第9話 この潜入作戦、大丈夫か?
その日の夕方、悠真は最低限の荷物だけを渡され、城の裏手にある転移施設へ案内されていた。
そこは城内でも限られた者しか立ち入れない区域らしく、高い石壁と厳重な警備によって守られている。広場の中央には巨大な魔法陣が刻まれ、その周囲を囲む十数人の魔導士たちが絶えず詠唱を続けていた。
複雑な紋様を描く光の線は脈打つように明滅し、まるで地面そのものが生きているかのような不思議な光景を生み出している。
「へぇ……。」
悠真は思わず感心した。
「異世界に来てから色々見たけど、こういうのは初めてだな。本当にファンタジーって感じだ。」
老人は満足そうに頷く。
「初めて見るのも無理はない。転移魔法は連合国でも最高機密技術の一つだからな。」
「これで魔族領まで飛べるんですか?」
「正確には近くまでだ。」
老人は広げた地図を指差しながら説明を続けた。
「魔族領内部には強力な結界が張られている。そのため直接潜入は不可能でな。君を転移させるのは国境付近――魔族領から数キロ手前の地点になる。」
「なるほど。」
悠真は一度頷きかけたものの、すぐに首を傾げる。
「……いや、全然なるほどじゃないな? 数キロって普通に遠くないですか?」
「徒歩で半日ほどだ。」
「結構遠いな!?」
そこまで言ってから、悠真はあることに気付いた。
「ちょっと待ってください。国境近くまで飛ばしてもらえるのは分かりましたけど、その後はどうやって魔族領へ向かうんですか?」
「徒歩だ。」
数秒の沈黙が流れる。
「……徒歩?」
「ああ。徒歩だ。」
嫌な予感しかしなかった。
「ちなみに護衛とかはいないんですよね?」
「いない。」
「じゃあ一緒に行動する仲間は?」
「いない。」
「なるほど。完全単独行動、と。」
悠真は頭を押さえながら最後の希望を口にする。
「念のため聞きますけど、自衛用の武器くらいはありますよね?」
「ない。」
「ないんだ!?」
思わず声が裏返った。
「じゃ、じゃあ食料は!?」
老人は小さな布袋を取り出して手渡す。
「これだ。」
中を覗くと、乾パンのようなものが数枚入っているだけだった。
「三日分だ。」
「少なっ!」
悠真は思わず叫ぶ。
「いやいやいや! 潜入任務ですよね!? 遠足じゃないですよね!? なんで食料が三日分しかないんです!?」
老人はわずかに目を逸らした。
「転移には厳しい重量制限があってな。余計な荷物は持たせられんのだ。」
「俺の命より乾パン数枚の方が重いってことですか!?」
「現地調達も潜入任務の基本だ。」
「初心者に求めるレベルじゃないでしょうそれ!」
能力なし、武器なし、護衛なし、仲間なし。そのうえ食料は三日分だけである。
悠真は静かに空を見上げた。
「本当にこれ、人類の命運を懸けた極秘任務なんですよね?」
「もちろんだ。」
「遭難者を自分たちの手で作り出した場合、どれくらい生存できるのかを調べる人体実験じゃないんですよね?」
「違う。」
「本当ですか?」
「本当だ。」
全然信用できなかった。
しかしロイドは表情一つ変えずに続ける。
「安心したまえ。」
「だからどこがですか。」
「君なら何とかなる。」
あまりにも雑な励ましだった。
「根拠は?」
「今まで全部何とかなってきただろう。」
悠真は絶句する。
確かに奴隷生活から脱出し、隊長級魔族毒殺事件も乗り切り、気付けば英雄扱いまでされている。
だが、その全てに共通するものが一つだけあった。
「全部運です!」
悠真は全力で反論した。
「完全に運だけで生き残ってるんです! 俺の実力じゃないんです!」
しかしロイドは平然と腕を組んだまま頷く。
「運も実力のうちだ。」
「そんな理論あります!? それが通るなら賭博場の常連が全員英雄になっちゃうでしょうが!」
だが、その反論にも周囲の兵士たちは感心したように頷くだけだった。
「運だけで何度も生き延びられるものではありません。それだけ運命に愛されているということでしょう。」
「さすが英雄殿だ。常人には真似できませんな。」
「やめて! 勝手に格を上げないで!」
悠真は必死に否定するが、その姿すら謙遜だと受け取られているのか、兵士たちの尊敬の眼差しはますます強くなるばかりだった。
必死の訴えも誰一人として聞いておらず、周囲を見渡しても将校も兵士も揃って真顔で頷いている。
(だめだ……誰も俺の話を聞いてない。この国、本当に大丈夫か……?)
