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第十一話 敵討ち

 女が一歩前に出る。その手には二、三十枚程度の原稿用紙の束。

 それは、彼女こそが本物の神山桜嵐である証。


 しんと静まった会場を見下ろして……女が、口を開いた。


「『時は睦月(むつき)(ふき)の花いまだ咲かず』——」


 繊細ながらも凛とした声が大広間を反響して聴衆の耳に届く。

 物語が、始まる。


「『一人の僧が山路を行く。寒空には雲立ち込め、雪降りしきり、藁沓(わらぐつ)の踏みし跡もたちまちにして消ゆ』——」


 そこからの朗読はわずか十五分足らずのものだっただろう。

 けれどその時間、女の声は人々の意識を掌握し、絵巻物を広げていくように彩やかな物語を自在に描いてみせた。聴衆は身じろぎもせずに聞き入った。小沸でさえもだ。そこには静かな、しかし凄まじい迫力があった。


 一人旅する僧侶。彼は山奥で吹雪に遭うも、現れた少女に助けてもらい、屋敷に泊めてもらうことになる。

 雪女のように肌白い少女はどこか浮世離れしており、自分は高山育ちで冬しか知らないのだと言って、「春の景色を見てみたいわ」と愚痴をこぼして笑うのだった。


 得体の知れない少女に、人の気配が感じられない屋敷。僧侶は怪しみつつも客間で眠りに就く。

 そして深夜、僧侶は火が爆ぜる音で目が覚める。屋敷は大火事で燃えていたのだ。


 慌てて部屋を飛び出した僧侶は、炎の中心に立つ少女を発見する。少女は獰猛(どうもう)な火に(あぶ)られてもまったく涼しい顔で(たたず)んでいる。

 足元では、どす黒い魂魄(こんぱく)のようなものが業火に焼かれて不気味に呻いており、それを彼女は平然と踏みつけて魂魄が逃げられないようにしていた。彼女は生きた人間ではなかったのである。


 彼女の正体は怨霊だった。

 かつてこの地域には、外からやってきて人々を騙し、産業を乗っ取り、借金のカタに娘たちを奪っていった高利貸しの男がいたのだが、彼女はその高利貸しの犠牲になった少女たちの悲痛が具現化した存在だったのである。彼女は主人を殺して屋敷を焼き、それでもまだ娘たちの怨念を晴らすには足りず、男の魂魄に責め苦を味わわせるため、その大火事の夜を幾度もここで再演しているのだった。


 僧侶は(おのの)き、もうこんなことはやめた方がよい、自分が男も少女も供養して成仏させてやろうと説得する。しかし少女は首を振り「たとえ成仏したところで消えないのが人の恨みというものよ」と言い放つ。

 しかし、少女は娘たちの恨みを背負った役割のために、この冬の景色に囚われて火事の夜から抜け出せずにもいる。本当は少女も解放されたいのだ。僧侶はそれを(あわ)れむも、どうしてやることもできず、せめて「貴女が桜を見られますように」と祈り、屋敷を去った。


 数十年後、年老いた僧侶は再びその雪山を登った。

 過去のことを思い巡らしながら、あの少女は火事の夜と冬景色から解放されることが出来たのだろうかと、かつて迷い込んだ山奥に分け入ってみると……。


 ……そこには、豪雪の中に咲く、この世のものならざる桜——満開の花を散らす大木の桜が、ただ一本、雪原に立っていたのだった。


「『——時は睦月、蕗の花いまだ咲かず。されど狂い咲きの()の桜、枝に紫雲のごとく花は満ち、風に千切れて吹雪のごとく散る。僧は悟る。人の恨みと業を吸い、淡き紅を雪景色に添える()れは——徒花(あだばな)』」


 女はそうして物語を締め、醒めながら見ているようだった夢の終わりを告げた。


 一拍の沈黙。


 ——そして、万雷の拍手が巻き起こる。割れんばかりの音の中、感極まった人々の一部が口々に叫んだ。


「神山桜嵐、万歳!」

「桜の魔術師に称賛を!」


 ……小沸源造は逃げ出した。


 無邪気に喜び騒ぐ群集に背を向けて、隣で驚く同席者を振り切って。最も近い扉を体当たりしてこじ開け、転げ出るように庭園へ。


 一目散に。一心不乱に。


 なんだあれは。なんだあの話は!

