09 《フラセ》リンジュ・フィオーレは…
「また派手にやったなー」
おーおー。級友のそんな声を耳にして、フラセは上体を起こす。
振り向けばやはり、6年2組のユージン・キーファーが壁に開いた無数の穴をマジマジと、しかし楽しそうに眺めていた。
何がそんなに楽しいのやらと思っていればユージンの横から紫色のローブをはためかせながら後輩が1人、駆け寄ってくる。
「ラリオ先輩大丈夫ですか? お怪我があるようなら治療を…」
「怪我一つないから必要ない。心配させてすまないな、フラット」
ディーエクタス・アクアエ・フラット。4年1組の女子生徒だ。
ユージンが部長を務める武芸クラブに所属していて、彼の直属の後輩と言える。
「ディー、心配するならフラセより壁の方だ。総会前にこれでは、ロクヤがさぞかし怒るだろうなー」
「キーファー先輩そんなこと言っている場合じゃないでしょう」
「いいや、そんな場合だ。フラセがやったと早くロクヤに伝えておかないと、我等武芸クラブのせいにされてしまうぞ」
「そ、それはいけません! ただでさえクラブ活動のたびにあっちこっち壊してしまって補修に部費がもう殆ど残っていないのに! 総会前にそれはやばいです!」
「だろー? と言う訳で先にロクヤに報告して来てくれ。ここの壁は武芸クラブのせいじゃないとなー」
分かりました! フラットは駆け出し、あっと言う間に姿が見えなくなる。
武芸クラブのやり取りに呆れつつ、フラセは膝に手を置き重い身体を叱咤しながら立ち上がった。
「ちゃんと自己申告して補修費も自分で払うわ、あほう」
「そうか。で? 何があってヴァロータ・チャチャイとやり合う事になったんだ?」
ユージンを睨むと彼はニッと白い歯を見せる。
「闘いの匂いに誘われて来てみれば面白い事になっていたからなー。私も混ぜてもらおうと思ったんだが一瞥されてしまい、仕方なくディーと終わるのを待っていた」
フラセはユージンが足音を立てながら近付いてくる今し方まで、ユージンにもフラットにも気付いていなかった。ついでに、ヴァロータ・チャチャイが一瞥とやらをしたのも知らない。
それだけヴァロータ・チャチャイに意識を持っていかれていたのだが、相手の方はそうではなかったと思い知らされれば面白い訳がない。余計に惨めになる…。
「クソッ」
「お? どこ行く気だー?」
「フラットが言いに行ったから、すぐにロクヤが飛んでくるだろう。悪いが補修費は言い値で払うと伝えておいてくれ」
「交渉なしか? えらく太っ腹だなー」
「今はロクヤとも、お前とも話す気分じゃねぇんだよ…」
「負けて傷付いているのかー? 総会前でボロボロの状態だったんだからそう気にするな!」
「万全の状態でも同じだったさ…」
一撃も入れられなかった。
壁を穴だらけにするくらい攻撃を放ったのに。避けるだけの相手からは一度も攻撃されず、ただ抑え込まれて終わった。
後衛クラブで培った書類作業だけでなく、魔槍を得意武器に戦闘面も大人顔負けの実力があると評価されてきたフラセの矜持は大いに傷付けられた。
慢心していた訳ではないが、これが最高学年でも所詮は学園生とトップクラスと名高いプロとの差か…。
ユージンに背を向けて、フラセはフラフラと歩き出す。
行く当てなんてない。
総会前のとにかく忙しいこの時期、本来なら1日とてクラブ活動を休む訳にはいかないのだが……どうしても今は、その気になれない。後衛クラブの後輩達には「後でまとめて片付ける」と詫びの知らせを入れて、フラセは歩み続ける。
脳裏に浮かぶのはただ1人の姿。
片目しか見えない不審者などではない。
「リンジュ…」
一等美しい髪を持った同級。
テフル魔法学園に入学した日から誰よりも近くで見て、誰よりも知っていると…思っていた。
リンジュ・フィオーレは小さかった。
