第1話 神様にクレームを入れたら異世界送りにされた
俺の名前は佐伯悠真。二十六歳。趣味は寝ること。特技は定時という概念を忘れることだ。つまり、どこにでもいる平社員である。
その日も終電間際まで会社に拘束され、ようやく解放された頃には時計の針は二十三時五十分を指していた。
「はぁ……」
重たい体を引きずりながら夜道を歩く。明日も朝七時には出社だ。いったい何のために働いているのか、自分でも分からなくなってくる。
そんなことを考えながら横断歩道を渡った、その時だった。
視界いっぱいに眩しいヘッドライトが飛び込み、耳をつんざくようなクラクションが周囲の空気を切り裂くように響き渡る。
「――危なっ!」
誰かの叫び声とほぼ同時に、金属が軋むようなブレーキ音が道路全体にこだました。
キキィィィィィィッ!!
だが間に合わない。
大型トラックの影が視界を覆い尽くし、そのまま猛烈な勢いで迫ってくる。
「いや、ちょっ――!」
避ける暇もなく――
ドォンッ!!
鈍く重い衝突音が世界を揺らし、視界が一気にぐちゃりと歪む。
アスファルトが跳ね上がり、空と地面の境界が消え、体が宙に浮いたような感覚のまま回転する。
遠ざかる車のエンジン音と、誰かの悲鳴が混ざり合いながら遠のいていく。
(まだ二十六なのに……。)
(俺の人生、こんな終わり方かよ。)
そして――
世界がぐるりと反転し、次の瞬間、俺の意識は闇へと沈んでいった。
どれくらい眠っていただろうか。
ゆっくりと目を開けると、そこは雲のような白い床がどこまでも続く、不思議な空間だった。青空も天井もなく、境界線すら分からない真っ白な世界に、俺は一人立っている。
「ここ……どこだ?」
「目覚めたようじゃの。」
声のした方を振り向く。
そこには胸元まで伸びた真っ白な髭をたくわえ、純白のローブをまとった老人が立っていた。金色の杖を手にし、頭上には輪が浮かんでいる。神様と言われれば、誰もが納得するような見た目だった。
老人は申し訳なさそうに頭を下げる。
「まずは謝らせてほしい。手違いで、おぬしを死なせてしまった。」
「…………は?」
思考が止まる。
「本来なら、おぬしはまだ寿命ではなかった。しかしこちらの管理ミスで命を落としてしまったのじゃ。」
「……管理ミス?」
「うむ。」
老人は苦笑いを浮かべた。
「そこで、お詫びとして、わしが管理する異世界へ転生させることにした。さらに特典として、特別な能力を授けよう。」
そう言って指を鳴らすと、目の前にいくつもの光る文字が浮かび上がった。
【剣神】【全属性魔法】【鑑定】【無限収納】【経験値十倍】――。
「その中から好きなものを三つ選ぶがよい。」
普通なら飛び上がって喜ぶ場面なのだろう。
だが、その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがぷつりと切れた。
「……ふざけんな。」
「む?」
「何が『好きなのを選べ』だよ。」
老人の笑みが、ほんのわずかに固まる。
「俺は今日も残業だったんだぞ? 毎日毎日こき使われて、やっと帰れると思ったら、今度は管理ミスで死んだ?」
胸の奥に溜め込んでいたものが、一気に噴き出す。
「お前ら神様ってのは、そんな適当な仕事してんのか? 人間一人殺しといて『ごめんごめん』で済ませるつもりかよ!」
老人は何も言わない。
その沈黙が、逆に俺の口を止まらなくさせた。
「そもそも神ってもっと完璧な存在じゃねぇの? 管理ミスなんて、会社の新人でもやらねぇぞ!」
「はっ、笑わせんな。神も結局ポンコツ――いや、ポンコツに失礼か!」
「神なんて肩書きだけのジジイじゃねぇか!」
言い終えた瞬間、辺りはしんと静まり返った。
老人は俯いたまま、一言も返さない。
(……やべ。)
肩が小刻みに震えているのを見て、目の前の老人は怒っているのだと直感したが、その予想とは裏腹に、ゆっくりと顔を上げた老人は満面の笑みを浮かべていた。
だが、目だけはまったく笑っていない。額には青筋が浮かび、歯ぎしりをする音が静かな空間にやけに大きく響いた。
「……言いたいことは、それだけかの?」
「えっと……。」
「まだあるなら聞くぞ?」
「い、いや……もう十分です。」
「ほう?」
老人は一歩、また一歩と近づいてくる。
優しそうだった神様の面影はもうない。その場に立っているだけで空気が重くなるほどの威圧感に、俺は思わず後ずさった。
「よぉぉぉぉし。」
老人はにっこりと笑った。
「能力なし。」
「え?」
「装備なし、加護なし、説明書なし。」
「ちょっ、待っ――いやいやいや!」
老人は杖を振り上げ、満面の笑みで叫んだ。
「そのまま異世界へ放り込んでやるわい!」
「わしをポンコツ呼ばわりした罰じゃ!」
老人は額に青筋を浮かべたまま杖を振り上げる。その瞬間、俺の足元に巨大な魔法陣が広がり、まばゆい光があふれ出した。
「ま、待ってください! せめて加護だけでもください!」
「断る!」
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
「もう遅いわ!!」
老人は怒りと笑みを同時に浮かべ、高らかに宣言した。
「神を煽ったこと、異世界でたっぷり後悔してくるがよい!」
「そんなぁぁぁぁぁ!!」
魔法陣が強烈な光を放ち、俺の体は宙へと浮かび上がる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
伸ばした手は虚しく空を切り、視界は白い光に飲み込まれていく。
「せめて鑑定だけでもぉぉぉぉぉ!!」
その叫びもむなしく、俺の意識は光の中へと消えていった。
こうして俺は、神を煽りすぎた結果、能力も加護もないまま異世界へ放り込まれることになった。




