第9話 この潜入作戦、大丈夫か?
その日の夕方、悠真は最低限の荷物を渡され、城の裏手にある転移施設へと案内されていた。
そこは城内でも限られた者しか立ち入れない区域らしく、高い石壁に囲まれ、入口には武装した兵士が何人も立っている。広場の中央には巨大な魔法陣が刻まれ、その周囲では十数人の魔導士たちが詠唱を続けていた。複雑な紋様をなぞる光の線が脈打つように明滅し、地面そのものが生きているかのような光景に、悠真は思わず足を止めた。
「へぇ……すごいな。異世界に来てから色々見たけど、こういうのは初めてだ。本当にファンタジーって感じがする」
「無理もない。転移魔法は連合国でも最高機密の一つだからな」
案内役の老人は、悠真の反応に満足したように頷いた。どうやら、この施設を見せること自体にも意味があるらしい。
「これで魔族領まで飛べるんですか?」
「正確には、その近くまでだ。魔族領の内部には強力な結界が張られていてな、直接転移することはできん。君を送り届けるのは国境付近、魔族領から数キロ手前の地点になる」
「なるほど……って、数キロ?」
納得しかけた悠真は、老人が広げた地図を覗き込んで首を傾げた。数キロと聞けば大した距離ではないようにも思えるが、これから向かうのは魔族の支配する敵地だ。しかも、そこへ行くのは自分一人である。
「いや、普通に遠くないですか? そこから魔族領まではどうやって行くんです?」
「歩きだな。半日もあれば着くだろう」
「初っ端から徒歩で半日!? いや、転移できるだけでも十分ありがたいですけど、敵地の目の前まで送ってくれるわけじゃないんですね……」
思わずぼやいてから、悠真はふと大事なことに気づいた。転移先から国境までの距離ばかり気にしていたが、そもそも自分は何の準備もできていない。
「それで、現地まで一緒に来てくれる人はいるんですよね? 護衛とか、潜入に詳しい人とか」
「いや、君一人だ」
「……え?」
「潜入任務なのだから、大勢で動くわけにはいかんだろう」
「それはそうですけど! せめて一人くらい、経験者をつけてくれてもいいじゃないですか!」
悠真は頭を抱えた。言われてみれば、確かに潜入任務に大人数は向かない。しかし、それならなおさら素人を一人で送り込む理由が分からない。
「分かりました。じゃあ、せめて自衛用の武器くらいは用意してありますよね?」
「いや、武器は持たせられん」
「そこは用意してくださいよ! 魔族領に丸腰で行けってことですか!?」
悠真の悲鳴にも、老人はさほど気にした様子もなく、今度は小さな布袋を差し出した。
「食料なら三日分用意してある」
受け取った袋を開けてみると、中には乾パンのようなものが数枚入っているだけだった。悠真は袋の中身と老人の顔を交互に見た。
「……これで三日分?」
「そうだ」
「いやいや、待ってください! 魔族領まで行って、そこから潜入して、情報を集めて帰ってくるんですよね? どう考えても三日じゃ足りないでしょう!」
「転移には厳しい重量制限がある。あまり荷物を増やすわけにはいかんのだ。食料は現地で調達してくれ」
「現地調達って、そんな簡単に言わないでくださいよ! 俺、野宿の経験だってほとんどないんですよ!?」
「そこは何とかしてくれ」
「雑っ! 人類の命運が懸かってるわりに、俺の扱いが雑すぎません!?」
能力なし、武器なし、護衛なし、仲間なし。おまけに食料は三日分だけ。改めて条件を並べてみると、潜入任務というより遭難しに行くようなものだった。
悠真は深々とため息をつき、空を仰いだ。
「……本当にこれ、人類の命運を懸けた極秘任務なんですよね? 遭難者を自分たちで作り出して、生存率を調べる実験じゃないですよね?」
「何を言っている。れっきとした極秘任務だ」
「その自信、どこから来るんですか……」
ロイドは真顔のまま、悠真の肩を軽く叩いた。
「安心したまえ。君なら何とかなる」
「いや、何を根拠にそんなことを……」
「今までだって、何とかなってきただろう?」
悠真は言葉に詰まった。
確かに、奴隷生活から脱出し、隊長級魔族の毒殺事件にも巻き込まれ、気づけば英雄扱いまでされている。結果だけを並べれば、危険な状況を何度も切り抜けてきたことになるのだろう。
だが、そのすべてに共通するものが一つだけあった。
「全部、運です! 俺の実力じゃなくて、たまたま運がよかっただけなんですよ!」
悠真が必死に訴えると、ロイドは腕を組んで感心したように頷いた。
「自分の力を過信しないのは立派なことだ。だが、運も実力のうちと言うだろう」
「それ、今ここで使う言葉ですか!? そんな理屈が通るなら、賭博場で大勝ちした人間は全員、英雄になっちゃいますよ!」
ところが、周囲にいた兵士たちは悠真の反論を聞いても、なぜか納得したように頷いていた。
「何度も窮地を切り抜けてきたのですから、運だけとも言い切れないのでしょう」
「自分の功績を誇らないとは、さすが英雄殿だ」
「いや、だから英雄じゃないんですって! そもそも俺、そんな大したことしてませんから!」
悠真が声を張り上げるほど、兵士たちの眼差しは尊敬に満ちていく。どうやら、必死に否定すればするほど謙虚な人物だと思われるらしい。ここまでくると、もはや何を言っても無駄な気がしてきた。
(だめだ……誰も俺の話を聞いてない。この国、本当に大丈夫か……?)
