38.イヌイ、お前は甲子園にいくんだな?
普通に2番打者を仕留めておけば、事件にはならない。
でも、もう、そういう野球じゃないんですよ。
そうじゃないんです。
ともかく、2アウトランナー、一、二塁。
一打出れば、試合を決定づける得点が入る。
しかし、バッターはこれまで全く打てていない二番打者。
案の定、初球外角高めを空振り。
代打でもいれば出したい所だが、海浜のナインは九人しかいない。
「クラスの親睦」が目的で出場した素人チームである。
九人そろっただけでも奇跡に近い。
必死に声援を送る海浜ナインや応援席だが、期待できる打席ではなかった。
二球目の外角スライダーを引っかけて、ボールが1塁線上に転がる。
猛ダッシュしてきた尾形が、ファールになる前にボールを掴んだ。
「あーあ、やっぱり駄目か…」
が、尾形はファーストに投げずに、なんと三塁方向に向かって投げたのだ。
その先に、必死に走るイヌイがいた。
「?!」
ボールは大きく曲がって、イヌイの足を直撃した。
思わずよろめいて、派手に転んだ。
ボールは外野へと転がっていく。
「イヌイっ!立てっ!」
海浜ベンチから、キャプテンの檄が飛ぶ。
その声に、イヌイは起き直り、猛然と走り出す。
三塁を蹴って、ホームへ向かう。
ようやく外野がボールに追いつき、鍛えられた肩でバックホームを投げ込んだ。
「くっ、くそぉ!」
必死に走るイヌイだが、返球の方が僅かに速い。
キャッチャーががっちりとキャッチし、ベースの前でブロックの体制に入る。
だが、滑り込みはじめたイヌイは、もう自分の勢いを止めることが出来ない。
キャッチャーが、タッチしようとミットを振り上げた。
だが、イヌイの体が急に止まった。
まるで急ブレーキでもかかったかのように、土煙を上げる。
ミットは目標を失って振り回され、キャッチャーの体が宙を泳いだ。
「いけっ!イヌイっ!」
背後からの声に、イヌイは倒れ込みながら精一杯腕を伸ばす。
その指先が、地面に浮かび上がる白い物を捜し回る。
「ちっ!」
キャッチャーがあわてて体を返そうとした拍子に、ミットからボールがこぼれ出る。
尾形が、キャッチャーの体を飛び越えて、ボールを宙で掴んだ。
そのまま、三塁線上に倒れているランナーにタッチする。
「審判…」
ベースにふれたイヌイも、仰向けに倒れたキャッチャーも。
三塁線上に倒れていたランナーも、タッチした尾形も。
審判を、見つめていた。
「ホームインっ!ランナータッチアウトっ!チェンジ!」
「な…」
尾形も、キャッチャーも、他のナインも、愕然と肩を落とした。
サードに倒れていた一塁ランナーが、イヌイの足に追いついていたのだ。
そのまま、ベルトの辺りでも掴んで、もう自分では止められないイヌイの勢いを止めて、タッチをかわさせたのだ。
バックアップに入っていた尾形が、それをキャッチャーに言えなかったのが重い失点の一因ではある。
だが、そんなプレイを読み切ることなど、あの状況では出来ないだろう…
わっと駆け寄ってくる、海浜ナイン。
最早、勝ったも同然である。
すでに泣きだしている者さえいた。
審判があわてて押し止める。
そんな中で、イヌイは無言で肩の力を抜いた。
気が抜けると同時に、体のあちこちが痛み始めている。
踏みつけられた右手が腫れ始めた。
落ちてきた遊撃手にが打ちつけた、胸の辺りも痺れている。
送球をぶつけられた足も、かなりの痛みだ。
そして、キャッチャーのブロックをかわしたときにひねったらしい。
踏み込み足になる、右足首の調子がおかしい。
「昭和の奴ら、ひでぇことしやがった報いだな」
「いや、不可抗力…だな」
「だってキャプテン…」
南洋のナインたちは、口々に昭和の野球がどうのこうの言いだした。
「普通の野球で、もうアイツは止められないだろ」
「そういう問題じゃないでしょう」
「じゃあ、最高速165キロと最低速65キロの直球の上に、ありとあらゆる変化球を二階の窓から球離れの瞬間も判らずに全く同じフォームから投げ込んでくる、400球以上投げ込んでバテもしなければ翌日に疲れも残さないような化け物を、どうすればいいっていうんだ?」
「それは…」
「気力と根性…バカを通すしかないでしょう」
能口が、キッパリと言い切った。
「お前な、そりゃないだろう」
「それにしたって、わざとらしく怪我させるなんてあんな汚いやり方はない…」
「いや、能口の言う通りだ」
「キャプテン…」
「あいつらをよく見ろ」
グラウンドからベンチに引き返す昭和のナインたちの表情は、みんな暗かった。
精一杯のプレイの結果が、重い重い失点となって返ってきたのだ。
タッチをかわされた時に、肩を撃ったらしいキャッチャーは、しきりに手で抑えながら歩いている。
イヌイの上に落ちた遊撃手も、足をくじいたらしい。
そして、昨日200球以上投げた尾形も、三塁間への送球の際に無理をしたらしく、アイシングを始めている。
他のナインにしても、疲労と敗色の色を隠せない様子だ。
「確かにあいつらのやり方は、野球じゃないのかも知れない。
だが、体を張るしか、もう今のイヌイを倒す事は出来ないと悟ったんだろう。そういう覚悟をしているから、尾形がグラウンドに残るのをみんな認めていたんじゃないのか」
「そんな…」
「いや、俺もそう思います」
能口は、足を引きずりながらマウンドに登るイヌイを見ながら、そう言った。
「グラウンドで戦っている奴にしか、どうのこうの言う資格はないですから」
イヌイも、そう思っているからこそ、何の抗議もしなかったのだろう。
尾形の三塁悪送球にしても、充分抗議の対象になるはずなのに。
それを全て受け止めて、イヌイ、お前は甲子園にいくんだな?
全部抱えて、甲子園に、行くんだな?
傍から見れば、そう見えます。
そんなに、甘くないです。
誰が書いてると思っているんですか?




