第8話 肌が緑色になっただけだった
連合国へ到着してから数日後、悠真は軍本部の会議室へ呼び出されていた。
案内された部屋は、来賓用の応接室とはまるで雰囲気が違った。長机を囲むように軍の幹部たちが座り、壁には魔族領を中心とした巨大な地図が掲げられている。赤い印や線がいくつも書き込まれた地図を見れば、ここで行われるのが重要な軍事会議だということは嫌でも伝わってきた。
その最前列で腕を組んでいたロイドが、静かに口を開く。
「来月、連合国軍は魔王軍に対する大規模な討伐作戦を開始する」
その言葉に、将軍たちの表情が一斉に引き締まった。
「作戦名は――『魔王軍討伐作戦』だ」
(いや、そのまんまじゃねぇか)
周囲が真剣そのものなだけに、悠真は心の中でツッコミを入れずにはいられなかった。
(もう少しこう……『解放作戦』とか『最終決戦』とか、かっこいい名前があるだろ普通)
もちろん、そんな内心を知るはずもないロイドは、地図に置いた指を魔族領へと滑らせた。
「作戦を成功させるには、事前に敵情を把握しておく必要がある。敵戦力の配置、補給路、魔王軍幹部の動向……これらが分からなければ、こちらの被害も大きくなる」
「問題は、敵地への潜入が困難を極めることです」
将軍の一人が険しい顔で口を挟んだ。
「これまでにも諜報員を何人も送り込んでいますが、そのほとんどが消息を絶っています。魔族領の警戒は年々厳しくなっており、今では正面から戦うよりも、潜入して情報を持ち帰る方が難しいとさえ言われています」
その説明を聞いた瞬間、悠真は嫌な予感を覚えた。
わざわざ潜入任務の難しさを説明するということは、つまり――。
(……いや、まさかな)
考えたくない。できれば今すぐ忘れたい。だが、そんな悠真の願いもむなしく、ロイドの視線がまっすぐこちらへ向けられた。
「佐伯悠真」
「はい」
「君には魔族領へ潜入してもらう」
「……は?」
悠真は思わず聞き返した。
「すみません、今、何ておっしゃいました?」
「魔族領への潜入だ」
「ですよね……」
聞き間違いであってほしかった。だが、ロイドは至って真面目な顔をしているし、周囲の幹部たちも異論を唱えるどころか、当然の決定とでも言いたげに頷いている。
(いやいや、え? ちょっと待ってくれ)
(疲れてるのかな、俺。今、『魔族領へ潜入してもらう』って聞こえたんだけど……)
(さすがにそんなわけないよな。俺、ただの一般人だぞ?)
念のため、悠真は自分の胸を指差した。
「……ちなみに、それって俺のことですか?」
「そうだ」
「聞き間違いじゃなかった!!」
悠真は勢いよく立ち上がった。背後の椅子がガタンと音を立て、会議室にいた全員の視線が集まる。
「いやいやいや、待ってください! 俺、能力ゼロですよ!? 魔法も使えないし、剣だってまともに振れません! 足だって特別速いわけじゃないし、そもそも潜入任務なんてやったこともありません!」
必死に訴える悠真だったが、ロイドはまるで予想していたかのように頷いた。
「知っている」
「知ってるなら、何で俺なんですか!?」
「だからこそだ」
「その『だからこそ』が一番分からないんですけど!?」
ロイドは悠真の困惑など意に介さず、落ち着いた口調で説明を続けた。
「能力を持たない人間は、魔族から脅威と見なされにくい。警戒されずに敵の懐へ入り込むには、その方が都合がいい。それに君は、隊長級魔族に接触して信頼を得たうえで、排除に成功した実績がある」
(だから違うんだって!!)
悠真は心の中で絶叫した。
そもそも、魔族に取り入ったのは生き延びるためであり、隊長を暗殺するつもりなんて一切なかった。あの一件だって、いろいろな偶然が重なった結果にすぎない。
それなのに、目の前の人々は自分を、敵の懐に入り込んで隊長級魔族を仕留めた凄腕の暗殺者だと思い込んでいるのだ。
「敵は君を脅威だと認識していない。それこそが、潜入任務における最大の武器になる」
「そんな武器いらないんですが!」
「だからこそ、君が適任なのだ」
「ちゃんと僕の目を見て会話してくださいよ!!」
必死の訴えも、ロイドにはまるで通じていなかった。いや、目はちゃんと合っている。合っているのに、話が一切かみ合わないのだ。
(何なんだよ、この人! 俺の目を見て、俺の話を聞いて、それで何でその結論になるんだよ!)
