第2話 媚び売って出世します
目を開けると、そこは見渡す限り荒れ果てた大地だった。
草木はほとんど生えておらず、ひび割れた地面では痩せ細った人々がぼろ布をまとい、黙々と鍬を振るっている。頬はこけ、顔色は悪く、誰もが生きる気力さえ失っているように見えた。少し離れた場所では、黒い角を生やした魔族たちが剣を腰に提げ、作業の手を休めた者がいないか目を光らせている。
――ここが、かつて人間の治めていたライザ王国の跡地だと、俺が知るのはもう少し後の話だ。
「休むんじゃねぇ!!」
乾いた音が響き、鞭が一人の男の背中を打った。男は「ぎゃあっ!」と悲鳴を上げて地面に倒れかけたが、魔族は気にする様子もなく、さらに怒鳴りつける。
「さっさと手を動かせ! 今日中に終わらなきゃ飯は抜きだ! ぶっ倒れたって知ったことか!」
その光景を眺めながら、俺は小さくため息をついた。
「どうも皆さん、さっきぶりです。神様を煽りすぎた結果、能力なしで異世界に放り出された佐伯悠真です。いやあ、まさか転生初日からこんなブラックな職場に配属されるとは思いませんでしたね」
もちろん、返事はない。周囲の奴隷たちはこちらを気にする余裕すらなく、ひたすら鍬を振るっている。
「……で、なんで俺までこんなところにいるのかって?」
誰に聞かれたわけでもないのに、俺は勝手に説明を始めた。
「あのあと、魔族の村にある奴隷小屋の屋根へ、盛大に落下しましてね。おかげで屋根は見事に大破。近くにいた魔族十数人に取り囲まれ、抵抗する間もなく縛り上げられたわけです」
能力なし、武器なし、魔法なし。そんな状態で十数人の魔族を相手にできるわけがない。転生早々、俺は自分の無力さを嫌というほど思い知らされた。
「いや、普通に考えて無理だろ。剣神だの全属性魔法だの、せっかく選ばせてくれるって話だったのに、最後は全部なしだぞ? あのクソジジイ、絶対に根に持ってやがる……!」
空を見上げて悪態をついていると、隣で作業していた奴隷の男が、周囲を気にしながら小声で教えてくれた。
「……ここはライザ王国の跡地だ。昔は人間が治める国だったらしいが、魔族との戦争に負けてな。生き残った人間の多くは殺されるか、こうして奴隷にされたそうだ」
「なるほど。つまり、俺は転生先を間違えたどころか、世界の中でも相当ハードな場所を引き当てたわけか……」
どうやら神様は、俺に第二の人生を与えるついでに、難易度設定まで最高にしてくれたらしい。しかも、チュートリアルも初期装備もなし。これでどうやって生き残れというのだろう。
「……本当に、あのクソジジイ」
もう一度空を睨みつけた、その時だった。
「おい!!」
地面を踏み鳴らしながら、一人の魔族がこちらへ歩いてきた。褐色の肌に二本の黒い角。肩には鞭を担ぎ、鋭い目つきで俺を睨みつけている。
「さっきから何ぼさっとしてやがる! 手を動かせ! サボってんのかぁ!?」
(やべぇ。聞かれてたか?)
