29.手抜き
大ヤマを張って振ってきたか。やるではないかね。
相変わらずランナーは全く無視して、イヌイが次の打者に投げ込む。
当然走るランナー。
しかし、投げられた球は、内角高め一杯ギリギリにコントロールされた、生きた球だった。
バッター手がでずストライク。ランナー二塁。
次の投球の時も、ランナーは三塁へ走った。
外角高め一杯に決まって2ストライク。
「イヌイ、本気で投げ始めましたね」
「昭和も、予定通りにノーアウト三塁だな」
「予定通り?」
思わず能口は聞き返した。
「ああ、尾形は、イヌイに意識させるために、緩いストレートを繰り返し投げたんだろう。自分たちはイヌイが本気で投げるような相手じゃないってな」
「…そんなのアイツが意識しますか?」
「するさ。あの男は、人間相手に試合をしたことがないんだろう。今までの試合記録を元に、あの監督あたりが作戦を立てたんじゃないか?」
昭和のベンチでどっしりと構える監督が、じっとマウンドを見守っている。
「あの西智の監督あたりじゃ、まず思いつかないよな」
「そりゃそうですけど、イヌイがピッチングで手を抜くなんて…」
言いかけて、思い出した。
自分たちと初めて対戦した時、イヌイは俺たちがまったく手のでない事を良しとして、何度も同じコースに投げていたではないか。
二回戦でも、まるで本気で投げてはいない。
三回戦で、相手チームに継投策を取られた時は、後半になるほどペースを上げていった。
65キロのチェンジアップを使ったのは、四回戦が初めてで、しかもそれはかなり追い詰められていた後だ。相手が戦意を失った後は、楽そうに投げている。
五回戦にしても…
「確かに、手、抜いてますね」
「それも、投球術の一つだろ。最初から飛ばして、バテたら元も子もないからな。ただ、その油断を監督はついてきているということだ」
「油断?」
「ああ、たった一回しか使えないチャンスだけどな。…俺たちは、そのただ一度の油断をつかれて、負けたんじゃないのか?」
「…そうですね」
あの十回の表、それまでバットを振り回していた海浜の選手が振らなくなったのを、やる気を失ったのだと勘違いした自分の傲慢さ。
そのツケを、今こうして払っているのだ…
「ただ、あのイヌイとキャッチャーが、このまま黙っているとは思えないけどな」
海浜のナインがマウンドに集まってきた。
全員で肩を組んで、打ち合わせを始める。
「がっちりな!」
「おうっ!」
気合を入れて、守備に散らばった。
「守備に、特に変化無しか。普段通りですね」
「もともとスクイズ警戒の守備位置だからな。昭和が狙うなら、ヒッティングがセオリーだけど、多分一度しか貰えないチャンスだ。もっと別な作戦をとるだろうな」
「海浜バッテリーは?」
「バントさせるならさせて、本塁だけ守って満塁策じゃないか。迂闊に一塁でアウトを取る間に、足の速いあの三塁ランナーに突っ込まれると危ないからな」
キャプテンはそう解説しておいて、能口を見る。
「俺ですか?俺なら、この追い込んだバッターと次の打者は三振狙いですね」
「そうだな。ただ、イヌイならそれは難しくないだろうが、確実に取らないと事件になるよな」
「はい…」
キャッチャーが、イヌイの方になにかシグナルを送っている。
イヌイが、一度首を振り、次に頷いた。
「あれって…」
「サイン、だよな」
能口は、キャプテンと顔を見合わせた。
「アイツらが、サイン…?」
イヌイは、ボールを真上に上げてキャッチすると、一つ深呼吸をした。
おもむろに構えると、大きなモーションから投げ込んだ。
が、ボールは高くすっぽ抜ける。
「あっ、暴投!」
思わず叫んだイヌイは、その後に自分の目を疑った。
完全にすっぽぬけのはずのボールが、打者の真上あたりからいきなりストンと落ちたのだ。
ベースの上で跳ねて、キャッチャーミットにすっぽり納まる。
「…ススス、ストライク!バッターアウト!」
審判も、目を丸くして驚いている。
バッターも、指一本動かせなかった。
その中で、キャッチャーだけが、何でもないようにボールを返していた。
「驚いたな。アイツ、フォークなんて持ってたのか」
「あの高さから落とされたら、ちょっとやそっとじゃ打てないですね」
「いや、しかし、だって…」
能口は、なかなか言葉にならない。
「だってキャプテン、ランナー三塁ですよ。もし後ろにそらしたりしたら…」
代わりに相方のキャッチャーが代弁してくれた。
「だから、サインを送ったんだろう?」
「そりゃ…」
「イヌイたちとしては…」
ニヤリと笑って、キャプテンは昭和高校の監督を見た。
「あの狸親父のウラをかいたつもりなんだろうさ」
「はあ?」
「忘れたのか、アイツらは素人だぞ」
では、ちょっとだけ、ボクちんの本気というものを見せてあげようではないかね。