悠真が頭を抱えていると、会議室の後方から白衣を着た老人が歩み出てきた。軍の幹部たちとは少し雰囲気が違う。どうやら研究部門の責任者らしく、彼は自信ありげに口元を緩めた。
「まあ、そう心配することはない。潜入に役立つ道具なら、こちらで用意してある」
「道具?」
老人は懐から小さなガラス瓶を取り出した。中には、毒々しい緑色の液体が入っている。
「我が国が開発した試作型変身薬だ。これを飲めば、一時的に魔族の姿へ擬態できる」
「変身薬!?」
悠真の顔がぱっと明るくなった。
「つまり、これを飲めば角が生えて、牙も伸びて、筋肉ムキムキの魔族になれるってことですか!?」
「いや、筋肉が増えるとは言っていないが……」
「じゃあ、せめて見た目だけでも完璧な魔族になれるんですよね? ちなみに、これって何味ですか? リンゴ味とか?」
老人は一瞬、真顔になった。
「……君は試薬に味を求めるのかね?」
「そりゃ大事でしょう! 得体の知れない薬を飲むんですよ!? まずいかどうかくらい、事前に知っておきたいじゃないですか!」
「味については保証できん。だが、効果は確認されている。ほら、飲んでみたまえ」
「分かりました! いただきます!」
(いや、今の流れで飲むのかね、君は……)
老人が呆れたような顔をした気もしたが、悠真は気にせずガラス瓶の中身を一気に飲み干した。
次の瞬間、全身を貫くような激痛が走った。
「ぐっ……!?」
喉を通った液体が胃に落ちた途端、体の奥から猛烈な熱が湧き上がる。まるで血液そのものが沸騰しているかのように、熱が全身を駆け巡った。
「熱っ!? 熱い熱い熱い! ちょっと待って、聞いてないんですけどぉぉぉ!!」
皮膚がむず痒くなり、骨まで軋むような感覚に襲われる。悠真は椅子から転げ落ちそうになりながら、会議室中に響き渡る声で叫んだ。
「うおおおおおお!! 何これ!? 体の中で何かが暴れてるぅぅぅ!! これ、本当に変身薬!? 劇薬の間違いじゃないの!?」
幹部たちは固唾をのんで見守り、研究員の老人だけは興味深そうにその様子を観察していた。
やがて数十秒ほど経つと、あれほどの熱が嘘のように引いていった。汗だくになった悠真は、肩で息をしながら近くの椅子にもたれかかる。
「はぁっ……はぁっ……お、終わった……? 俺、生きてるよな……?」
全身汗だくの悠真は、荒い息を繰り返しながら老人を見た。
「そこの姿見で確認したまえ」
老人に促され、悠真はふらつく足取りで部屋の隅へ向かい、おそるおそる鏡を覗き込んだ。顔も髪型も身長も、何ひとつ変わっていない。着ている服に至っては、袖の一本すら変化していなかった。
角は? 牙は? 期待していた筋肉ムキムキの肉体はどこへ行った?
鏡に映っていたのは、どう見てもいつもの佐伯悠真。ただし、肌の色だけは別だった。
「……肌が緑色になっただけじゃねぇか!!」
悠真の絶叫が会議室に響き渡り、近くにいた将軍が思わず耳を押さえた。
「いやいやいや! 全然変わってないじゃん! せめて角とか牙とか生えるだろ、普通! これじゃ魔族っていうより、全身緑色に塗られた人間じゃねぇか!」
鏡の中の自分を指差して抗議する悠真に、老人は気まずそうに咳払いをした。それから机の上に分厚い図鑑を広げ、あるページを指で示す。そこには、緑色の肌をした小柄な魔族の姿が描かれていた。
「これはゴブリン族だ。魔族領でも特に数の多い種族の一つでな。人間に比べて小柄で、緑色の肌をしている。個体によって多少の違いはあるが、魔族の中では珍しくもない姿だ」
「いや、俺の顔は人間そのものなんですけど!?」
悠真は図鑑と鏡を交互に見た。図鑑のゴブリンには、尖った耳や独特な顔つきがある。対して鏡の中にいるのは、肌だけ緑色になった日本人だ。どう贔屓目に見ても、同じ種族には思えなかった。
ところが、老人は悠真の訴えを軽く受け流し、図鑑を閉じながら満足げに頷いた。
「うむ。これなら魔族領に紛れ込めるだろう」
「どこを見てそう思ったんですか!?」
「肌が緑色だ」