そんな悠真の心配をよそに、ロイドは不意に表情を引き締めた。先ほどまでの会議中の空気とは違う、歴戦の軍人そのものの顔だった。
「悠真。」
「はい。」
「敵地では決して目立つな。怪しまれる行動もするな。そして誰にも正体を知られるな。」
「分かってますよ。むしろ俺が一番そうしたいですから。」
悠真は肩をすくめる。
どう考えても、それは自分が最も望んでいることだった。目立たず生き延びて帰国し、報酬を受け取る。それだけでいい。
するとロイドは短く続けた。
「必ず生きて帰ってこい。」
その一言だけは重かった。
そこには勘違いも英雄視もなく、危険な任務へ送り出す上官としての純粋な気遣いが込められている。
だからこそ悠真も自然と姿勢を正した。
「……はい。」
「君ならやれる。」
(だからその根拠は何なんだよ……。)
そう思ったが、不思議と嫌な気はしなかった。
ロイドは魔導士たちへ向けて手を上げた。
「転移を開始しろ。」
号令と同時に魔導士たちの詠唱が一気に強まり、巨大な魔法陣が眩い光を放ち始める。地面は低く唸るように震え、周囲の空気さえ歪んで見えた。
悠真はゆっくりと光の中心へ歩み出る。
不安はある。できることなら今すぐ帰りたい。
だが、この任務を成功させれば金貨五百枚が手に入る。その事実だけが、かろうじて悠真の足を前へ進ませていた。
(毎日ステーキ……。)
輝かしい未来への希望を胸に、悠真は力強く叫ぶ。
「行ってきます!」
次の瞬間、世界は白い光に包まれた。
***
激しい浮遊感に襲われ、悠真は胃の中身がひっくり返りそうになるのを必死に堪えた。
「うっ……。」
視界がぐるぐると回る。
「うおぉぉぉ……気持ち悪い……。」
何秒だったのか、それとも何分だったのかさえ分からないまま意識が揺さぶられ続ける。
「うろろろろろろ……。」
吐きそうになりながら口を押さえていると、不意に浮遊感が消え去り、溢れていた光もゆっくりと収まっていく。
恐る恐る目を開けた悠真の視界に飛び込んできたのは、枯れ木ばかりが立ち並ぶ黒い森だった。
空は厚い雲に覆われてどんよりと暗く、吹き抜ける風には鉄臭さにも似た不快な匂いが混じっている。連合国側で見た豊かな緑とは何もかもが違い、まるで別世界へ迷い込んだかのようだった。
「うぇっ……。」
悠真は膝に手をついて深呼吸する。
「転移魔法、二度と乗りたくねぇ……。」
ようやく落ち着いたところで周囲を見回し、思わず顔をしかめた。
「うわぁ……。 本当に魔族領なんだな……。」
辺りは異様なほど静かだった。
鳥の鳴き声は聞こえず、木々が揺れる音すらどこか不気味に感じる。呼吸をするだけで胸が重くなるような圧迫感があり、本能がこの場所の危険性を訴えていた。
後ろを振り返っても転移陣はすでに消えている。
当然ロイドたちの姿はなく、周囲に人の気配も一切ない。悠真は今、自力で生き延びなければならない敵地のど真ん中へ放り出されていた。
「さて、と……。」
悠真は自分を落ち着かせるように息を吐くと、懐から地図を取り出した。
「まずは近くの集落でも探すか。」
潜入任務である以上、魔族社会へ紛れ込まなければ始まらない――そう決意した直後、静まり返った森へ不釣り合いなほど大きな腹の音が響いた。
ぐぅぅぅぅぅ。
悠真は無言で空を見上げ、小さくため息を吐く。
「……緊張しすぎて腹減った。」
普通なら食欲が失せてもおかしくない状況だが、どうやら彼の胃袋は危機感より空腹を優先するらしい。緊張と空腹は別問題だと割り切った悠真は、袋から乾パンを取り出して一枚かじった。
「かってぇ……。」
ぼりぼりと乾パンを砕きながら森の中を歩き始める。しかし数十メートルほど進んだところで、近くの茂みから不自然な物音が聞こえ、悠真は足を止めた。
「ん?」
最初は風か野生動物だろうと思ったが、その予想を否定するように茂みが再び大きく揺れた。ガサガサッという音は明らかに生き物の気配を伴っており、悠真は乾パンを握ったまま恐る恐る振り返る。
そして、その場で固まった。
草むらの奥から現れたのは、緑色の肌を持つ小柄な魔族たちだった。数は三人。手には粗末な木槍を握り、獣の皮を繋ぎ合わせただけの簡素な服を身に着けている。その姿は図鑑で見たものとまったく同じだった。
ゴブリンである。
三人は森の中から現れるなり、驚いたように目を丸くして悠真を見つめていた。
(ゴブリンだ……。)
悠真の背中を冷たい汗が伝う。
よりにもよって潜入開始直後に魔族と遭遇してしまった。
(終わった……。)
脳裏にはロイドの言葉が次々と蘇る。
『決して目立つな』
『怪しまれる行動はするな』
『誰にも正体を知られるな』
その瞬間、三人のゴブリンは顔を見合わせると、何かを確信したように興奮した声を上げた。
「お、おい! 見ろよ!」
「あいつ……まさか!」
「間違いねぇ!」
悠真の心臓が跳ね上がる。
全身から血の気が引き、嫌な汗が止まらない。
(バレたぁぁぁぁぁ!?)
人生初の潜入任務は、開始からわずか数分で終了した気がした。




