第2話 媚び売って出世します
目を開けると、そこは見渡す限り荒れ果てた大地だった。
草木はほとんど生えておらず、ひび割れた地面では痩せ細った人々がぼろ布一枚で鍬を振るっている。誰もが顔色は悪く、その目からは生気というものが完全に失われていた。
――そしてここは、かつて人間が治めていた国「ライザ王国」の跡地だと、後に俺は知ることになる。
「休むんじゃねぇ!!」
乾いた音とともに鞭が振り下ろされ、一人の男が「ぎゃあっ!」と悲鳴を上げる。
「さっさと手を動かせ! 今日中に終わらなきゃ飯は抜きだ!」
怒鳴っていたのは、褐色の肌に二本の黒い角を生やした魔族だった。腰には剣を提げ、周囲では同じような魔族たちが奴隷たちを監視している。その光景を見た俺は、小さくため息をついた。
「どうも皆さん、さっきぶりです。」
もちろん返事はない。
「神様を煽りすぎて、能力なしで異世界へ放り出された悠真です。」
誰に向けるでもなく肩をすくめる。
「なんでこんな状況になってるのかって?」
聞いて驚け。
「あのあと、この魔族の村にある奴隷小屋の屋根へ盛大に落下しましてね。」
着地と同時に屋根は見事に大破。当然、近くにいた魔族十数人に取り囲まれ、能力ゼロの俺は、ものの数秒で縛り上げられた。
「能力ゼロで勝てるわけないだろ!」
……泣きたい。
奴隷仲間から聞いた話によると、ここはライザ王国という場所らしい。かつては人間が治める国だったそうだが、魔族との戦争に敗れ、国民のほとんどは命を落とすか奴隷として連れ去られたという。
「……あのクソジジイ。」
俺は空を見上げて悪態をつく。
「ちょっと文句を言っただけで、こんなハードモードに送り込むか普通。」
……いや、ちょっとじゃなかったかもしれない。
そんな愚痴をこぼした瞬間だった。
「おい!!」
ドスン、と地面を揺らしながら、一人の魔族がこちらへ歩いてくる。
「何ぼさっとしてやがる!」
肩に鞭を担ぎ、鋭い目つきで俺を睨みつける。
「サボってんのかぁ!?」
(やべぇ。)
ここでようやく俺は理解した。
能力も武器もない俺が反抗したところで、一秒も持たずに終わる。
だったら、生き残る方法は一つしかない。
俺は即座に地面へ膝をつき、額が擦り切れそうな勢いで頭を下げた。
「へへぇぇぇぇぇ!!」
魔族はぴたりと足を止める。
「……何してんだ?」
「ノール様!」
「ん?」
「その黒く美しく輝くお角に、思わず見とれてしまいました!」
ノールの眉がぴくりと動く。
「……ほう?」
「この艶、この流れるような曲線、そして隠しきれない圧倒的な存在感! まさに上位魔族だけが持つ高貴なる角です! 一目見ただけで気品があふれ出しておりました!」
勢いに任せてまくし立てると、ノールは思わず自分の角へ手を伸ばした。
「そ、そうか?」
「ええ! 見た瞬間、『この方はただ者ではない』と確信しました!」
「ふむ……。やはり隠そうとしても、この気品までは隠せんか。」
「その通りでございます! ノール様ほど高貴なお方は見たことがありません!」
「がははははは!」
ノールは腹を抱えて豪快に笑った。
「お前、なかなか見る目があるじゃねぇか!」
ノールは豪快に笑い、満足そうに何度も頷いた。どうやら予想以上に気分を良くしてくれたらしい。
(助かった……!)
俺は頭を下げたまま、心の中で盛大にガッツポーズを決める。
(会社で上司にゴマをすり続けた毎日は、決して無駄じゃなかった……!)
こうして俺は、異世界で最初に手に入れた武器が剣でも魔法でもなく、お世辞だと悟った。
ノールはひとしきり笑うと、鞭を肩へ担ぎ直して俺を見下ろした。
「よし! 気に入った!」
そう言うと、ノールは腕を組んでしばらく俺を眺めた。
「お前、今日から畑仕事じゃねぇ。」
「……へ?」
思わず聞き返すと、ノールは親指で自分を指した。
「今日から俺の世話係だ。」
「えっ、本当ですか!?」
「雑用に掃除、飯の準備だ。畑で土を掘り返すより何倍も楽だろ。」
「ありがとうございます!!」
俺は勢いよく頭を下げた。
(助かったぁぁぁぁぁ!!)