そんな悠真の心配をよそに、ロイドはふと表情を引き締めた。先ほどまでのやり取りが嘘のように、歴戦の軍人らしい鋭い眼差しが悠真を捉える。
「悠真。敵地では決して目立つな。怪しまれるような行動も避けろ。そして、何があっても正体を知られるな」
「分かってますよ。というか、それは俺が一番避けたいことですから」
悠真は肩をすくめた。目立たず、怪しまれず、無事に情報を持ち帰る。そうすれば報酬を受け取って、あとは悠々自適な生活が待っている。余計なことさえ起きなければ、こんな任務だって何とかなる……はずだ。
ロイドは一度頷くと、声を少しだけ和らげた。
「それと、必ず生きて帰ってこい」
その言葉には、先ほどまでの英雄扱いも、勝手な期待もなかった。危険な任務へ送り出す部下の身を案じる、上官としての率直な気遣いだった。
だからこそ、悠真も思わず背筋を伸ばした。
「……はい。何とか生きて帰ってきます」
「うむ。君ならやれる」
(いや、だからその根拠は何なんだよ……)
心の中では相変わらず突っ込んでいたが、不思議と嫌な気はしなかった。少なくとも、ロイドが自分の身を案じてくれていることだけは伝わってきたからだ。
ロイドは魔法陣を囲む魔導士たちへと向き直り、静かに手を上げた。
「転移を開始しろ」
ロイドの号令を受け、魔導士たちの詠唱が一気に強まった。巨大な魔法陣がまばゆい光を放ち、地面が低く唸るように震え始める。周囲の空気まで歪んで見えるほどの光景に、悠真は思わず息を呑んだ。
いよいよ、本当に行くのか。
できることなら今すぐ逃げ出したい。能力もなければ、戦闘経験だってほとんどない。そんな自分が魔族領に潜入するなんて、冷静に考えれば無謀にもほどがある。
それでも、悠真の足は光の中心へと向かっていた。頭の中に浮かんでいるのは、危険な任務でも人類の未来でもない。成功報酬として約束された金貨五百枚、そして、それを手にしたあとの輝かしい生活だった。
(毎日ステーキ……。昼まで寝て、好きなものを食べて、もう二度と働かなくていい生活……!)
その夢を叶えるためなら、多少の危険くらい乗り越えてみせる。そんな決意を胸に、悠真は魔法陣の中心で精一杯の笑顔を浮かべた。
「じゃあ、行ってきます!」
まるで近所へ出かけるような軽い挨拶を最後に、悠真の身体は白い光に包まれた。
***
次の瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。
「……ん?」
そう思ったのも束の間、上下左右の感覚がめちゃくちゃになり、胃の中身がひっくり返りそうなほどの浮遊感が襲ってきた。
「うっ……! ちょ、待っ……うおぉぉぉ、気持ち悪い……!」
目を開けても閉じても、視界はぐるぐると回るばかり。身体がどこへ向かっているのかも分からず、悠真は吐き気を堪えながら口元を押さえた。
「うろろろろろ……! これ、ほんとに大丈夫なやつか……!?」
何秒経ったのか、それとも何分経ったのか。時間の感覚さえ曖昧になるほど揺さぶられ、そろそろ限界だと思ったところで、ようやく浮遊感が消えた。全身を包んでいた光も少しずつ薄れ、足の裏に地面の感触が戻ってくる。
悠真はしばらくその場にしゃがみ込み、恐る恐る目を開けた。
目の前に広がっていたのは、枯れ木ばかりが立ち並ぶ薄暗い森だった。空は厚い雲に覆われ、日の光はほとんど届いていない。吹き抜ける風には鉄錆を思わせる不快な匂いが混じり、連合国側で見た豊かな緑とはまるで違う景色が広がっていた。
「うぇ……。転移魔法って、こんなに気持ち悪いのかよ……」
膝に手をついて何度か深呼吸し、どうにか吐き気を落ち着かせる。ようやく立ち上がった悠真は、改めて周囲を見回して顔をしかめた。
「うわぁ……本当に魔族領なんだな」
森の中は異様なほど静かだった。鳥の鳴き声も、虫の音も聞こえない。風に揺れる枝の音さえ不気味に感じられ、立っているだけなのに胸の奥が重くなるような圧迫感があった。