俺は慌てて周囲を見回した。だが、どうやら問題は独り言ではなく、俺の手が止まっていることらしい。目の前の魔族は、今にも鞭を振り下ろしそうな勢いでこちらを睨んでいた。
能力も武器もない俺が、ここで反抗したところで勝ち目はない。かといって、黙って殴られるのも御免だ。ならば、どうするか。
答えは一つ。戦わずして相手を丸め込む。
俺は即座に地面へ膝をつき、額が擦り切れそうな勢いで頭を下げた。
「へへぇぇぇぇ!!」
魔族の動きが止まった。
「……お前、何してんだ?」
「ノール様! 先ほどから、そのお姿に感服しておりました!」
「はぁ?」
怪訝そうな声が返ってきたが、ここで怯んではいけない。俺は顔を上げ、できる限りの笑顔を浮かべた。
「その黒く美しく輝くお角! なんと見事な形でしょう! この艶、この流れるような曲線、そして隠しきれない圧倒的な存在感! 一目見ただけで、ノール様がただのお方ではないと分かりました!」
ノールは眉をひそめたまま、俺の顔をじっと見つめていた。まずい、やりすぎたか? いや、まだだ。ここで引いたら終わりだ。
「しかも、その角からは高貴な風格すら感じられます! きっと並の魔族には到底たどり着けない境地なのでしょう。いやあ、こんな素晴らしい角を間近で拝見できるとは、奴隷になったのも悪いことばかりではありませんな!」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。角を褒めるだけで、どうしてここまで話を膨らませなければならないのか。だが、俺の命がかかっているのだから仕方がない。
すると、ノールはおもむろに自分の角へ手を伸ばし、表面を撫で始めた。
「そ、そうか? やっぱり分かる奴には分かるもんなんだな。こいつは昔から自慢でよ……」
(食いついたぁぁぁぁ!!)
「もちろんです! ノール様ほど立派なお角をお持ちの方は、これまで見たことがありません!」
「がははははは! そうだろう、そうだろう! いやあ、お前、なかなか見る目があるじゃねぇか!」
ノールはすっかり機嫌を良くし、鞭を肩に担いだまま豪快に笑い始めた。どうやら俺の命は、角へのお世辞でつながったらしい。
(助かった……! 会社で上司にゴマをすり続けた毎日は、決して無駄じゃなかった!)
社会人として身につけた処世術が、まさか異世界で命綱になるとは思わなかった。もっとも、こんな形で役に立つくらいなら、前世でもっと別の能力を身につけておきたかったが。
ノールはひとしきり笑うと、満足そうに俺の肩を叩いた。
「よし、気に入った! お前、今日から畑仕事はしなくていいぞ!」
「……えっ?」
予想外の言葉に、俺は思わず顔を上げた。まさか、褒めただけで自由の身にしてくれるのか? いや、さすがにそこまで甘くはないだろう。そんな期待を抱いた俺に、ノールは自信満々に言い放った。
「今日から俺の世話係だ! 掃除に洗濯、飯の準備に身の回りの雑用。畑で土を掘り返すより何倍も楽だろう?」
「ありがとうございます!!」
俺は勢いよく頭を下げた。
(助かったぁぁぁぁぁ!!)
奴隷であることに変わりはないが、少なくとも炎天下で一日中鍬を振るう生活からは抜け出せる。世話係なら食事にもありつきやすいだろうし、体力のない俺でも生き延びられる可能性は格段に上がる。
能力なし、武器なし、魔法なし。そんな俺が異世界で最初に手に入れた武器は、剣でも魔法でもなく、お世辞だった。
(……いや、待てよ。これ、喜んでいいのか?)
