第四話 女王に挑む
とある酒場で、マエストロは麦酒をあおった。同席する相手は、黒猫のフラットと、ラポール王国総理大臣のジェリゴーだ。猫がいるのでテラス席を用意してもらい、夜風を感じながら二人は酒を飲んだ。フラットは、マエストロの足元で焼いた小魚をはぐはぐと食べている。
店員を呼び、ジェリゴーが新しい酒を二杯も注文する。
「ずいぶんたくさん飲むね」
マエストロがそう指摘すると、ジェリゴーはにやっと笑ってジョッキをテーブルに置いた。
「マエストロのおごりだからな」
「なんで!」
マエストロは抗議する。
「君のせいで、家の修理費にえらい費用がかかる。大臣だってそんなに金持ちじゃないんだぞ」
「俺のせいだって? 強盗を追い払ってあげたじゃないか、リゴ」
「まあな……」
ジェリゴーはちょっと考えてから、こう提案した。
「じゃあ、私が飲んだ分は君が払い、君が飲んだ分は私が払う。これでどうだ」
「まあ、それなら」
マエストロはにわかにやる気を起こし、店員にぶどう酒やらりんご酒やらを頼んだ。メニューの紙を見ると、六十分の飲み放題コースがあるらしい。懐中時計を取り出したが、やっぱりしまった。楽しい飲みの金を渋るのは性に合わない。
「それにしても、君がラポールに来るのは久しぶりだな」
「最後に飲んだのは、半年近く前だったね」
マエストロはしみじみと言った。
「あの時の飲み比べは、私が勝った」
「でもリゴ、その後道ばたで吐いてたよね。俺はそんなやらかしをしたことはないよ」
ジェリゴーは笑ってごまかした。
「半年の間、どこを回っていた?」
「オルバルド、シグナス、クロスランド、ラピア。それからアカリエに、最後がセレネ」
マエストロはふと、真面目な表情になった。
「いや……最後は、『ミラージュ』だな」
「あるかないか分からないという、幻の国か?」
「うん」
「みやげ話、ぜひ聞かせてくれ」
「ああ、いいよ」
マエストロは、運ばれてきた脂たっぷりの焼き魚をつつきながら(フラットが狙っている)、ほんの半月前の出来事を思い出した。
♭
セレネ共和国でのコンサートが終わり、マエストロはしばし自由の身になった。直近の予定は、一ヶ月後だ。
「参ったな、暇になっちゃった」
そうぼやいていると、アカリエから聴きに来てくれたマエストロのファン、デュナンが笑った。
「たまには、のんびり過ごしてみてはいかがかな、マエストロ。いつもあちこち飛び回っておられるのだから」
「そうですね、のんびりか……」
マエストロは、訪れたことのある国を一つ一つ思い浮かべ、のんびりするのにどこが一番ふさわしいか考えた。アカリエは物価が高く、一ヶ月も遊んでいてはお金がなくなってしまう。クロスランドやラポールやシグナスには友達がたくさんいるが、楽団も多いので、結局練習に参加したくなってしまうだろう。ラピアは遠いし、娯楽に乏しい。オルバルドは入国の申請に時間がかかる。
「……行ったことのない国に行きたいなあ」
「おお、それはいい」
マエストロたちの会話を聞きつけたセレネの楽団の奏者が、通りがかりに提案した。
「ミラージュはどうですか?」
「ミラージュ?」
伝説上の、幻の国だ。どこにあるのか、どんな人々が住んでいるのかだれも知らないが、ふとした時に現れたり、消えたりするらしい。マエストロももちろん行ったことはないし、行ったことがあるという人にも出会ったことはない。
「このセレネのどこかに、ミラージュへの入り口があるってうわさですよ」
「行ったら、もどってこれなくなるんじゃないのかね」
デュナンが危ぶんだ。けれど、マエストロはがぜん興味を持つ。ミラージュを探す旅、面白そうではないか。
「どこかって、例えばどこ?」
団員は、意味ありげに微笑んだ。
「ミラージュを目指す人は、きまって北へとまっすぐ進むそうですよ。もちろん、目的を果たしたかどうかは、分からないですけどね」
そこでマエストロは、楽団に二回ほど合奏レッスンをした後、北へと出発した。フラットも一緒だ。まずは北行きの列車に乗ってのんびりと移動する。けれど、半日もするとすぐに終点へ到着してしまった。車内で買った焼きぐりをつまみながら、マエストロとフラットは無人駅に降り立った。
