)』の作者であることを——帝都大学文学科二年生、雪園さくら殿!」


 再びかなたが突き付けても、雪園さくらと呼ばれた女は反応しなかった。人形のような顔立ちに感情を表すことなく、ただ黙している。

 かなたは演説を続けた。


「文明開化の新時代、大学入学でも官吏登用でも女性進出が進む昨今だが……。あの旧士族の厳格な武士のような教養と精神に裏打ちされた桜嵐作品が、貴女のように儚げで美しい女性の手によるものと判明すれば、世間は衝撃を受けることだろうな」

「人違いです。私は神山桜嵐なんて人とは何の関係もない女学生です」

「残念ながら否定しても無駄だ。俺は確信している」


 言い切ったかなたに、さくらは視線をちらとだけ寄越した。

 御曹司はにっこりと彼女に笑いかけた。


「貴女は気になっている。自分の正体はどこから漏れたのか、俺に情報を渡したのは誰か?」

「……」

「それを聞き出すまでは、俺をきっぱり追い返すことが出来ない。そうだろう?」


 それは他人の思考を誘導するのに慣れている人間の語り口だった。さくらは、今度こそ遠慮なく舌打ちを響かせたが、かなたは動じない。


「貴女が今、俺だけに事実を認めるのなら、俺は神山桜嵐の正体を言いふらさない。決して口外しないと約束しよう」

「……金と権力でどんなことでも(くつがえ)せる人間の約束をどう信用しろと?」

「ずいぶんと不信が強いな? しかし、まあ、貴女が警戒するのも当然だ。それでは誓約書を用意しよう。えーと、約束が破られた際には、東条財閥のボンボンは口の軽い粗忽者(そこつもの)だとスキャンダルをばらまいてよく、また貴女が望むだけの慰謝料と、帝都の豪邸を一つ、田舎の別荘を一つ、あとそうだな、金と銀の鉱山の利権をいくつか……」

「いいです、もういいです」


 背広の内側から取り出した手帳に万年筆でさらさらと書き留めだしたかなたを、さくらの疲れた声が遮った。頭でも痛むのか、こめかみを指でおさえている。


「観念しました。そこまでされると、わざと約束を破られて巨万の富を得たくなってしまいます」

「ほう? 貴女にも俗っぽい欲があるのだな」

「お金は欲しいですよ。貧乏学生ですのでね」


 女学生は膝の上の本を閉じ、やっと男の方へ身体を向けて座り直した。


「認めますよ。——私が神山桜嵐です」


 かなたの口の端が満足げに上がった。


 さくらもまた、自嘲するような笑みを浮かべてどっかりと足を組む。淑女としては極めて無礼ではしたない態度だが、この女の正体が判明した今は、まさにふさわしい姿だった。


 冷徹な皮肉屋で偏屈な厭世家。

 正真正銘、彼女こそが神山桜嵐なのだ。


「それで? 恫喝すれすれのやり方で私の言質をとって、いったい何が目的なんですか?」


 さくらは池のふちの岩に座ったままつっけんどんに問いかける。


 他人の秘密を握りたがる人間のやることは決まっていて、相手を自分に従わせて操ろうとするのが常だ。さくらはこの得体の知れない御曹司から目を逸らさないよう注視していた。

 これまでの会話から、彼はさくらよりも数枚上手(うわて)であるし、社会的地位も天と地、雲と泥ほどに差がある。しかし、さくらは屈する気はない。


 東条かなたは、そんなさくらの鋭い眼光をしばし受け止めていた。

 そして、革靴を鳴らして一歩二歩と彼女に近付いたかと思うと、身を硬くするさくらの前で、おもむろに懐に手を入れた。


 取り出されたのは、今度は手帳ではなく、やや小型の色紙と万年筆。

 かなたはそれを差し出し、深々と頭を下げた。


「ファンです」

「は?」

「作品全部読んでます。女学校時代の別名義の短編も取り寄せました」

「は???」

「あの、ここにサインとか」

「はあ???」


 何が起きている?

 さくらは口をぽかんとあけて、信じられないものを見る目を彼に向けた。


 国を影から支配する財閥の御曹司が、たかが貧乏大学生の女に腰を折っている。


 北風がぴゅうっと二人の間を通り抜けていき——どうやらくだらない一幕が始まりそうであることを、馬鹿に澄み切った帝大の池だけが静かに悟っていたのであった。


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