冷静に考えれば、ただの奴隷から魔族の世話係に昇格しただけだ。自由になったわけでもなければ、安全が保障されたわけでもない。それでも、今の俺には十分すぎる進歩だった。
(よし。まずは生き残ろう。話はそれからだ)
こうして俺は、会社で培ったゴマすり技術を武器に、異世界での第一歩を踏み出したのだった。
♢
夕暮れになる頃には、俺もノールの部屋の掃除や甲冑磨き、食器の片付けといった仕事にだいぶ慣れてきていた。畑で一日中鍬を振るわされていた朝のことを思えば、ずいぶんな出世である。もっとも、相手は魔族で、俺の身分は相変わらず奴隷なのだが、それでも待遇が改善したのは間違いない。
「おい、悠真。今日から世話係になった祝いだ。ありがたく受け取れ」
ノールは棚から小さな瓶を取り出すと、こちらへ軽く放り投げた。慌てて両手で受け止めると、中では琥珀色の液体が揺れている。
「これ、お酒ですか?」
「おう。大したもんじゃねぇが、人間の奴隷がそう簡単に飲めるもんじゃねぇぞ。せっかく俺の世話係になったんだ。これくらいの褒美はくれてやる」
そう言うと、ノールは照れ隠しのように鼻を鳴らしてそっぽを向いた。どうやら、口は悪くても根は悪い奴ではないらしい。いや、奴隷を鞭で叩いていた姿を思い出すと、素直にそう言い切るのもどうかと思うが、少なくとも今の俺にとってはありがたい話だった。
「ありがとうございます、ノール様! 一生ついていきます!」
「がははは! そうかそうか! なら、これからも俺の角をたっぷり褒めろよ!」
「もちろんです! 今日も一段と艶が増しております!」
「そうだろう! やっぱり分かる奴には分かるんだな!」
ノールは満足げに笑い、俺の肩をバンバンと叩いた。
(……単純だな、本当に)
思わず心の中で呟いた。会社にもこれくらい単純な上司がいてくれれば、俺だってもう少し気楽に働けたかもしれない。いや、待て。そもそも上司の機嫌を取らなくても定時で帰れる会社なら、俺はこんなところで魔族の角を褒めていないはずだ。
そう考えると、前世も今世も、結局やっていることは大して変わらない気がしてきた。
◇
夜になり、俺は酒瓶を抱えて奴隷小屋へ戻った。狭い木造の小屋には、一日の労働で疲れ切った奴隷たちが身を寄せ合い、藁の上で体を休めている。誰もがやつれた顔をしており、話し声もほとんど聞こえない。朝から晩まで働かされ、食事もろくに与えられないのだから、無理もないだろう。
そんな中、酒を手にした俺は、すっかり浮かれていた。
「いやぁ、聞いてくれよ。今日、ノール様から酒をもらっちゃってさ」
わざと瓶を掲げて見せると、何人かがこちらを振り向いた。俺はその反応に気を良くし、栓を抜いて一口飲む。
「ぷはぁっ! うんめぇ~!」
実際には、酒の味なんて大して分からない。だが、朝は畑で土を掘っていた俺が、夕方には魔族の世話係に昇格し、そのうえ酒まで与えられたのだ。自分だけが一歩抜け出せたような気分になり、どうにも顔が緩んでしまう。
「いやあ、やっぱり頑張りは認められるもんだな。ノール様も、ちゃんと働く奴には報いてくれるってことだ。俺も今日は頑張ったからなぁ」
もう一口飲んでから、俺は周囲を見回した。
「お前らも、もうちょっと要領よくやればいいのに。毎日あんなに必死に畑を耕してるんだから、少しくらい評価されてもよさそうなもんだけどな」
誰も返事をしなかった。疲れているのだろうと思った俺は、気にせず話を続けた。
「まあ、俺も最初は同じ立場だったし、気持ちは分かるよ。でも、いつまでも同じ仕事をしてたら何も変わらないだろ? 俺なんか、ちょっとノール様に気に入られただけでこの待遇だ。結局、どこに行っても結果を出した奴が得をするんだよな」
口にしてから、我ながらずいぶん偉そうなことを言っている気がした。だが、酒が入っているせいか、そんな反省もすぐに消えてしまう。
「ま、明日も頑張れよ。俺はもう畑仕事には戻らないだろうけどさ。お前らもいつか出世できるといいな」
最後に余計な一言を付け加え、俺は満足げに酒をあおった。
