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第九話 妾の子の長男

「Les insultes sont les arguments de ceux qui ont tort(侮辱は、自分が間違っている者の言い訳にすぎない)」


 さくらは落ち着き払って、なめらかな発音で文章を繰り返した。


「は? ……英倶蘭(イグラン)語?」

仏利西亜(フリシア)語だ」


 あっけに取られている弟に対し、兄の方には通じたらしい。「格言家セバスチャン・シムホルトの警句」とご丁寧な注釈までつけてくれる。

 さくらはわざとらしく口に手を当てて、ころころと笑ってみせた。


「あらごめんなさい。輝祥様もお兄様のように西洋語が当然できるものと思い込んでしまいました。では、輝祥様にもお判りいただけるよう、私たちに馴染みのある言葉で言い換えましょうか。知者不失人、亦不失言(知者は人の縁を失わず、また失言もしない)」


 かなたは耐え切れなかったのか、くくっと笑いを溢す。彼の手は既に輝祥の胸のシャツから離れていた。

 弟は自分が馬鹿にされていることは理解したようだ。顔を真っ赤に染めて、何事か吠えようと口を開きかけるところ、それを制してさくらは追撃する。


「輝祥様の目的は、私を侮辱することを通じて、お兄様を攻撃することでしょう? かなたさんが怒りをぶちまければ失態を周囲に見せつけられるし、波風を立てず耐えることを選べば面子(メンツ)を潰せます。もし私が本当にかなたさんの婚約者や恋人だったとしたら、どう転んでも間違いなく破局でしょうね」


 ちらりと輝祥の後ろに控える背広の集団に視線をやれば、彼らも動揺を見せる。

 やはり輝祥は、かなたを煽るだけ煽って失態を犯させ、自分の支持者たちをその観客にして醜聞を騒ぎ立てる算段だったのだ。


「私と関係もない(いさか)いをふっかけるための種にされるのは気分が悪いです。どんな(・・・)お育ちか(・・・・)存じませんが(・・・・・・)、弟君はお兄様と違ってずいぶん品性に欠けるお人なようですね? 僭越(せんえつ)ながら申し上げますが、たとえ山ほどの財産とともにあなたを婿に貰うとしても、この私に釣り合うとは到底思えません。お判りですか? つまりこういう意味です。おととい来やがれ」


 輝祥は完全に言葉を失ったらしい。口をぱくぱく開け閉めしている。


「行きましょう、かなたさん」


 言うだけ言って、さくらは素早くその場を撤退した。背後から、かなたの愉快そうな笑いと「どこへでもお供いたしますよ、さくら女史」というふざけた声がついてくる。輝祥は「何だあの女!」と激した調子で何やら言っていたが、さくらとかなたはそれが聴こえなくなるまで足早に歩いて離れてしまった。


 人ごみを振り切りずいぶん歩いて、広い庭園の端に着いてしまうと、二人はやっと足を止めた。

 顔を見合わせる。

 ——そして同時に、吹き出した。


「はははは! 言葉で斬りつけるとはこのことだな! さすがは武士の娘だ!」

「ふふ、ちょっと、人聞きが悪いですよ。私だってあんな、知識で人を試すような悪趣味なことはしたくなかったんですから。とはいえスカッとしたのは否定しませんけどね」

「さくら殿は性格が悪いな。素敵だ」


 ひとしきり面白がってから、かなたはきゅっと目を細めた。


「かなたさん、か。貴女に初めて名前で呼ばれた」


 嬉しさを噛みしめるような言い方がこそばゆく、馴れ馴れしかったですか? とさくらが尋ねると、彼は首を横に振る。

 そして、一転して真面目な顔になると、姿勢を正してさくらに向けて深々と腰を折った。


「改めて大変な失礼をお詫びする。俺が貴女を連れていなければ、弟もあんな酷い絡み方はしなかっただろう。おまけに、貴女は俺の名誉を守る形で場を収めてくれた。感謝申し上げる。だが自分が情けない限りだ」