 何が小説だ! あんなものが作品か! あんな、執念深い恨みと怨嗟で出来たような呪いの物語が!!!


 なので小沸は、背後から声が追いかけてくることに気が付いた時、全身の血が凍りついた。


「逃がさない」


 女だ。あの女の声だ。


 正門から出ようとしたが、門は閉じていた。近くに門番もいない。直接手をかけて動かそうとしてみるも開かない。妙だ。周囲に人がいなさすぎる。しかし、小沸はそれを長く疑問に思っている余裕はなかった。


 冷たい汗を滝のように流しながら辺りを見回す。すると、銀鳩館の方面から、一人の人影がゆっくりと歩いてくるのを発見した。


 夜の闇にゆらりと立つ白い桜の振袖の女。

 それが小沸には、先ほどの物語の怨霊に見えた。


 同じ夜の惨劇を繰り返し、男の魂を幾百年も地獄の業火で苦しめ続ける、この世のものならぬ徒花の——。


「来るな!」


 反射的に叫んで、小沸は再び走り出した。今度は庭園の奥を目指して。丘を越えた先の塀の壁になら、きっと裏口なんかがあるはずだ。


 息が上がる。あんな華奢な細腕の女の、何がこんなにも恐ろしいのか。分からない。捕まったからといってどうなるというのだ。自分のやり方はどんなにあくどくとも合法だったし、明白な悪行はすべて隠蔽(いんぺい)されているはずだ。


 そう。例えば、北の寒村の雪山で、ある若い男を崖下へ突き飛ばしたことなどは。


 心臓が破裂寸前まで激しく拍動する。

 神山とかいったあの一家。父母を貧窮の末の病死に追い込み、跡を継いだ長男をこの手で殺し、次男を子飼いの商家でいじめ抜いて死なせ、そうまでしても手に入らず、行方を知ることができなかった末娘。


 やはりそうだ。あの女は、あの時の末娘だ!


「うわあああああ!」


 叫びながら丘を駆け上る。頂上の桜の老木は、人間の事情など一切意に介さず、ただ超然と静かに咲き誇っていた。

 ぜいぜい息を切らしてその木の脇を通り抜けようとした時、塀の向こうの街道が見えた。夜だというのに人が集まっているのか、手に手に携えている提灯(ちょうちん)が揺らめく。ちょうど庭師が出入りするのに使う塀の勝手口の扉のあたりだ。


 何だあの人だかりは。足が止まったところへ、前方から誰かがやって来た。

 あの女ではない。真っ黒な洋装が長身痩躯によく似合う、ハンサムな若い男だった。

 軽い足取りで丘を登ってきたその男は、「どうも今晩は」と、まるで小沸がここに来ることをあらかじめ知っていたかのように笑った。


「いやあ、見た目によらず足がお速いので、追いつくのが少し大変だった! まあ貴殿があの裏口から出られたところで、逃げ場はないのだが」


 さっきまで大広間で催しを取り仕切っていたはずの東条彼方が、何故かそこにいた。呆然と立ち尽くす小沸に、彼は裏口の外の提灯の群れを指で示す。


「あれは俺があらかじめ呼んでおいた警察だ。逮捕状も用意して貴殿の登場を待っている。警察権の行き届かない田舎で法の穴を上手く突いてきたつもりだったのだろうが、ここ帝都で華族を相手に詐欺を働こうとしたのが失敗だったな。放蕩息子に近付く不審な男に目を留めた帝都警視庁重役の父親が、貴殿の経歴を洗ってみたら一発だ」


 すっと、今度は数をかぞえるように指が立てられる。


「中央政府の公認を偽って貸付業をした罪に、地方官吏への贈賄、文書偽造、人身売買。貴殿に売り飛ばされた娘たちをずっと探していた家族も非常に協力的だったらしいぞ。そして貴殿を見つけ出して八つ裂きにしてやりたいと切望している。ここで捕まっておく方がむしろ身のためだな、小沸源造殿」


 今まで彼が積み上げてきたものとこれからの野望との一切が失われるのだと、告げられた内容からやっと了解した瞬間には、小沸は叫ばずにはいられなかった。


「こんな仕打ちが許されるのか! ただ賢いやり方で世間を渡ってきただけではないか?! このわたしが! 下っ端の奉公人としてこき使われていた、家柄も財産もない五男坊のわたしが、わたし一人の努力でここまで築き上げたというのに!」