能力なし、武器なし、魔法なし。そんな俺が毎日畑仕事なんて続けていたら、数か月後には過労か餓死で終わるのが目に見えている。だが世話係なら生き残れる可能性は格段に高い。
(会社で上司に媚び続けた経験が、まさか異世界で役に立つとは……。)
少しだけ、本当に少しだけ会社へ感謝した。
◇
夕暮れになる頃には、俺はノールの部屋を掃除し、甲冑を磨き、食器を片付ける仕事にも慣れ始めていた。
「おい、悠真。」
「はい!」
ノールは棚から小さな瓶を一本取り出すと、軽く放り投げる。
「今日から世話係だからな。褒美だ。」
慌てて受け止めると、瓶の中では琥珀色の液体がゆらりと揺れていた。
「酒だ。」
「えっ!?」
「大した物じゃねぇが、人間の奴隷じゃ滅多に飲めねぇぞ。」
照れ隠しなのか、ノールは鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「ありがとうございます!」
「がはは! もっと俺の角を褒めろ!」
「もちろんです! 今日も一段と艶が増しております!」
「そうだろう!」
単純だ。
本当に単純だ。
会社にもこれくらい単純な上司がいてくれれば、退職届を書く必要もなかったのに。
◇
夜になり、俺は酒瓶を抱えて奴隷小屋へ戻った。
狭い木造の小屋には、一日の労働で疲れ切った奴隷たちが身を寄せ合って座っている。誰もが暗い顔をしていたが、そんな空気など気にも留めず、俺は酒瓶を高く掲げた。
「いやぁ、今日はノール様から酒まで頂いちゃってさ。」
全員の視線が俺へ集まる。俺はわざと音を立てて栓を抜き、一口飲んだ。
「ぷはぁっ! うんめぇ~!」
もともと酒には強くない。だが、朝は奴隷だった俺が夜には世話係へ出世し、そのうえ酒まで貰えたのだ。この大逆転が嬉しくてたまらなかった。
「俺さ、今日ノール様に『よくやった』って褒められたんだよ。それで、この酒まで特別にもらっちゃってさ。」
もう一口飲み、得意げに肩をすくめる。
「いやー、やっぱ結果出してる人間は扱いが違うよな。」
小屋の中は静まり返っていた。その沈黙が妙に心地よく、酒の勢いもあって俺はさらに気を良くする。
「で、お前らは? 一日中土掘って、明日もまた土掘りか?」
誰も答えない。だが、その反応すら俺には優越感を満たす材料にしかならなかった。
「悪いけどさ、俺もうお前らとは立場が違うんだよ。」
「お前らが畑で泥だらけになってる間に、俺はノール様の側で働いてる。同じ奴隷からスタートしたのに、随分差がついたよな。」
何人かが険しい表情を浮かべたが、酔いの回った俺はそんなことにも気付かない。
「まあ頑張れよ。一生土掘りで終わるのも、それはそれで立派な人生なんじゃないか?」
小屋の空気が一気に冷え込む。それでも俺は上機嫌のまま酒をあおり、奴隷たちへ向けられた視線の意味を深く考えようともしなかった。
このときの俺は、彼らの瞳に宿ったはっきりとした敵意に気付いていなかったのだ。
「……んじゃ、お先。」
そう言い残した俺は、ふらつく足取りで藁の寝床へ向かうと、そのまま倒れ込むように横になった。
「ぐぅ……むにゃむにゃ……。」
数分もしないうちに俺はいびきを響かせ始めた。
小屋の中は静まり返っている。しかし奴隷たちは眠るどころか、酒を飲んで上機嫌に眠りこける俺を冷たい目で見つめていた。
「あいつ……絶対に許さねぇ。魔族に尻尾を振りやがって。」
「同じ人間の恥だ。」
「俺たちだけ苦しめばいいと思ってやがる。」
一人が漏らした怒りはすぐに周囲へ伝染し、小屋の空気はじわじわと熱を帯びていく。
「見ろよあの顔……幸せそうに寝やがって……。」
「ノール様ノール様って、完全に魔族に飼いならされてるじゃねぇか……!」
「ふざけんな……同じ人間だろ……?」
誰かは拳を握り締め、誰かは歯を食いしばる。
「俺たちが鞭で殴られてる間に、あいつは酒か……?」
「しかも『結果を出す人間は違う』だと……? 言ってくれるじゃねぇか……!」
怨嗟にも似た声が小屋の中に広がる中、それまで隅で黙っていた白髪の老人がゆっくりと立ち上がった。
「……ライザ王国が滅びた日を思い出す。」
小屋の隅で黙っていた白髪の老人は、そう呟くと懐から黒紫色の液体が入った小瓶を取り出した。
「あの時も同じだった。王や兵たちは最後まで戦ったが、大臣や貴族どもは己の私腹を肥やすため、魔族へ国を売った。」
老人は眠る俺を静かに指差す。
「こいつを見るたび、あの連中を思い出す。強い者へ媚び、仲間を見捨てる人間をな。」
そう言って掲げられた小瓶を見て、奴隷たちの顔色が変わった。
「これは魔族でさえ一滴で命を落とす毒薬だ。」
小屋の空気が一変する。
「これをノールの食事へ混ぜる。そして、この瓶をこいつの荷物に紛れ込ませておけばいい。誰が見ても犯人はあいつになる。」
老人の目に迷いはなかった。
「魔族どもはこいつを犯人だと思うだろう。そうなれば処刑されるのも時間の問題だ。」
重苦しい沈黙が流れる。しかし、その提案に反対する者はいなかった。
「……それでいこう。」
「ああ。」
「異論はない。俺たちの自由のためだ。」
やがて一人、また一人とうなずき、全員の視線が俺へ集まる。その瞳に宿っていたのは、憎しみと殺意だけだった。
一方その頃、当の本人はそんなことなど知る由もない。
「ぐぅ……へへ……ノール様のお角……世界一……。」
迫る破滅にも気付かず、俺は幸せそうな顔で眠り続けていた。