その駅で降りたのは、マエストロだけだった。
「どうしよう。ドラゴンに乗って行こうかな」
けれど、なんとなくやめた。ドラゴンの速さで移動していたら、ミラージュが現れてもすぐに見失ってしまうかもしれない――と思ったのだ。
幸い、駅の周りの寂れた町に、屋根なし車のタクシーがあった。町の外れまでは送ってくれるという。その町に一晩泊まってから、タクシーで町の外れまで移動した。
町の北には、荒野が広がっている。
「運転手さん、もしも、あの荒野の向こうへ行きたいと思ったら、みなさんどうします?」
「箒で飛ぶか、ドラゴンだな。でも、あんたは魔法無しだから、箒は使えねえだろうな」
「そうなんですよ」
マエストロは愛想良く答えた。
「自分の目的地は、ここからさらに北、北の果てにあるようなんです。歩いていくしかないでしょうか?」
運転手はポリポリとひげをかき、「ちょっと待ってろ」と言った。それからどこかへ出かけ、一頭の馬を引いてもどってきた。
「馬にゃ乗れるか?」
「ええ、おそらく」
マエストロは、まずフラットを馬の背に乗せた。それから、自分もあぶみに足をかけ、ひょいとくらの上に乗った。
「そいつで、行けるところまで行け。満足したら、『帰ってよし』と馬に言ってやれ。馬は蜂に変身して、ここに戻ってくらあ」
馬も魔法が使えるらしい。
「どうもありがとうございます」
お礼を言って、出発する。馬が歩き出すと、おどろいたフラットがさわいだ。馬の背中で暴れると危ないので、マエストロはフラットを抱き、片手でたづなを握った。
「落ち着いて、フラット。周りの景色を見てごらん」
マエストロはゆっくりと呼吸をして、見回した。馬に乗ると、見える景色が変わる。灰色の大地の、先の先が丸まっているのが見えた。空を覆う暗雲が、渦というにはあまりにも自由にくずれた形で、ゆっくりと動いている。馬に乗ると背が高くなったはずなのに、かえって空がはるか遠く見えた。分厚い雲はちょっと手を伸ばせば届きそうなほどに大きいのに、そのさらに上に空がある。
冷たい風が吹き、フラットの毛が逆立った。
「ごめんね、寒い?」
「にゃあ!」
フラットはマエストロの上着に爪をたててよじ登り、胸元に入り込んだ。その場所がお気に入りなのだ。
「それにしても、見事に何もないね」
荒野で目につくものといえば、時折立っている枯れ木や、切り株。地面に生える草は丈が短いものばかりだ。
時々馬が立ち止まっては、少しでも青い草を食べた。その様子を見ていると、こっちもお腹が空いてくる。チーズのかたまりを取り出すと、自分にもくれとフラットがねだった。
夜になると、人・馬・猫で固まって、野宿をした。朝にはまた出発して、さらに北を目指す。そのくりかえしで三日が過ぎた。
荒野の景色に飽きてきたころ、一軒の家が見えた。思わず馬を急がせ、家の前で滑り降りる。はやる気持ちで扉をたたくと、一人の老人が姿を現した。
「なんと珍しい。お客さんかの」
真っ白いひげをたくわえた老人は、マエストロを家の中に招き入れた。
「あ、馬は……」
そうマエストロが言いかけると、老人は馬のために水と干し草を用意してくれた。
家の中は、暖炉の火であたたかい。老人が出してくれたお茶をすすり、マエストロはほっと息をついた。
「ラポールから来なさったのか。物好きなお方じゃ」
マエストロは苦笑いした。
「幻の国につられまして」
「年に一、二度、そういう旅人が来ることがある」
マエストロは、やや期待を込めて尋ねた。
「ここは、ミラージュですか?」
老人が笑った。笑いながら、首を振った。
「ここはまだ、セレネじゃ。だが、もしあんたがもっと歩くつもりがあるのなら、あるいはミラージュにたどり着くことができるかもしれぬ」
「なんと!」
マエストロは身を乗り出した。
「では、うわさは本当なんですね?」
「行って帰ってきた者を、何人も知っておる」
老人は大きくうなずいてみせた。
