35.やっぱり、ヤラカシやがった!
南洋第一の選手たちも暇だけど、一般観客も暇な人が多いんですね。
まあ、確かに、ここまで応援してきたら、ねえ。
最後まで観たいですよね。
海浜のマウンドに、イヌイが登る。
応援席から歓声が沸き起こった。
昨日のあまりにも長い試合で、疲れ切って帰った観客たちである。
しかし、今日の試合を再び見にきたのは、野球が本当に好きだからだ。
歴史的な瞬間に立ち会えるかも知れないという期待感から、足を運んだのだ。
席は半分ほどしか埋まっていなかったが、応援は昨日と変わらない勢いだった。
そんな観客に、イヌイは大きく手を振って応える。
他のナインも、律儀に帽子を取って、深々と頭を下げていた。
「…まったく、まじめな奴らだよな」
「あいつらは、最初からあんな風だったよ」
イヌイが大きなモーションから投げ込んだ球は、外角低め一杯のストレート。
ストライクのコールに、歓声と拍手が起こる。
昨日と、球威が変わらなかった。
あっと言う間に、二番、三番と討ち取られていく。
だが、さすがに四番打者は必死で食らいついてくる。
二球目の大きなカーブに、タイミングを合わせきれず、ファールチップ。
キャッチャーの後ろを守っていたショートが勢いよく走ったが、とても追いつける軌道ではない。
「あせんなくていいぞ。球は充分走ってる」
キャッチャーが声をかける。
昨日、イヌイの調子が良過ぎて、ほとんど守備機会がない守備陣である。
キャッチャーは肩をゆさゆさと揺らして、ナインにリラックスするよう指示する。
一方のイヌイは、ムカッとした顔をしていた。
バットに掠めさせたのが、面白くないらしい。
キャッチャーは、そんなイヌイには何の指示も出さなかった。
黙って内角高め一杯に構える。
イヌイは、バッターにボールを見せると、手を回して握りを見せた。
指を二本かけた、ストレートの握りだ。
そして、腕を曲げて自分の右肩を示し、ボールを通して見せる。
「あれって。次はストレートを内角高めに投げるっていう意味か?」
「…挑発のつもりか、天狗になってんのか」
さすがにキャプテンはむかついたらしい。
声に刺がある。
「い、いくらなんでもそこまで…」
「いや、ああいってピシャリと抑えこんだら、昭和のバッターは今日も打てなくなる」
「能口、そりゃいくら何でもヒイキしすぎだろ」
「連続三振の記録もあるし?自分からそんな不利になることしなくても」
能口は、首を振って応えた。
「アイツは、そういう記録とかにこだわらないんじゃないかな」
「じゃあ、何にこだわってるんだよ」
「やっと手に入れたものにだよ」
「やっと、って?」
「本当の意味で、野球ができることさ」
イヌイの三球目は、本当に内角高め一杯に来た。
正真正銘のストレートだった。
「な、なめるな!」
打席のバッターは、昭和の四番である。
甲子園チームの四番である。
それが、コースと球種まで示されて、打たないわけには行かない。
だが、力一杯振ったバットが空を切った。
ボールが急に、白い筋と化して見えなくなったのだ。
同時に、乾いた音を立ててミットに納まる音が聞こえた。
「…て、手元で伸びるのか…」
どんな速い球を投げるピッチャーでも、投げた瞬間の初速とミットに届くまでの終速には違いがある。
この減速の差が少ないほど、打者の目には手元で伸びてくるように感じる。
その落差が、全くないように投げ込まれたのだ。
「は、はえぇ…」
「…今の球、160キロ超えてんじゃねえか?」
「いや、まだ出てると思うぞ。ちょっとスカウトの人に聞いてくる」
能口は、バックネット裏に向かう。
「165キロだって
「せ、世界記録で164キロだったよな」
「イヌイ…」
確か、昨日400球以上投げたはずである。
そもそも、人間の投げる速さの限界すら超え始めている。
どこまでいくのか、恐ろしさすら感じる能口だった。
延長52回の表、海浜の四番は敬遠された。
昨日と合わせて、三打席連続の敬遠である。
次の打者の時、思い切って盗塁を試みたが、ピッチャーは判っているかのようにウエストし、矢のような牽制球に刺されてあえなくアウト。
昭和の監督が、珍しくベンチから出てきて、手を叩いて褒めている。
悔しそうな四番バッターを尻目に、後続打者はきっちりと抑えられた。
延長52回裏、イヌイの前に、5番の尾形が打席に立った。
昨日の過酷な投球が響いているのか、肩を上げるのも辛そうで、バットを構えていない。
「やっぱり、無理だよ」
「なんで代わらないんだ、尾形の奴」
「また、演技か?」
「元気ならな。昨日の今日だ、バット振れないのに演技に意味あるのか?」
海浜ナインの心配をよそに、尾形は構えこそしないものの、じっとイヌイを見据えている。
「何のつもりだよ、尾形」
かっこよくないかも知れないと言っていたのは、このことか?
だったら、いったいなんの意味があって打席に立ってるんだ?
能口の、そしてイヌイの前で尾形は叫んだ。
「さあ、来いっ!手ぇ抜いたら承知しないぞ!」
ボールを手で弄んでいたイヌイは、その言葉にキッと顔を上げる。
「判ってんだろうな、イヌイ!ここだぞ、ここ!」
キャッチャーも、ミットをバシバシ叩いて構えて見せる。
前の試合でキャッチャーに衆人の中でK.Oされたのを思い出したらしい。
「おうっ!」
イヌイが、マウンドで吠えた。
「あぁあ、これで尾形の出てきた意味は完全に無くなったな」
「イヌイが手抜きか、手加減して緩い球を投げるかもしれない可能性がな」
実際、イヌイは普段と代わらない、いや、普段以上に大きなモーションから思いっきり投げ込んだ。
キャッチャーも、単純など真ん中ではなく、内角高め一杯を指示している。
投げ降ろした剛速球が、糸を引くようにミット目掛け飛んでいく。
その時。
尾形がフラッとしたように、ホームベースに倒れてきたのだ。
ガキッ…
硬い物が破砕する、鈍い音を立てて、イヌイのボールが尾形のヘルメットを直撃した。
そのまま、ばったりと倒れる尾形。
ピクリとも身動きしない。
「タ、タイムっ!!」
審判があわててタイムを宣告し、駆け寄る。
昭和のナインも、海浜のナインも、あたふたと駆け寄せた。
その中で、イヌイだけは、マウンドに立っていた。
呆然と、立ちすくんでいた。
「お、俺、見てきますっ!」
「お、おいっ!」
止める声など聞こえるはずもなく、能口はグラウンドに走り出していた。
いや、ヘルメット被ってるからといったって、アレはマジで死ぬぞ?
しかも、ストライクゾーンに自分で当たりに行ってるんだから、最悪退場まであるぞ?
野球、をつけないで、普通にバカだろ?
もしかして、連続三振記録の阻止かぁ??