入学時、皆と並ぶと頭一つ分背が低くて年下にしか思えなかった。彼女の隣にいると、まるで妹でも出来たような気分だった。
リンジュ・フィオーレは人見知りだった。
自分からは人と関わろうとせず、フラセには慣れたと思ったらいつも背に隠れるようにしていた。彼女が背後にいる時は、兄にでもなった気分だった。
リンジュ・フィオーレは身体が弱かった。
下級生の頃は頻繁に体調を崩して、よく救護室に連れて行っていた。そのお陰か、救護クラブのルシアと仲良くなれた時は安心した。
リンジュ・フィオーレは負けず嫌いだ。
出来ない事を出来ないままにするのを嫌い、出来るようになるまでひたすら練習していた。寮に帰る時間に彼女を探し出して、よく連れ帰ってやった。
リンジュ・フィオーレは意地っ張りだ。
具合が悪かったり怪我をしたりして歩けない彼女をおぶってやっても、誰かに見られるのは嫌がった。なので、人目がある所ではその前に下ろしてやっていた。
リンジュ・フィオーレは短気だ。
後輩の前では取り繕って余裕ぶっているが、級友相手にはすぐにキレる。すぐに魔法を放っては吹っ飛ばそうとする。遠慮も手加減もない。
リンジュ・フィオーレは我が儘だ。
髪の手入れだけじゃなく、しょっちゅう人を顎で使う。人にやらせておいて手柄はちゃっかり自分のモノにする。
リンジュ・フィオーレは人をからかう。
物を取ってと手を出せば、何故か握手していて頼んだ物は取ってくれない。こっちが怒っても笑って聞きやしない。
リンジュ・フィオーレは…。
リンジュ・フィオーレは…。
リンジュは、美しい。
髪や顔だけじゃない。姿勢、立ち居振る舞い、喋り方、生き方、全てを彼女自身がそうあろうと掲げ、目指して身に付けてきた。
弱さも欠点も乗り越え、真っ直ぐに前を見据えて進む彼女の姿に好意を持った。
背に守っていたはずが隣に出てきていつの間にか自分より前にいると気付いた時に、リンジュは妹ではなくなったし、フラセも兄ではなくなった。
必死に追いかけて隣に並んだ。
並び立つ彼女の凛とした横顔を見るのが好きだった。
それで済まそうと思っていた。
進む彼女の邪魔をしたくなかった。
その腕を掴んで自分の方を振り向かせるのではなく、道は別れても、真っ直ぐ伸びた美しい後ろ姿を見送ろうと思っていた。
それでいいと思っていた。
思っていたのに…。
「なんで知っているんだよ、あの半仮面ッ…」
拳を握りしめると、手に持っていた物がミシッと音を立てる。
半仮面と呼ぶ不審者とやり合ってからどれだけ時間が経ったのか、周囲はすっかり暗い。校舎や寮、建物に付いた灯りが夜の闇にその外郭を淡く浮き上がらせている。
フラセは東屋の中から、池に浮かぶ月をガラス越しにぼんやりと眺めていた。
宛てもなく歩いて真っ先にここに来たのではなく、まず寮の自室に帰っていた。重い身体をベッドに横たわらせずに、机の引き出しから隠すように仕舞い込んでいた小さな包みを取り出した。
昔、一目見てリンジュに似合うと思い、気付いたら手に取っていた髪留め。結局渡せなくて、仕舞い込む事で自分の気持ちにも蓋をしていた。
買うところは誰にも見られていなかったはずだ。唯一知っているとすればその店の店主だが、高齢で既にこの世にはいない。
なのに、何故…。
長く仕舞っていた髪留めを持って、フラセは東屋まで来た。
それからは椅子に座ってただぼんやりと、いつも暇さえあれば鍛練に明け暮れている普段の自分らしくもなく、ふと取りとめのない事を考えては無為に時が流れるのに身を任せていた。こんな事、入学してから6年の間に一度もない。
手に持っている髪留めは包装されたままだが、どんな物だったかは鮮明に覚えている。当時のリンジュには似合っていただろうが、今の彼女には子供っぽくてきっと似合わないだろう。
「やっと見付けましたわ、ここにいましたのね」