念のため後ろを振り返ってみたが、転移に使われた魔法陣は跡形もなく消えていた。当然、ロイドや魔導士たちの姿もない。助けを呼ぼうにも、周囲には人影一つ見当たらなかった。
「……はい、完全に一人っと」
分かっていたこととはいえ、実際に一人きりになると心細さが込み上げてくる。ついさっきまで城の中で豪華な食事を楽しんでいたのに、今では魔族領の森で遭難しかけているのだから、人生というのは分からないものだ。
とはいえ、いつまでも立ち尽くしているわけにもいかない。悠真は気持ちを切り替えるように息を吐き、懐から地図を取り出した。
「まずは近くの集落を探すか。魔族社会に紛れ込むにしても、住んでる場所も分からないんじゃ話にならないしな」
悠真は地図を広げ、現在地と周辺の地形を確認しようとした。そのとき、静まり返った森に、ぐぅぅぅぅぅ……と場違いなほど大きな腹の音が響き渡った。地図を持ったまま固まった悠真は、ゆっくりと自分の腹に目を落とす。
「……お前、今この状況で鳴る?」
緊張で食欲など吹き飛んでもよさそうなものだが、悠真の胃袋はずいぶんと図太いらしい。危険な敵地にいることより、空腹のほうが切実な問題になっているようだった。
「まあ、腹が減ってるのは事実だしな……」
そう自分に言い聞かせ、渡された布袋から乾パンを一枚取り出す。ひと口かじった瞬間、硬い感触が歯に伝わった。
「かってぇ……! これ、食料っていうか非常時に使う鈍器だろ……」
文句を言いつつも、ぼりぼりと乾パンを噛み砕く。食べ終えた悠真は袋をしまい、地図を片手に森の中を歩き始めた。
ところが、数十メートルも進まないうちに、すぐそばの茂みがガサガサと揺れた。
「ん?」
風にしては音が大きい。野生動物かもしれないが、魔族領にどんな生き物がいるのかも分からない以上、迂闊に近づくわけにはいかなかった。悠真は乾パンを握ったまま足を止め、警戒しながら茂みの奥へ目を向ける。すると、ガサガサと揺れる草むらから、三つの小さな人影が姿を現した。
緑色の肌に小柄な身体、手には粗末な木槍を握り、獣の皮をつなぎ合わせただけの服を身につけている。その姿には見覚えがあった。出発前、あの研究者が見せてきた図鑑の挿絵とそっくりだ。
(ゴブリンだ……。本物のゴブリンがいる……)
悠真の背中を冷たい汗が伝った。潜入を始めてまだ数分。集落どころか、人里にたどり着く前に魔族と遭遇するなんて、いくらなんでも早すぎる。
(いや、落ち着け。俺も今はゴブリンの姿なんだ。見た目だけなら仲間だと思われるはず……!)
そう自分に言い聞かせながら、悠真はなるべく自然な顔を取り繕った。相手を刺激せず、怪しまれず、何事もなかったかのようにやり過ごす。それが潜入任務の第一歩だ。
ところが、三人のゴブリンは悠真を見るなり目を丸くし、互いに顔を見合わせた。やがて、そのうちの一人が興奮した様子で仲間の肩を叩く。
「お、おい! 見ろよ、あれ!」
「うそだろ……! まさか、あいつ……!」
「間違いねぇ! あの姿、あの肌の色……!」
何やら盛り上がり始めた三人を見て、悠真の顔から血の気が引いていく。
(え、何? 何を見てそんなに興奮してるの? 俺、何かやらかした!?)
まさか、変装が不完全だと見抜かれたのか。それとも、角のないゴブリンなんて存在しないのか。出発前に研究者が「個体差の範囲だ」と言い張っていた顔が脳裏をよぎる。
(いやいやいや! あのじいさん、個体差で押し通せるって言ってたじゃん! まさか、あれ嘘だったのか!?)
ゴブリンたちは、なおも何かを確信したように騒いでいる。悠真は逃げるべきか、話しかけるべきか、それとも何も聞こえなかったふりをするべきか、必死に考えた。
しかし、答えを出すより先に、三人の視線が一斉に悠真へと向けられる。
(バレたぁぁぁぁぁ!?)
こうして悠真の人生初の潜入任務は、開始からわずか数分にして、早くも暗雲が立ち込めることとなった。




