第十話 お披露目
「聞きました? 東条のご長男が何やら面白い催しをするようで」
小沸源造は、隣の客に話しかけられると慌てて「ええ、小耳には」と外面を取り繕った。
さて、この人物はどの家の何という肩書の奴だろうか——昔ほどは鋭敏に働かない中年の脳みそを叩き、相手の名前を思い出そうとする。
ここは銀鳩館の舞踏大広間。光を砕いて煌めかせる天井のシャンデリア、若い男女の踊る足先を受け止める赤絨毯、和楽器と洋楽器のどちらも取りそろえて音楽を奏でる楽団。
この空間にいる豪華な夜会服の人々はみな、この国の最上層にいる人間たちだ。決して粗相をしてはならない。
すると、小沸の近くにいた男が、わざとらしく大きなため息を吐いた。
「催しとやらがどんなものか知らないが、庭園から館内へ引き上げる必要はなかろうに。せっかくの夜桜がもったいない」
「ま、まあ、絶景の中にばかりいても飽いてしまいますから、休憩として丁度良いのではないですかね」
周囲にいるのが東条家の次男・輝祥の支持者たちであることに気付いてか、小沸に声をかけてきた客はやや小さくなって言った。
天下の東条財閥が今、長男で妾腹の東条彼方と、次男で正妻の血筋である輝祥とで対立しているというのは周知の事実である。
特に、弟派閥の方はこの抗争に積極的だ。輝祥の取り巻きには、本人がそうだからか、若く傲慢な青年たちが多い。己をとびきり優秀だと自負し、他人を見下している手合いである。
つまり——とても騙しやすい。
本来このような格式ある場に居ていい人間ではない小沸が、客人として銀鳩館に入ることが出来たのも彼らのおかげだ。
父親に黙って芸者遊びに財産を使い込んでしまった名家の息子がいたので、小沸は親切な顔をして内密に融資してやった。小沸を崇めんばかりに感謝するその青年を通じて輝祥に繋いでもらい、自分を地方各所で産業の発展に貢献してきた金融業者だと売り込んだ。
西洋文化に造詣が深く海外志向の兄・彼方を意識しているらしい輝祥は、小沸の話に興味を示し「やはりこれからは国内に目を向けなければ」とご満悦だった。そして、東条家が主催する花見会に小沸を招いたのである。
全て目論見通りだ。小沸は腹の底でほくそ笑む。
ここで顔を広げた次には、騙しやすい連中から食い物にしていこう。銀鳩館の客人たちともなれば獲物となる財産も大きい。もちろん、例の名家の青年も、弱みを握ったからには今後徹底して搾り取るつもりだ。世の中は頭の回る者、恥と良心を捨てた者から出世していくのである。
そして上手くいけば——本物の殿上人、上流階級の一員になれるやもしれない。
小沸は心躍った。どうやら自分には、家柄や階級への根深い劣等感があるらしい。いくら金を稼いでも、心の奥底では満たされないのはそのためかもしれない。
名誉を得たい。崇められたい。ふんぞり返って他人を思いのままにしてやりたい。それは、汚い手を使って蓄えた富だけでは達成しえないものだ。
……士族や地主の家から借金のカタに召し上げた、幼く無力な少女たちを「妾」として囲うことで、心の満たされなさは歪んだ支配欲に形を変えて多少は満たされたが。
しかし。老いた身であっても、どこぞの没落した家の令嬢でも嫁にすることができれば。
「ところで、彼方殿がお連れしていた令嬢はどなたなのでしょうね?」
また別の客人が投げかけた問いに、小沸は首を傾げる。すると「あの女性を見ていないのですか?」と周りに集まってきた人々が口々に語り出した。皆その令嬢について喋りたがっているようだ。
「あれは美しいお嬢さんだった! 楚々として色は白く儚げで、桜の精のようでしたよ」
「誰も正体を知らないのが不思議なくらいの佳人でしたね。何者でしょう、よほど大切に人目を避けて育てられた深窓の令嬢か」
「輝祥殿は、どうせ花街の芸者だろうとか憎々しげに言っていましたよ」
「嫉妬ですかな。はっはっは、若いですなあ」
大人たちは愉快がっているが、小沸はもう少し詳しく事情を知っている。