マエストロはそわそわし始めた。届くかもしれないと言われれば、手を伸ばさずにはいられない。
「行こう、フラット」
声をかけた時、黒猫は窓の外を眺めていた。マエストロの声に反応しなかったので、もう一度呼びかける。けれど、彼はかわらず、背中を向けていた。
「フラット!」
三度目で、ようやくフラットはゆっくりと振り返った。凍ったような目に、マエストロは息をのんだ。
「フラット――もしかして、もう行きたくない? この家で待っていてもいいよ」
マエストロが尋ねると、フラットは窓のそばから降りて、マエストロの足に顔をこすりつけた。
「よかった。じゃあ、出発しようか」
「これを持っていきなされ」
老人が、袋に入れた水筒や食糧をくれた。
「これが尽きるころに戻ってくれば、死ぬことはなかろうて」
「ありがとうございます」
外に出ると、休んでいた馬が立ち上がった。
「おっと、馬はいけない」
老人が止めた。
「馬に乗って、ミラージュに到達した者はおらなんだ」
「そうか……」
マエストロは馬のたづなをとき、
「帰っていいよ。ありがとうね」
と声をかけた。その瞬間馬は小さな蜂に変身し、ぶーんと羽音をたてて飛んでいった。
「よし。じゃあ――行こう」
「にゃあ」
老人が、手を振って送り出してくれた。
それからさらに三日、マエストロは歩き続けた。足はずきずきと痛み、昨日、一昨日の分の痛みまでため込んでいる。袋の中の食糧は、フラットと分け合い少しずつ食べ、確実に減っていった。
五日後、食糧も水もなくなった。マエストロもフラットも息絶え絶えだ。
「もう……帰ろうか」
ひげののびたあごをさすり、マエストロはつぶやいた。水たまりの水を飲んでいたフラットが、同意するように小さく鳴く。けれど、
「あと、もう少しだけ……進んでもいいかな?」
マエストロはまだ、諦められないでいた。
気をまぎらわせるために、頭の中で音楽を流す。口に出して歌う元気はもはやない。一歩、また一歩と、感覚はとっくになくなった足をひきずった。
小さな石にけつまずき、マエストロは砂地の上に倒れた。痛風をわずらった足元が激しく痛み、思わずさけぶ。フラットが、マエストロの周囲を歩き回って鳴いた。
「だいじょうぶ……」
マエストロはそうささやき、がくりと頭をたれた。起き上がる気にもなれなかった。フラットがまた大きく鳴いた。彼は元気だ。まるで何かを見たかのように、あんなに威嚇の声を上げて……。
マエストロは、ゆっくりと顔を上げ、からからの目をそっと開いた。そして、小さなかずれ声をもらした。
目の前に、銀の宮殿があった。ぴかぴかに磨き上げられた城壁に、疲れ切った自分の姿がはっきりと映し出されている。太陽がこぼす弱々しい光りを反射して、城はきらきらと輝いていた。
「これは……」
マエストロは、最後の力を振り絞り、ひすい色のじゅうたんを敷いた階段をのぼった。立ち上がることはできず、フラットのように四つんばいだった。最後の段をのぼりきった後、大きな扉を開く前に、マエストロはつぶやいた。
「……ちょっと待って。勝手に中に入っていいのかな?」
フラットが急かすようにマエストロのほおをなめた。だれにも届かないようなかすれ声で、マエストロはいるともいないともわからない城の主にむかって呼びかけた。
「中に上がってもいいでしょうか? 怪しい者ではありません! 自分は……指揮者です」
扉がひとりでに開き、中の光があふれ出した。目がくらみ、マエストロはとうとう気を失った。
気がついた時、マエストロは広いベッドに寝かされていた。天蓋つきの、今まで泊まったこともないような豪華なベッドに、まるで雲の上にいるかのようなふわふわの寝具。一瞬、自分はもう死んで、天国にでも来たのかと錯覚した。
ゆっくりと上体を起こし、枕元に置いてあった眼鏡をかけると、足元でフラットが丸まって寝ているのに気がついた。
「君には迷惑かけたね、フラット」