カタリと音を立てて東屋の扉が開いたと思えば、ずっとフラセが思い浮かべていた人物が入口に立っていた。
「リンジュ…」
「夕食の時に姿が見えなくて総会前で忙しいのかと思っていれば、後衛クラブの後輩達が今日は姿を見ていないと言うではありませんか」
安堵とも呆れとも取れない息を一つ吐いて、リンジュは東屋の中へと入ってくる。
「ユージンに聞きましてよ? ヴァロータ・チャチャイの胸を借りたと。何があってそうなったのか知りませんが、まさか負けて落ち込んでいるなんて事ありませんわよね? わたくしが知っているフラセ・ドゥ・ラリオなら、落ち込むより先に再戦に向けて鍛練するはずですが?」
目の前に立ち、腰に手を置きながら椅子に座るフラセを上から覗き込むように見下ろすリンジュ。
ハラリとリンジュの結われていない髪が肩を滑り、フラセの前に落ちてくる。
その髪に、フラセは手を伸ばした。
「フラセ?」
自分の髪に手を伸ばすフラセの様子にリンジュは不思議がるが、当のフラセは返事もしない。
フラセは考えていた。
あの半仮面の言う事を鵜呑みになんかしたくない。
からかわれた可能性の方が高い。きっとでたらめだ。きっと、そうだ。
でも、本当だったら?
確かめる方法はある。自分なら絶対に見落とさない方法が。
違っていたら……いつものようにリンジュに魔法で吹っ飛ばされるだけだ。
そしていつも通り。
いつも通りの明日と、いつも通りのいつかになるだけ。
フラセは掴んだリンジュの髪を一房、自分の口元へと近付け……静かに、音も立てずに口付けた。
「…」
静寂が流れる中で顔を上げたフラセの目の前にあったモノは…。
「……っ……ぁ、な……ぇ…」
池に浮かぶ月の光に照らされた、白い肌を真っ赤に染め上げたリンジュの顔。
それだけで十分だった。
「リンジュ!」
「ぅひゃいっ」
立ち上がってリンジュを至近距離で見つめ合えるように抱き寄せる。
彼女らしからぬ声が聞こえたが何も言うまい。今、言うべき事は他にある。
気持ちも髪に纏わる風習の事も、何故言わなかったのか言われなくても分かる。
分かるくらい、ずっと見てきたのだ。
リンジュもフラセと同じ。邪魔をするのではなく、別れた道の麓で、相手を見送ろうと思っていたのだ。それでいいと思っていたのだ。
ヴァロータ・チャチャイが示唆したリンジュの未来を、今まで考えた事がなかったと言えば嘘だ。だから奴の言う事がすぐに理解できた。
別れた道のずっとずっと先でなら、そうなってしまっても仕方がないと思っていた。そうなっても遠くに別れた自分には何も出来ないのだから、何か言う資格もないと。
だが、今。目の前で、手の届くところでそうなるのなら話は別だ。見過ごす事はフラセには出来ない。
してたまるか。
言うべきは…動くべきは、今。
フラセは持っていた髪留めの包みをリンジュの目の前に取り出した。
「これは! 昔お前に似合うと思って買った髪留めだ! 今のお前には似合わないだろう! 今度の休みに今のお前に似合う髪飾りを買いに行こう! だが今は! これを! 受け取ってくれ!」
至近距離で見つめ合っているのだからこんなに大きな声で言う必要はない。
だがそれがフラセなのだ。
大きい声で言ってしまう。それがフラセ・ドゥ・ラリオなのである。
リンジュ・フィオーレはそれを知っている。
フラセがリンジュを知っているように、リンジュもまた誰よりもフラセを知っているのだから。
「なんで…知って…」
見る見るうちにリンジュの瞳が潤んでいく。
「いいの? わたくしで…。わたくしは……重いわよ?」
「いくらでも背負ってやる。俺の足腰の強さを舐めるな」
「バカ…」
クスッとリンジュが笑えば、その瞳から涙が零れ落ちた。
髪留めの包みを持つフラセの手にリンジュの手が重なるーーー