「そこしか変わってないんですよ!」
「だが、緑色だぞ?」
「緑色なら何でもいいわけじゃないでしょうが!!」
まるで緑色という一点だけで押し切ろうとしている。悠真は思わず頭を抱えたが、隣にいたロイドまで当然のように頷いた。
「君にはゴブリン族として潜入してもらう」
「……じゃあ、せめて角くらい生やせませんか?」
「無理だ」
「即答!?」
「技術的な問題だ。現状では肌の色を変えるのが限界でな」
「いや、そこ一番大事でしょう! 見た目を魔族に変える薬なんですよね!?」
悠真の抗議にも、ロイドは落ち着き払ったままだった。
「ゴブリン族にも個体差はある。角のない個体がいても不思議ではないだろう」
「本当にいるんですか、そんなやつ?」
「……おそらくな」
「おそらくで敵地に送り出さないでください!!」
会議室に悠真の悲鳴が響いた。
こうして話を聞けば聞くほど、この潜入作戦が行き当たりばったりに思えてくる。変身薬は肌の色を変えるだけ。角がないのは個体差ということにする。これで本当に敵地へ潜り込めるのだろうか。
(いや、無理だろ。絶対バレるだろ。俺だったら一発で怪しいと思うぞ……)
悠真が自分の未来に絶望しかけていると、ロイドが革袋を机の上へ置いた。袋が触れた拍子に、中からジャラッと重たい金属音が響く。
その瞬間、悠真の耳がぴくりと動いた。
「今回の任務で有益な情報を持ち帰ることができれば、特別報酬を支給する」
「……報酬?」
先ほどまでの騒ぎが嘘のように、悠真の視線が革袋へ吸い寄せられた。ロイドはその反応を気にすることなく、淡々と金額を告げる。
「金貨五百枚だ」
「ご……五百枚!?」
思わず声が裏返った。いや、待て。確か、連合国に到着したときにも金貨五百枚をもらえる話になっていたはずだ。
(ってことは、今回の報酬と合わせて金貨千枚!? いやいやいや、いきなり倍になったんですけど!?)
周囲の将軍たちは平然としているが、悠真にとっては人生をひっくり返しかねない大金だった。この数日で聞いた話では、金貨一枚でも庶民が何か月も暮らせるほどの価値があるらしい。それが千枚となれば、もはや想像もつかない。
(千枚……金貨が千枚……!)
頭の中に、金貨の山がそびえ立つ。豪邸に、毎日のステーキ、ふかふかのベッド。好きな時間に起きて、好きなものを食べて、面倒な仕事とは一生おさらば。夢のような生活が、急に現実味を帯びてきた。
(これ、もしかして一生働かなくても暮らしていけるんじゃねぇか!?)
つい数分前まで、魔族領への潜入なんて絶対に無理だと騒いでいた男とは思えない。恐怖も不安も、金貨千枚という魔法の言葉によって、あっという間に吹き飛んでしまった。
悠真はゆっくりと顔を上げた。先ほどまでの情けない表情はどこへやら、勢いよく立ち上がると、会議室にいる全員へ向けてびしっと敬礼した。
「お任せください!! この佐伯悠真、必ずや敵地へ潜入し、有益な情報を持ち帰ってみせます!!」
あまりの変わり身の早さに、将軍たちは一瞬目を見開いたものの、すぐに感心したように頷き合った。
「さすがだな。これほど危険な任務を前にしても、まったく迷いがないとは」
「人類の未来を託すにふさわしい覚悟だ」
もちろん、彼らは何一つ分かっていない。
悠真の頭の中を支配しているのは、世界平和でも人類の未来でもない。金貨千枚で実現する、夢の不労生活だけだった。
(へへへへ……金貨千枚。豪邸を買って、毎日昼まで寝て、うまい飯を好きなだけ食って……もう二度と働かねぇぇぇぇぇ!!)
かつて奴隷としてこき使われた男にとって、労働とは人生から排除すべき最大の敵である。そんな男が今、人生最大の労働ともいえる敵地への潜入任務を、金貨に目がくらんで自ら引き受けてしまったのだから皮肉なものだ。
こうして、連合国の命運を左右する極秘潜入作戦は幕を開ける。
人類存亡のためでも、正義のためでもない。
ただ一人の男が「一生遊んで暮らしたい」という、あまりにも個人的で不純な願望を抱いたことによって。