フラットをそっとなでながら、マエストロは寝かされている部屋の様子を観察した。ベッドの下に、マエストロの革靴と、布製のスリッパが置かれていた。ベッドから降りてスリッパをはき、ふらふらと歩いた。部屋の中の調度品は全て、柔らかな銀色でそろえられている。丸い銀のテーブルに、湯気が上がるココアとおかゆ、それからフラットのためと思われる魚のほぐし身とミルクの皿が置いてあった。
イスに座り、ココアを飲んでいるうちに、フラットも目を覚ました。二人で食事をとり(久しぶりの食べものだ)、食べ終わった後は器をのせた盆を持って立ち上がった。宿屋でこうすると喜ばれるのである。
盆を持ったまま廊下に出ると、ふわっと何かが通る気配がした。きぬずれの音、息づかい、やわらかなにおい。けれど風がカーテンをゆらした他、目に見えるものは何もない。
マエストロはとっさに、お辞儀をした。
「こんにちは、お邪魔しています」
返事はなかった。次の瞬間、マエストロの手の中のお盆は消えていた。
マエストロは部屋にもどった。足がまだ、どうしようもないほどに痛んでいる。またベッドに寝転び、痛みと徹底的に向き合うことにした。そういう時に手伝ってくれるのは、音楽と決まっている。頭の中で流した音楽に合わせ、腕を動かした。
フラットもベッドに飛び乗り、また丸まった。今日は二人とも、のんびりする日と決まったらしい。
お腹が空いたころ、また食事がテーブルの上に現れた。今度は紅茶と薄切りのパン三種、オムレツにサラダだ。かみしめて食べた。お盆を持ってまた廊下に出ると、風のようなだれかが持ち去ってくれた。
「ねえフラット、ここでは不思議なことばかり起こるね」
部屋の中で、マエストロはうなった。
「ここはミラージュなのかな」
何食わぬ顔で毛づくろいをするフラットにも、わかっていなかったにちがいない。
夜になり――部屋の中にいて何故わかったのかというと、照明が一段落ちたからだ――今まで出された中で一番豪華な料理を食べ終えた後、マエストロがイスに座って楽譜を読んでいると、閉じたはずの扉がひとりでに開いた。
「おや……」
マエストロは思わずイスから立ち、だれかが入ってくるのを待ち受けた。
「マエストロ」
背後から静かな声がして、マエストロはぎくりと振り向いた。
「おお! いつの間に……」
部屋の中に立っていたのは、まだ十代にも満たないほど幼い見かけの少女だった。落ち着いた緑のワンピースを着た彼女は、マエストロにうやうやしくお辞儀をした。
「侍女頭の、クロッカンと申します」
「あ……これはこれはご丁寧に。お邪魔してすみません、自分は指揮者です。旅をしていたところで……」
「ええ。ようこそ、マエストロ」
クロッカンはにっこり笑った。マエストロは決まりが悪くなり、頭をかいた。
「お部屋を貸していただいたり、食事までお世話になってしまって……」
「お気づかいなく、ごゆるりとおくつろぎくださいませ。……と、言いたいところですが……」
クロッカンはマエストロを見上げ、静かに言った。
「女王陛下が、ぜひともあなたにお会いになりたいとおおせです。私と共に来てくださいますか?」
マエストロは目をみはった。
「ええ! それはもちろん! ……でも……」
無精ひげだらけの自分の顔をなで、くたびれたシャツをつまんだ。
「こんなかっこうで拝謁すると、ご無礼にならないかな?」
クロッカンは微笑んだ。
「陛下は気になさりません」
「よかった。猫も一緒に連れて行ってもよろしいですか?」
「ええ」
マエストロは、クロッカンについて廊下を歩いた。静まりかえった廊下に響くのは、マエストロの足音だけ。クロッカンとクロッカンは、滑るように、あるいはふかふかのじゅうたんの上でスキップするように歩く。彼らの影が床に踊り、奇妙な模様を作った。
ふと、クロッカンが通り過ぎた、小さな部屋の扉が目に止まった。黒っぽい色で模様も文字もない質素な扉だが、鍵穴が三つもついている。さりげなく近づくと、中からかすかな音がした。なんの音か、分かりそうで分からない。
「マエストロ」
クロッカンが呼んだ。気づけば彼女はずいぶん先にいた。慌てて追いかける。
