第13話 俺の初キスを返してほしい
翌朝。
昨夜の宴の熱気がまだ村のあちこちに残る中、悠真は眠そうな目をこすりながら家の外へ出た。
広場には空になった酒樽や食べ散らかされた骨が転がり、あちこちで酔い潰れたゴブリンたちが気持ちよさそうに寝息を立てている。
(昨日は地獄だった……。)
悠真は遠い目をした。
初対面のゴブリンたちに歓迎され、知らない恋人がいることが発覚し、その流れで村中の前でボストロールとキスまでさせられた挙句、今日には結婚式を挙げることまで決定していた。
潜入任務のはずなのに、なぜか人生設計まで勝手に進められている。
(キスだけでも十分事件なのに、結婚とか何なんだよ……。絶対逃げてやる)
悠真が固く決意した、その時だった。
村の入口の方から朝の静けさを吹き飛ばすような大声が響く。
「おーーーい!! やっと帰ってきたぞーーー!!」
その声に村人たちが次々と顔を上げ、悠真も反射的に振り返った。
そこに立っていたのは、大きな荷物を背負った一匹のゴブリンだった。日に焼けた緑色の肌に使い込まれた革装備を身に着け、腰には短剣まで下げている。どうやら長旅から帰ってきたばかりらしい。
最初こそ村人たちは歓声を上げようとした。
しかし次の瞬間、その表情が次々と凍り付く。
「あれ?」
入口に立つゴブリンを見た村人たちは、悠真と見比べながら次々と困惑の声を漏らした。
「ゴブ郎……?」
「え? どういうことだ?」
空気が止まった。
悠真と入口に現れたゴブリンは互いに視線を向けたまま固まり、しばらく無言で見つめ合う。その間にも周囲のざわめきだけが妙に大きく耳へ届いていた。
(あれ……なんか嫌な予感がするぞ?)
悠真の背中を冷たい汗が流れた。
旅帰りらしいゴブリンは目を細めながらこちらを観察している。同じ緑色の肌に同じくらいの背丈だが、決定的に違う。
相手はこの村で生まれ育ち、全員から顔を知られている本物のゴブ郎だ。
対して自分は変身薬で偶然その姿になっただけの偽物である。
そして――どうやら相手もその事実に気付いたらしい。
旅帰りのゴブリンはゆっくりと腕を上げると、真っ直ぐ悠真を指差した。
「おい。」
旅帰りのゴブリンに声を掛けられた瞬間、悠真の心臓が嫌な音を立てた。
「誰だ、お前。」
その一言で全てを察し、悠真の頬がぴくりと引きつる。
(本物ぉぉぉぉぉ!?!?!?!)
その瞬間、村中が一気にざわつき始める。
「え? じゃあこっちは!? どっちがゴブ郎だ!?」
「どういうことだ!? 分身の魔法か!?」
「いや、そんな魔法聞いたことねぇぞ!」
突然の事態に村人たちは大混乱だった。当然、本物のゴブ郎も状況が飲み込めていないらしく、眉をひそめながら悠真を指差す。
「いや待て待て。俺、昨日まで親戚の村に行ってたんだけど、帰ってきたら俺が二人いるんだけど。」
当然ながら誰も答えられない。
悠真にも説明できるはずがなく、その場には困惑した沈黙が広がった。
そんな重苦しい空気を破ったのはゴブ美だった。彼女は悠真と本物のゴブ郎を何度も見比べた後、さらに顔を近付けてじっくり観察しながら首を傾げる。
「どっちがゴブ郎?」
誰もが思っていた疑問を、ついに口にしてしまった。
村長まで眼鏡を外して目を擦り、二人を見比べながら唸る。
「むぅ……。」
村長は二人をしばらく真剣に見比べた後、諦めたようにため息を吐いた。
「老眼かと思ったが……二人おるな。」
その結論に村人たちは再びざわつき始める。
「どっちが本物だ!?」
「分からん! 入れ替わったのか!? 双子だったのか!?」
混乱は広がるばかりだった。
その様子を見た悠真は、誰にも気付かれないようにそっと一歩だけ後ろへ下がる。
(逃げるなら今だ。)
全員の意識は完全に逸れていた。誰も自分を見ていないし、誰も追いかけてこない。今なら確実に逃げられると確信した悠真は、気配を殺しながらそっと踵を返す。
だが、その希望は次の瞬間に打ち砕かれた。
「待てぇぇぇぇぇ!!」
本物のゴブ郎が村中へ響き渡る大声で叫ぶ。
「そいつ偽物だぁぁぁぁ!!」
その一言で全てが終わった。
村人たちの視線が一斉に悠真へ集まり、当人は乾いた笑みを浮かべるしかない。
(終わった。)
そう思った矢先、さらに最悪なことが起きた。
ゴブ美が目を見開きながら悠真と本物のゴブ郎を何度も見比べ始めたのだ。
「え……?」
昨夜の出来事を思い出すように視線が泳ぐ。
「じゃあ昨日キスしたの……。」
本物のゴブ郎と悠真を何度も見比べたゴブ美は、やがて静かに結論へたどり着いた。
「ゴブ郎じゃない?」
空気が凍った。
ゴブ美の顔色がみるみる変わり、怒りで肩を震わせながら俯く姿に、悠真の背中を冷たい汗が流れる。
(あ、これ駄目なやつだ。)
本能が警鐘を鳴らす。
「私の……。」
ゴブ美が低く唸るような声を漏らした。
「私のキス……。」
ゴブ美が震える声で呟いた瞬間、周囲の空気が変わった。怒気は見る見るうちに膨れ上がり、握り締められた拳に力が込もるたび地面の小石が微かに跳ねる。
(あっ、完全にブチ切れてる。)
悠真がそう悟った次の瞬間――
「返せよオラァァァァァァァァァ!!」
ドゴォン!