「……私のことはいいですよ。というより、むしろ、あなたは穏便に済ませようとしていたのに、私がいたから引けなかったのでしょう」


 積極的に喧嘩を吹っかけてきた輝祥に対し、かなたは弟との衝突を避けようと遠慮していた印象がある。客人であるさくらが巻き込まれなければ、かなたは自分への侮辱を甘んじて受け入れていたのではないか。


「先程も言った通り、あれはどちらかというとあなたへの攻撃です。あなたは自分のために怒るべきでは?」


 そう言うと、かなたは困った笑顔で軽く肩をすくめた。


「気遣っていただけて嬉しいな。貴女には嫌われていると思っていたが」

「好きも嫌いもありませんよ。あなた自身のことをほとんど何も知らないので」


 答えてみてから、さくらは己の言葉に少し驚かされていた。実際、さくらは彼のことが嫌いで気に食わなかったはずだ。だが、今ではその気持ちも薄れている。

 東条彼方とは、巨大な財閥の御曹司で、洋行帰りの西洋かぶれな青年で、神山桜嵐のやけに熱烈な読者(ファン)である。そういった表面的な情報しかさくらは知らない。そしてさくらは、もう少し彼について踏み込んで知ってみたくなり、試しに質問を投げてみた。


「いったい弟君とはどういう関係なんです?」


 かなたは、んー……と腕を組んで微妙な反応をしてから、こう誘った。


「長くなるから、歩きながら話してもいいか?」


 さくらは承諾し、二人は人目を避けながら夜の庭園を散策した。

 庭園の入口から最も遠い角に盛り上がっている小高い丘の上、広い敷地を穏やかに流れる小川の始点にかかっている橋には、客がまったくいなかった。見事な桜の古木が小さな提灯(ちょうちん)の灯りに浮かび上がっているのみで、宴の賑わいは橋から一望する庭園の景色の一区画に集中していた。

 丸い太鼓橋(たいこばし)の頂上から眼下の様子を眺め、赤く塗られた欄干にもたれながら、かなたはさくらに語り聞かせていた長話を締めた。


「……という感じで、東条家には親子三世代にわたるドロドロの愛憎劇があるわけだ」

「うわ……家系図が何本枝分かれしてどこに繋がってるか整理しきれないです……すご……」


 さくらは感嘆で呆然とさえしながら「えーと、誰が誰を妻の座から追い落として、誰が誰の嫁を略奪して」と指折り確認し直す。かなたは身内の不名誉を恥じるように、後頭部をがしがし掻いて言った。


「まあ端的にまとめれば、俺は妾の子で長男、輝祥は正妻の子で次男、東条財閥はどちらを次期総帥に据えるかでうっすら分裂している、とだけ理解してもらえれば」

「なるほど。ちなみにどちらが優勢なんですか?」

「六対四くらいで俺だった。留学前は」

「……今は情勢が変わったのですか?」

「ああ」


 かなたは短く答えると、足元の小石を蹴って、橋の上から小川へ落とす。小さな水音を聞き届けてから、かなたは少し逡巡して再び口を開いた。


「もともと、俺が筆頭後継者に据えられていたのは、祖父が俺を推していたからなんだ。輝祥は元公家(くげ)のお母君の後ろ盾がある本物の貴公子だが、その尊い血統すら(しの)ぐものは、財閥創始者の鶴の一声ということらしい」


 いかにも新時代の話だ、とさくらは思った。昔なら血筋と家の格が全てものを言っただろう。


「『彼方は自分に似ている』——と、祖父はよく言っていた。そもそも俺の名前をつけたのも祖父なんだ。この子は東条家を遠く彼方(かなた)まで連れて行ってくれるように、という意味らしい。かなり目をかけられていたと思う」


 へえ、とさくらは相槌を打ち、実際お祖父様に似ているのですか? と尋ねる。似ているとしたら複雑だな、めちゃくちゃな人だったから、とかなたは苦笑いする。


「祖父の後ろ盾があったから、輝祥のお母君からどれだけ俺と俺の母が憎まれていようと、俺は東条家で立場を守ることができた。だが、その祖父も六年前に亡くなって、俺の足場が一気に脆くなると同時に、十五歳で社交界デビューした輝祥が台頭していった」