当主が複数の妻を持っている例など大きな家ではありふれており、それも東条財閥の総帥家ともなれば問題にもならないはずだが、輝祥はことさらに妾や側室や愛人という存在を毛嫌いしている。
どうやら、東条家には複雑に入り組んだ愛憎劇があり、現当主の正妻である輝祥の母が息子に妾への嫌悪を教え込んだために、若き貴公子は非常な潔癖に育ったのだという。取り巻きの友人たちと違い、花街遊びにも絶対に行かないらしい。
はてしかし、彼方という兄の方は、公認の婚約者でもない恋人をこのような場に連れてくる遊び人であったりするのだろうか。噂を聞いていると、件の女性を見てみたかったと残念な気になる。
東条彼方については、小沸はよく知らない。輝祥に比べれば地味で影が薄く感じる。だが、東条財閥の創始者たる初代総帥が目をかけていた秘蔵っ子だと言われており、初期のころから財閥を支えてきた重役層は、はっきりとは主張しないが彼方を支持しているようだ。
社交界でも目立つのは輝祥の方だが、輝祥は味方と敵とがはっきり別れる一方、彼方はあらゆる立場の相手とほどよく良好な関係を築いているらしい。
前総帥の死後は、強固な味方や支持基盤があったわけではない彼方は後継者レースで不利になったと言われている。けれど、色々な要素を総合的に見れば、情勢は五分五分といったところか。
と、その時、大広間の前方、両脇に階段が伸びる踊り場の舞台から、朗らかで良く通る声の呼びかけがあった。
「紳士淑女の皆さま、本日はようこそお越しくださいました。不肖ながら主催の一員を任されました私、東条彼方より心からの御礼を申し上げます」
そつのない挨拶とともに頭を下げた青年——彼があの東条彼方だ——に、会場から上品な拍手が捧げられる。
爽やかな容姿に洗練された身振りの彼は、誰からも好かれそうな好男子らしい笑みを浮かべて、こう切り出した。
「さて、ここにいらっしゃる皆さまは、文化文藝を愛する風流人の方々と存じます。そこで一つ、ささやかな趣向をご用意いたしました」
彼方がすっと手を左側の階段に向けて挙げる。
彼の手が示す先からは、白い振袖姿の若い女性が、楚々とした足取りで降りてきていた。
「本日、この花見会には特別な御来賓をお招きしております。
ご紹介しましょう——かの『江戸彼岸』の作者、神山桜嵐先生です!」
会場から少なからぬどよめきが起こった。
人々の驚きの内実はさまざまだ。謎の令嬢の意外な正体に対して、あるいは覆面作家の素顔の唐突な公表に対して、あるいは件の作家が若く儚げな美人だったという意外性に対して。
だが、小沸は違った。
衝撃に呼吸を忘れ、舞台に降り立った女——神山桜嵐に視線を注いでいた。
「夜の野外で花ばかり見るのにもお疲れでしょうから、このあたりでご休憩いただき、桜嵐先生による朗読をお楽しみいただこうかと思います。なんと今宵披露されるのは、どの新聞にも未発表の新作短編です!」
大広間中から歓声と拍手が沸き上がる。
ここにいるのは最新の流行を追い、あらゆる芸術や娯楽を味わっている人々ばかりだ。神山桜嵐の心からの愛好者もいるのだろうが、帝都中の注目を浴びる覆面作家の正体の初お披露目に立ち会い、その新作を聴いたという珍しい土産話を持ち帰れるだけで彼らは喜ぶのである。
東条彼方は来客たちの望みをよく理解し、主催として見事に応えてしまった。
輝祥の取り巻きの青年たちが、隠しきれない悔しさから不機嫌に唸るのが聴こえる。しかし小沸はそれどころではない。
あの女は。
『江戸彼岸』の作者の、神山桜嵐ということは。
嫌な汗をじっとりと背中にかきながら、小沸は彼女から視線を離せない。神山桜嵐は、玲瓏とした美貌にろくな愛想も見せず、彼方の一歩後ろに佇んで会場を見下ろしていた。
その冷たい瞳と目が合った、ような気がした。
ふっと、女が微笑む。花が綻ぶような笑みだったが、瞳にははっきり、鋭く爛々とした眼光が宿っていた。
その光は、敵意と、殺意。
——間違いない。あの女は、自分の存在を知っている!
「それでは神山先生、よろしく頼みますよ。
短編の題は——『徒花』」