地面を爆発させるような勢いでゴブ美が突進する。
「ぎゃああああああ!!」
悠真は悲鳴を上げながら反射的に逃げ出した。
「待てぇぇぇ!! 偽物ぉぉぉぉ!! 捕まえろぉぉぉ!!」
「よくもゴブ美のキスを奪いやがったなぁぁ!!」
「さては最初からゴブ美が目当てだったのか!?」
「このキス泥棒ーーー!!」
気付けば村中のゴブリンたちまで追跡に加わっており、三百匹近いゴブリンが土煙を上げながら迫ってくる光景は、もはや追跡劇というより完全なスタンピードだった。
「なんでだよぉぉぉぉ!!」
悠真は全力疾走しながら悲鳴を上げた。
「俺だって被害者なんだよぉぉぉぉ!!」
必死の訴えも虚しく、村総出で始まった大追跡を止める者は誰もいない。森中へ地鳴りのような足音が響く中、悠真は枝を飛び越えながら半泣きで叫ぶ。
「誰だよぉぉぉぉ!! 変身薬作った奴ぅぅぅぅ!! なんでよりにもよってゴブ郎なんだよぉぉぉぉ!! もっとこう……普通のゴブリンいただろぉぉぉぉ!!」
その背後からはゴブ美の怒号が容赦なく飛んでくる。
「逃がさないゴブーー!!」
「責任取るゴブーー!! 結婚するゴブーー!!」
「しねぇぇぇぇぇ!!」
悠真は全力で叫び返しながら必死に森を駆け抜けた。
命懸けの逃走劇はしばらく続いたが、森の奥へ飛び込んだ瞬間、足元の土が不意に崩れる。
「あっ。」
そう思った時にはもう遅かった。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
身体は勢いのまま斜面を転がり落ち、木の根へ激突し、石へぶつかり、最後は茂みへ突っ込んでようやく止まる。
「いててて……。」
全身を押さえながら立ち上がった悠真は恐る恐る体を動かしてみたが、幸い骨は折れていないらしい。耳を澄ませても、先ほどまで森中へ響いていた追跡の叫び声や足音はもう聞こえなかった。
「はぁ……助かった……。」
悠真は胸を撫で下ろしながら大きく息を吐いた。
空を見上げても青空は見えず、相変わらず魔族領特有の不気味な曇り空が頭上を覆っていたが、それでも今はあの追跡劇から逃げ切れたことの方が重要だった。
「ああもう……ゴブリンなんて二度とごめんだ……。」
昨夜の出来事を思い出した瞬間、悠真の顔が引きつる。
まだ唇には、ゴブ美に強引に奪われたキスの感触が微かに残っている気がした。
「うぇっ……。」
反射的に口元を何度も擦るが、せっかく追手から逃げ切ったというのに、昨夜の出来事を思い出しただけで精神的ダメージが蘇ってきた。
疲れ果てたようにため息を吐いた、その瞬間だった。
「――誰だ?」
低く鋭い声が背後から響いた瞬間、悠真の全身が凍り付いた。嫌な汗が一気に噴き出し、恐る恐る振り返った先には、一人の魔族が立っていた。
漆黒の鎧に身を包み、腰には人間なら両手でも扱えそうにない巨大な大剣を下げている。額からは二本の角が伸び、その胸元にはロイドたちから見せられた資料で見覚えのある紋章が刻まれていた。
悠真の背筋を冷たい汗が伝う。
ただ立っているだけなのに、その存在感は異常だった。まるで目の前にいるのは生物ではなく巨大な猛獣そのものであり、本能が「逃げろ」「関わるな」「近付くな」と全力で警鐘を鳴らしている。
(やばい。絶対強いやつだ。)
そんな悠真を鋭い目で見下ろしながら、魔族の男は低い声で口を開いた。
「見ない顔だな。」
低く落ち着いた声だったが、その一言だけで空気が重くなる。
悠真はごくりと唾を飲み込んだ。
(こいつ、どう見ても幹部クラスだ。)
ゴブリン村から命懸けで逃げ出した先で、まさか本物の大物と遭遇するとは思わなかった。
悠真の潜入任務は、まだ始まったばかりだった。