クロッカンが立ち止まったのは、大きな扉の前だった。てっぺんが見えないほど高い扉。一体どんな人間が作ったのだろう。隅から隅までびっしりと絵が描かれている。たくさんの人間たちが戦っているようにも、動物たちがかけくらべをしているようにも、森林の草木や虫たちがのどかに過ごしているようにも見える、細やかで不思議な絵。時間が許すならば、端から絵を追ってじっくりと観察してみたい。はしごに乗って、絵の終わりまでを旅したい。そんな衝動に駆られたマエストロだったが、クロッカンとフラットが待っていることをすぐに思い出した。
クロッカンは、扉の取っ手をそっと握っている。
「よろしいですか」
尋ねられ、マエストロはうなずいた。周囲はあくまでも静かだ。荘厳で不協和音のある音楽がほしいと彼は思った。
扉の向こうは、雑然としている。それが第一の感想だった。
女王様は、畏れながら、片付けが苦手でいらっしゃるらしい。思いつく限りありとあらゆる身の回りの物で、本来ならばセレネのパイプオルガンつきホールほどの広さがあるはずの部屋がほとんど埋まっていた。一番目立つのが、古い大時計。ガラスの扉の中で振り子が揺れている。宝石が箱からあふれ、床に転がっていた。壁にとりつけられたハンガーにかかっているのは、一人の女が一生かかっても着られないほどの衣装――子どもサイズから大人サイズまで、ご丁寧に取りそろえてある。ぬいぐるみの山の頂上に、手鏡が乗っていた。グランドピアノが本の束に囲まれて居心地悪そうにしているのを見つけ、マエストロは心を痛めた。
風が吹き、ぬいぐるみや本をいくつか飛ばした。
女王の姿は、マエストロには見えない。ただフラットが、目であちこちを追い、低くうなり声をたてている。風が広い、散らかった部屋中を吹き抜けた。そのたびに、風の向こうで雑多な品物の中の何かがきらりと輝いた。
マエストロはその場にひれ伏し、お礼を丁寧に述べた。
「このたびは、陛下のお城に足を踏み入れるお許しを得たこと、光栄の至りに存じます。知らず知らずにご無礼を働いていましたら、申し訳ありません。陛下のご健康と、国のますますのご繁栄を、心よりお祈り申し上げます」
風の中から、おごそかな声が聞こえた。
――ずいぶん、王家との対話に慣れておるようね。
マエストロはこっそり安堵した。各国の元首と会う機会は今までたびたびあった。その時の経験が活きたようだ。
――マエストロ。そなたは、第一の試しに合格しました。そなたの礼節をたたえましょう。
「第一の試し……?」
クロッカンが寄ってきて、ささやいた。
「あなたがお城の前に現れた時から、試しは始まっていました。入城の許可を求めたこと、土足ではなく用意された履き物を使ったこと、食事に対する感謝を示し、城の住人にあいさつをしたこと。あなたは全てに合格されました」
「……ちなみに、合格しなかったらどうなっていたんです?」
「一晩お泊めして、それからお帰りいただいていたでしょう」
マエストロはほっと息を吐いた。
――第二の試し、それは最後の試しでもある。受ける受けないはそなたの自由じゃ。もし試しに合格すれば、そなたにわらわの国と民、城をゆずろう。
「ええ?」
マエストロはおどろいた。いきなり、何の話だ。けれどクロッカンが当たり前のようにうなずいているので、自分も分かっているようなふりをした。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
――よろしい。
「もし、第二の試しに合格しなかったら?」
笑い声が、風にのってやってきた。
――その時、そなたは石像となり、城を永遠に飾ることになろう。
マエストロは思わずうめいた。とんでもない代償だ。
「もう一つ、よろしいでしょうか。……試しを受けないことはできますか?」
――できる。
安堵したその時、女王が続けた。
――だが、そなたは受けなかった試しの中身と結果が気になってたまらず、狂い死にするであろう……。
「それもいやだ」
マエストロはつぶやいた。
「マエストロ。どうか試しを受けてください。合格すればいいのです」
クロッカンはそう言うけれど!
