第1話 神様にクレームを入れたら異世界送りにされた
俺の名前は佐伯悠真。二十六歳。趣味は寝ること。特技は定時という概念を忘れることだ。つまり、どこにでもいる平社員である。
その日も終電間際まで会社に拘束され、ようやく解放された頃には時計の針は二十三時五十分を指していた。明日も朝七時には出社しなければならない。趣味が寝ることなのに、肝心の睡眠時間は削られる一方だ。いったい何のために働いているのか、最近は自分でもよく分からなくなっていた。
重たい体を引きずるようにして夜道を歩き、ぼんやりと明日の予定を思い浮かべながら横断歩道に差しかかった、その時だった。
視界いっぱいに眩しいヘッドライトが飛び込んできた。反射的に顔を上げると、耳をつんざくようなクラクションが鳴り響き、巨大なトラックが目の前に迫っていた。
「――うそだろ!?」
慌てて足を止めた瞬間、タイヤが路面を擦る甲高い音が夜の街に響き渡った。運転手が必死にブレーキを踏んでいるのだろう。だが、そんなことは一目見ただけで分かった。
間に合わない。
そう理解した時には、もう目の前がトラックの車体で埋め尽くされていた。
「ちょ、待っ――!」
言い終わるよりも早く、凄まじい衝撃が全身を襲った。
ドォンッ!!
体が宙に放り出され、視界がぐちゃりと歪む。アスファルトも、街灯も、夜空も、何もかもがめちゃくちゃに回転し、自分が上を向いているのか下を向いているのかさえ分からなくなった。
遠ざかっていくエンジン音に、誰かの悲鳴が重なる。何か言おうとした気がするが、口が動いているのかどうかも分からなかった。
(……マジかよ)
頭の中に浮かんだのは、そんな間の抜けた言葉だった。
明日も仕事がある。帰ったら風呂に入って、少しでも寝なければならない。そんなことを考えていた数分前の自分が、ひどく遠い存在に思えた。
(俺、まだ二十六なんだけど……。こんな終わり方、あんまりだろ)
せめて最後くらい、仕事のことなんか忘れて笑って終わりたかった。いや、そもそも定時に帰れていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか?
(……くそ。もっと寝ておけばよかった)
最後に浮かんだのがそんな後悔だったことに、我ながら呆れてしまう。だが、考えを巡らせる余裕も長くは続かなかった。意識が遠のき、周囲の音も、体の感覚も、少しずつ消えていく。
そして、何も分からなくなった。
どれくらい眠っていただろうか。
ふと目を開けると、雲のように白い床がどこまでも広がっていた。見渡す限り真っ白で、空も天井も見当たらない。どこまでが床で、どこからが空なのかさえ分からない奇妙な場所に、俺は一人で立っていた。
「……え、何ここ?」
「目覚めたようじゃの」
不意に背後から声をかけられ、俺は慌てて振り返った。
そこには、胸元まで伸びた真っ白な髭をたくわえ、純白のローブをまとった老人が立っていた。金色の杖を手にし、頭上には後光のような輪が浮かんでいる。絵に描いたような神様の姿だった。ここがどこなのかはさっぱり分からないが、少なくとも目の前の老人が普通の人間ではないことだけは理解できた。
老人は俺の顔を見ると、申し訳なさそうに眉を下げ、深々と頭を下げた。
「まずは謝らせてほしい。実はのう……わしの手違いで、おぬしを死なせてしまったのじゃ」
「…………は?」
思わず間の抜けた声が漏れた。今、何と言った?
「いや、待ってください。手違いって、何の話ですか?」
「本来なら、おぬしはまだ寿命を迎えるはずではなかった。しかし、こちらの管理に不手際があってのう。結果として、おぬしは命を落としてしまったのじゃ」
老人は困ったように頭をかいた。
「本当に申し訳ないと思っておる。まさか、あのタイミングで事故が起きるとは……」
「いやいやいや、ちょっと待ってくれ!」
俺は思わず声を張り上げた。寿命じゃなかった? 管理の不手際? つまり、あのトラックに轢かれたのは、こいつらのミスだということか。
「俺、まだ二十六歳なんですけど!? 仕事帰りにトラックに轢かれて死んだんですよ!? それが管理ミスって、そんな説明で納得できるわけないでしょう!」
「うむ……その通りじゃ。返す言葉もない」
老人は素直にうなずいた。あまりにもあっさり認められたせいで、かえって言葉に詰まる。いや、そこで素直に謝られても困るんだが。
「そこでじゃ。せめてもの償いとして、おぬしをわしの管理する異世界へ転生させようと思っておる。もちろん、特別な能力も授けるつもりじゃ」
「……転生?」
「そうじゃ。おぬしの元いた世界とは異なる世界で、第二の人生を送ってもらう。こちらの不手際で失った命じゃからな、普通の転生者にはない特典を用意させてもらった」
老人はそう言うと、杖を軽く振った。すると、俺の目の前にいくつもの光る文字が浮かび上がる。
【剣神】【全属性魔法】【鑑定】【無限収納】【経験値十倍】――。
ほかにも、いかにも強そうな能力の名前がずらりと並んでいた。
「この中から好きなものを三つ選ぶがよい。どれも異世界では大いに役立つはずじゃぞ」
老人は、これで一件落着とでも言いたげに、満足そうに髭を撫でていた。
目の前に並ぶのは、剣神に全属性魔法、無限収納に経験値十倍。ゲームや小説なら、誰もが喉から手が出るほど欲しがりそうな能力ばかりだ。正直、少しだけ心が揺れた。こんな能力があれば、異世界でも苦労せずに生きていけるかもしれない。
……いや、待て。
そもそも俺は、こんなものを欲しがる以前に、まだ死ぬ予定じゃなかったんだろ?