「うむ、少なくとも現行法には触れているので裁かれるな。それに貴殿の所業は害が多すぎる。俺の祖父上も成り上がり者だし、過去にあくどいことを全くしていないとは言えないが、ここまで巨大な財閥になれたのは、それだけ社会に利する事業をしているからだ。貴殿のように人に恨まれるばかりで何も手元に残らない悪事は割に合わない。つまりは、貴殿より賢いやり方を取ったというわけだな」


 東条彼方は何か言っていたが、激憤のあまり死にそうな小沸の耳には入らない。若造からの偉そうな説教など聞いていられるものか。ここまで上手くやってきたというのに、こんなにも急に。

 そこへ、


「——あるいは、法ではなく()に裁かれる道もありますよ」


 涼やかな女の声が届いた。

 小沸の顔からぶわりと血の気が引き、死神が追いついてしまったことを悟った。振り返ると、白い振袖の女がもうすぐそこに迫っていた。


 その手には脇差が一本、握られている。

 氷の仮面のようだった女の顔が(ほころ)ぶように微笑み、静かな動作で刀を抜いて鞘を捨てた。刀身が鋭く光るのを見ても、小沸は足の裏が地面に張り付いてしまったかのように動けない。


 女は——神山桜嵐は、そんな男に問いかけた。


「五年前の冬、私の長兄・神山蓮一郎(れんいちろう)羽善(うぜん)山で崖から突き落として殺した。認めますか」


 一歩、近付いてくる。


「二年前の冬、私の次兄・神山菊彦(きくひこ)が店の裏帳簿を調べていたのを発見し、複数人で暴行した挙句に結核の身であるのを知りながら往来へ捨てた。認めますか」


 もう一歩、さらに近付いてくる。


「村八分にされて貧窮の末に死んでいった私の父母に言うことはありますか。神山家から差し押さえた製糸工場では人を酷使して、女工たちが何人も体を壊したそうですね。彼女たちに言うことは。何より、私に言うことはありますか」


 儚げなようで内に恐ろしいほどの凄みを秘めた佳人は、小沸の記憶の中の幼い神山家の娘と結びつかない。

 愛らしく無力な、この手で如何様(いかよう)にでもできそうな少女だから食指が動いたのだ。昔気質(むかしかたぎ)な武士の家で大切に守られている幼い姫だからこそ、奪って貶めて弄んでやりたかった。


 その娘が大人の女になり、美しい怨霊となって帰ってきたのだ。もはや小沸の心には恐怖しかなかった。


「か……神山、桜嵐……やはり『江戸彼岸』は……復讐の、ための……」

「失礼な。あれは文学ですよ。そう、言うなれば半自伝小説ですね」


 嘲笑う女の背後の夜空には、輪郭のぼやけた朧月と満開の花が枝を覆った桜雲がある。丘の頂上、大きな桜の古木の真下に二人はいた。少し離れた所に立って静観している東条彼方は、きっと女が何をしても止める気はないのだろう。

 もう目の前まで迫ってきた相手に、(かす)れた声で叫んだ。


「証拠はないぞ! 何一つ証拠はない!」

「ですが、『江戸彼岸』にあなたの心が恐怖で揺り動かされたなら、あなたには罪の意識があるということです」

「だから何だ! この時代にまだ武士を気取って刀を振る気か、小娘のくせに! お前も馬鹿な兄貴たちと一緒に殺してしまえばよかったわ!」


 小沸の自暴自棄の告白に、女の瞳孔が開いて光を放った。


 刀が振り上げられる。


 反射して刀身に映った桜は、淡い薄紅にも関わらずまるで血を吸ったかのようで、あの物語の徒花そのものだった。

 一陣の風に舞う桜吹雪は、まるで本物の雪のようで、小沸は自分が小説の世界に呑まれたかのように錯覚した。


「人の恨みは消えない」


 刀が、振り下ろされた。


「報いを受けろ」


 怨念の籠った声。空気を切り裂く音。

 小沸源造は、乾いて血走った眼をいっぱいに見開き、血の気が引いた真っ青な顔で仰向けに倒れ、そのままぴくりとも動かなくなった。

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