「リスクが大きすぎるよ」
ぼやきながら、マエストロはため息をついた。いつの間にか、選択肢は一つしか残されていないようだ。
「かしこまりました。第二の試しを受けます。自分は、何をすればよろしいでしょうか?」
女王は喜んだのか、ぐるぐるとつむじ風になって部屋中を巡った。
――わらわが治めている国が何であるかを知り、民と話すことができれば、試しは合格じゃ。明後日の夜までに答えてみせよ、マエストロ。
マエストロはふたたびひれ伏した。けれどそれは、苦虫をかみつぶしたような自分の顔を隠すためだった。
「お城は、好きに見て回ってようございます」
「それはどうも」
「もしすぐにでも答えが分かれば、私にお申しつけくださいませ。正解すればそこで試しは終わり、不正解でも期限までは機会がございます」
「ありがたい話ですね」
マエストロはどこか不機嫌な声で答えた。
「クロッカンさん、あなたにヒントをお聞きしてもいいんでしょうか?」
「聞くのはようございますが、私は答えませぬ」
クロッカンは軽やかにそう言った。
「さて、どうしようかな」
彼女と別れ、ゆっくりと廊下を歩きながら、マエストロはつぶやいた。
「にゃあ?」
「励ましてくれてるのかな。ありがとう、フラット。石像にされないよう、頑張らなきゃね」
よく見ると、階段や廊下の壁際に石像がたくさんたっていた。薄暗いので、先ほどは気づかなかったのだ。
「これが、みんな試しに失敗した人たちか……」
自分もいずれそうなるのか、と考えてしまい、背筋がぞっとした。それから、
「いや。合格して王様になって、みんなを解放してあげなきゃね」
と言い聞かせる。魔法使いではないから、魔法の解き方はまだ分からないけれど。指揮も今回はあまり役に立たなそうだった。
部屋に戻って思考を巡らせた。女王が治める国が何であるか。民と話すことができるか。クロッカンとは何度も会話しているが、それだけでは不十分らしい。
思考の休息に少しだけ休むつもりが、いつのまにかになっていた。朝食の途中で答えが「音楽」だったら嬉しいなと思いついたので、クロッカンを呼んで回答した。けれど、やはり違うらしい。
「では、「魔法」かな?」
「残念ながら、違います」
「蜃気楼。ミラージュとは、そういう意味だよね」
「その名は、外の人々が呼んでいるものに過ぎません」
「そうか、残念」
フラットがマエストロに頭突きをして、遊ぼうと要求した。彼をたっぷりくすぐったり、跳ね回らせてやってから、ふと気になったことがあり、下がろうとするクロッカンに尋ねた。
「お城には、君と女王陛下以外の人はいらっしゃるのかな」
クロッカンは微笑んだ。
「ええ。おります」
「話しかけても大丈夫?」
「はい」
「わかった、ありがとう」
クロッカンに案内されたのは、二階にある小部屋だった。立ち入ると、ミルクの甘い匂いがあふれた。火があかあかと燃える暖炉の前で、肘掛け椅子にだれかが座っている。こちらに背を向けて。
マエストロが挨拶すると、椅子ごと相手がこちらを向いた。思わず絶句したマエストロの目をまっすぐに見上げるのは、干物のように縮んだ老女を優しく絹布でくるみ、そっと揺らす幼い娘だった。