「……ふざけんな」
「ん?」
老人が不思議そうに首を傾げた。
「いや、だから、ふざけんなって言ってんだよ。俺は今日も残業だったんだぞ? 毎日毎日、上司に仕事を押しつけられて、終電ギリギリまで働かされてさ。ようやく帰れると思ったらトラックに轢かれて、実は神様の管理ミスでした? そのお詫びが、はい、好きな能力を三つ選んでくださいって……」
話しているうちに、腹の底から怒りが込み上げてきた。そもそも俺は、異世界で無双したいなんて一度も思ったことがない。定時に帰って、飯を食って、好きなだけ寝る。そんなささやかな生活を望んでいただけだ。
「俺が欲しかったのはチート能力じゃなくて、普通の生活なんだよ! それを勝手に殺しておいて、能力を三つやるから許せって? お前ら神様ってのは、そんな適当な仕事してんのか!」
「いや、しかしじゃな……」
「しかしも何もあるか! 人間一人の命を管理してるんだろ? それを間違えました、すみませんで済ませるつもりかよ! 会社の新人だって、もうちょっとまともに仕事するぞ!」
老人の笑顔がぴたりと固まったが、頭に血が上っていた俺は、そんなことにも気づかずに言葉を続けた。
「そもそも神って、全知全能の完璧な存在なんじゃないのか? それが蓋を開けてみれば、管理ミスで人を殺す始末。お前、本当に神様なのかよ! いや、ポンコツって言うのも失礼か。ポンコツだって、もう少し自分の仕事に責任を持つだろ!」
言いたいことを一通りぶちまけて、ようやく息をついた。
「……はぁ。少しはすっきりした」
その時になって、俺は目の前の老人が一言も言い返してこないことに気づいた。
(……あれ?)
恐る恐る顔を上げると、老人は俯いたまま肩を小刻みに震わせていた。怒りに震えているのか、それとも泣いているのか。どちらにしても、あまり見ていたくない光景だ。
やがて老人はゆっくりと顔を上げた。口元には満面の笑みが浮かんでいる。だが、目はまったく笑っていなかった。額には青筋がくっきりと浮かび、握りしめた杖がミシミシと音を立てている。
「……なるほどのう。おぬし、ずいぶんと口が達者なようじゃな」
「あ、いや、その……」
「わしの説明に納得できぬというのも分かる。こちらに非があるのも事実じゃ。じゃがのう……」
老人は笑顔のまま、一歩こちらへ近づいた。
「神をポンコツ呼ばわりする必要まであったかの?」
「い、いや、あれは勢いというか、つい本音が……」
「ほほう。本音とな?」
もう一歩、距離が縮まる。
さっきまでの穏やかな雰囲気は、どこにも残っていなかった。老人が一歩進むたびに、見えない圧力が体にのしかかってくる。俺は自分の発言を猛烈に後悔しながら、じりじりと後ずさった。
「ま、まあ、言いすぎたのは認めます。俺も死んだばかりで、ちょっと気が立っていたというか……」
「ほう。まだ何か言いたいことがあるのか?」
「いえ! もう十分です! 反省してます!」
「そうかそうか。ならば、こちらもおぬしの希望を尊重せねばならんのう」
「……希望?」
聞き返した俺に、老人はにこやかにうなずいた。だが、その笑顔を見た瞬間、背筋に嫌なものが走る。先ほどまでの怒りを押し殺したような笑顔とは違う。何か、とんでもなくろくでもないことを思いついた顔だ。
老人は金色の杖を握り直すと、晴れやかな声で言い放った。
「よし、決めた! おぬしには特別に、何の能力も与えずに転生させてやろう!」
「……は?」
「装備なし、加護なし、転生先の説明もなし! もちろん、初心者向けの案内など一切つけてやらんわい!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 話が違うでしょう!? お詫びとして能力をくれるって――」
「お詫びは取り消しじゃ!」
「そんな横暴な! 神様なんだから、もっとこう、寛大な心とかないんですか!?」
「さっきまでわしをポンコツ呼ばわりしておった奴が、今さら何を言うか!」
老人は高笑いしながら杖を振り上げた。その瞬間、俺の足元に巨大な魔法陣が広がり、白い空間がまばゆい光に包まれる。
「ま、待ってください! せめて加護だけでも! いや、鑑定だけでもいいです! 鑑定があれば、異世界でも何とか――」
「断る! 自力で何とかせい!」
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい! ポンコツなんて言ってすみませんでした!」
「もう遅いわ! 神を煽った報い、身をもって味わってくるがよい!」
「そんなぁぁぁぁぁ!!」
足元が消えた。体が宙に浮き、何かに引っ張られるようにして魔法陣の中へ吸い込まれていく。慌てて手を伸ばしても、つかめるものは何もなかった。
「せめて鑑定だけでもぉぉぉぉぉ!!」
最後まで必死に食い下がったものの、俺の願いが聞き入れられることはなかった。視界を埋め尽くす光の向こうで、老人が満足そうに笑っているのが見えた気がする。くそっ、あのジジイ、絶対に根に持ってやがる!
こうして俺は、神様の管理ミスで命を落とした挙げ句、余計な一言のせいでチート能力まで取り上げられ、何の備えもないまま異世界へ放り込まれることになった。