 淡々と語るかなたの顔を、提灯の仄かな赤い光が照らす。

 その声色に敗北感や惨めさといったものはない。ただ凪いでいる。


「その一年後に母も亡くなり、程なくして俺は西洋留学のために家を出た。留学準備は以前から進めていたが、ほとんど逃げ出したようなものだ。俺がそれまで頑張れていたのは、せめて母の名誉を守りたかっただけで、それ以上居心地の悪い場所で孤軍奮闘するやる気も野心もなかった。ああ俺は家業に向いてない、って、はっきり自覚したのは、仏利西亜の煉瓦造りの古アパートの部屋でだったよ」


 瞼を閉じ、春の夜の空気を深く吸い込む彼は、異国の空気を思い出しているかのようだ。欄干に背をもたれさせたまま、かなたはふらりと片足を前に揺らす。


「だから、この頃はなるべく情勢を刺激しないようにしている。帰国してからは一応まだ後継者候補として仕事漬けだが、功績を上げても上げなくても、味方が増えても減っても状況は悪くなる一方だ。俺はいっそ輝祥に次期総帥になってほしいが、あの性格を矯正しないことにはどうにもな……」


 大局的な視点で弟のことで悩むかなたの姿は、彼の自己評価に反してどこか財閥総帥の器を感じさせた。帝王学の賜物というやつだろうか、とさくらは遠い世界で生きてきた彼の半生を想像する。

 だが、「器」自身に求められるものになりたいという意志があるとは限らない。針の筵な立場を乗りこなし周囲に気を遣い続ける生活は、彼の息を詰まらせるものでしかないのだろう。自信満々で怖いものなしの若君という第一印象の裏にあった彼の本音を、さくらは意外に思った。


「あなた、そんなことを考えていたんですか」


 つい漏れた呟きに、かなたはにこっと笑ってみせて——この笑顔は、どうやら社交のために彼が(こしら)えた仮面らしいと、さくらも察してきていた——手をひらひらと振る。


「分かっているさ。所詮は恵まれた人間の悩みだと思うだろう? 貴女のご両親や兄上たちが亡くなってゆく間、俺は元気に孤独な留学生活を楽しんでいたわけだし」

「……まあ、思いますよ。何のかんの言ったって、ひもじさも貧しさも本物の屈辱も味わったことのない、金持ちのお坊ちゃんだと」


 言い過ぎだぞ、とかなたがおどけて口を挟む。

 しかしさくらは、初めて自分から彼の目を真っ直ぐ見上げながら、「ですが」と言葉を続けた。


「そんなあなたに私の小説を好いてもらえたのが、今は嬉しく思えます」


 すうっと、彼の微笑みの仮面がすべり落ちる。

 見開かれたその瞳には、太鼓橋にかかる薄紅色のしだれ桜を背負った、白絹の振袖の若い女の姿が、隅々まで大きく映されていた。


 さくらは、らしくもなく真剣な気持ちを吐露してしまった恥ずかしさで、彼の変化を見ないまま、すぐに顔を横に背けてしまった。庭園を見下ろす側とは反対の欄干から身を乗り出しているしだれ桜の、満開の花を咲かせた糸のような細枝に、その白くほっそりした手を添えて「もう二度と物を書くつもりはなかったんですけど」と呟く。


「新作が書きたいですね。意地悪な継母や義弟にいじめられた御曹司が、家と仕事を投げ捨てて世界一周旅行に飛び出す冒険活劇なんかどうです?」


 冗談めかしてさくらが問うも、かなたは表情の抜けた顔でぼんやりと佇んでいる。

 ……面白くなかったか? とさくらが不安になりかけた時、ふいにかなたは大きめの一歩を踏み込んで、さくらの真隣に来た。


 さくらが少し驚いていると、かなたは彼女の顔を悪戯っぽい目で——いや、少しだけ本気の色を滲ませた目で覗き込み、


「恋物語の方が俺は好きだな」


 と、こう言って笑ったのだった。

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