小屋の中は、相変わらず静まり返っていた。ただ、その沈黙は先ほどまでとは少し違っていた。何人かの奴隷が険しい目つきで俺を見つめ、拳を握りしめている。それでも、酔いが回り始めた俺は、彼らの視線に込められた意味をまるで理解していなかった。
「……じゃ、俺は先に寝るわ。明日もノール様のお世話があるからな」
そう言い残し、俺はふらつく足取りで藁の寝床へ向かった。横になると、酒のせいか急に眠気が押し寄せてくる。
「ふわぁ……。いやぁ、出世っていいもんだな……」
そんな寝言を漏らした数分後には、俺は盛大ないびきをかき始めていた。
小屋の中では、誰も眠ろうとしなかった。奴隷たちは、幸せそうに寝息を立てる俺を冷ややかな目で見つめていたが、やがて一人の男が押し殺した声で口を開いた。
「あいつ……見てられねぇよ。俺たちと同じ人間のくせに、魔族に尻尾を振って、自分だけ助かろうって魂胆か」
「しかも、結果を出した奴が得をする、だとよ。俺たちが好きでこんな仕事をしてるとでも思ってるのか?」
別の男が、怒りを堪えるように歯を食いしばった。
「俺たちは朝から晩まで働かされて、少しでも手を止めれば鞭で打たれる。飯だって満足に食えねぇ。それなのに、あいつは魔族に気に入られただけで酒をもらって、俺たちを見下して笑ってやがる……!」
その言葉に、周囲の奴隷たちも次々とうなずいた。彼らにとって俺は、同じ境遇から抜け出した仲間ではなかった。魔族に媚びを売り、自分たちを踏み台にしてのし上がった裏切り者に見えていたのだ。
「……同じ人間の恥さらしだ」
誰かが吐き捨てるように呟いた。その一言をきっかけに、抑え込まれていた怒りが小屋の中へ広がっていく。
「俺たちが鞭で打たれてる間に、あいつは酒を飲んでぐっすりか。ふざけやがって……」
「このままじゃ、いつまでたっても俺たちは奴隷のままだ。あいつだけいい思いをするなんて、許せるかよ」
そのとき、それまで小屋の隅で黙っていた白髪の老人が、ゆっくりと立ち上がった。深い皺の刻まれた顔には、ほかの者たちとは違う、長い年月をかけて積み重なった憎しみが浮かんでいた。
「……ライザ王国が滅びた日を思い出すな」
老人の声に、奴隷たちは口を閉ざした。
「あの日もそうだった。王も兵士たちも最後まで戦ったが、国を守るべき大臣や貴族どもは、自分の身がかわいいばかりに魔族へ寝返った。民を見捨て、己の私腹を肥やすために国を売ったんだ」
老人は眠っている俺へ目を向けた。
「強い者に媚びて自分だけ助かろうとする。仲間が苦しんでいようと、自分さえよければ構わない。……あの男を見ていると、あの日の裏切り者どもを思い出す」
そう言って懐から取り出したのは、黒紫色の液体が入った小瓶だった。かすかな光を受けた液体は、底知れぬ不気味さを漂わせている。
それを見た奴隷の一人が、息を呑んだ。
「まさか、それ……」
「魔族でさえ、一滴口にすれば命を落とすという毒薬だ」
老人は小瓶を握りしめ、声を潜めて続けた。
「これをノールの食事に混ぜる。そして、空になった瓶をあいつの荷物にでも紛れ込ませておけばいい。ノールが死ねば、魔族どもは犯人を探すだろう。だが、毒の瓶がこいつの持ち物から見つかれば、疑いは真っ先にあいつへ向く」
奴隷たちは互いの顔を見合わせた。魔族を殺すという計画は、失敗すれば自分たちの命にも関わる。だが、今の生活がいつまで続くのかも分からない。何もしなければ、明日も明後日も、鞭で打たれながら畑を耕すだけだ。
老人は彼らの迷いを見透かしたように、静かに言った。
「俺たちが自由になるためには、誰かが動かなければならん。魔族に媚びる裏切り者を野放しにしておく必要もないだろう?」
しばらくの沈黙のあと、一人の男がゆっくりとうなずいた。
「……分かった。やろう」
その声に続き、ほかの奴隷たちも決意を固めていく。やがて全員の視線が、何も知らずに眠る俺へと集まった。その目に浮かんでいたのは、もはや単なる嫉妬や怒りではない。自分たちの未来を賭けてでも、俺を排除しようという冷たい決意だった。
一方、その当の本人はというと――。
「ぐぅ……へへ……ノール様のお角……世界一……」
迫り来る破滅など知る由もなく、酒の瓶を抱きしめたまま、幸せそうに眠り続けていた。