娘は、血色の良い、丸い頬を緩め、あどけない声で子守唄を歌っていた。彼女の腕の中の老女は、口をつぐみ目も閉じて、薄い涙さえ浮かべてその歌を聴いているようだ。
黙ったままのマエストロを、クロッカンが不思議そうに見上げた。
「お話があるのでは?」
「うーん……」
マエストロは次々に頭に湧いた疑問をなんとか抑え、彼女たちに挨拶した。娘が、たどたどしい口調で挨拶を返した。
部屋を出てから、マエストロはクロッカンにささやいた。
「あの人たちは一体……?」
「私と同じく、女王陛下に仕える者です」
「あ……そう」
次にマエストロが開けてみたいと部屋を選んだ時、クロッカンは扉を開ける前に忠告した。
「お怪我をなさるといけませんから、少しずつ動いてお入りください」
中を見た瞬間、言われた意味を理解した。きらきらと輝く無数のガラスの破片が、部屋中に散っている。音符のように小さく、美しく、けれど鋭利な破片。マエストロのすぐ目の前に。
これ以上は前に進めそうもない。その場で固まるマエストロの耳に、ぱりんとまたガラスが砕ける音がした。
部屋の真ん中に、一人の男が立っている。テーブルに並べきれないほどたくさんのコップを置き、それを一つずつ手に取っては割った。割れたコップの破片はそのまま空間にとどまり、また新しい星座を作っている。
次々とコップを割る男に、マエストロは尋ねた。
「あの、あなたは一体何を?」
なさっているのですか、と口に出すより前に、部屋中のガラスが床に落ちた。男が愕然として、ガラスの屑の真ん中で頭をかきむしる。
「ああ、また中断された! 邪魔が入ったからだ! 今の今まで完璧だったのに!」
「ごめんなさい」
マエストロは後退りして、男から逃げた。閉めた扉の向こうから、またガラスを割る音が聞こえてくる。
廊下の壁にかかる時計を見ると、正午を少し過ぎている。
「お食事の支度をして参ります」
そう言い残して下がろうとしたクロッカンをまた捕まえた。
「あと一部屋だけ、付き合ってくれませんか?」
マエストロが訪れたのは、女王に拝謁する前見かけた、鍵穴が三つある扉だった。
「この扉を開けてください」
クロッカンは微笑んだ。
「できません」
マエストロは眉をひそめた。
「どうしてですか?」
「入ってはならない部屋だからです」
マエストロはちょっと考えた。
「それは、自分が? それとも、君が?」
「全て」
クロッカンはまだ笑っている。
「陛下ですら、この中にお入りになることはありません」
「もう一つ質問してもいいかな?」
「どうぞ」
「この中に、自分が探している答えはある?」
クロッカンの笑みが薄れ、悲しげな顔になった。
「答えは常にあなたの側にあります、マエストロ。わざわざ扉を開けなくても」
そして、彼女は静かにその場を去った。
昼食後、マエストロはまた城の中を散歩した。娘と老婆の部屋、ガラスの部屋は通り過ぎ、かわりにその他の部屋を覗いて回った。そして最後に、名前のないあの部屋までやってきた。クロッカンが「入ってはいけない」と言った部屋だ。
手をかけ、軽く押してみた。予想に反して、扉は音をたてて動いた。マエストロは思わず手を放し、後ずさった。
「入ってはいけないと、あの子は……」
けれど、今、鍵はかかっていない。こっそり中に入ることができる。
「いやいや、あの子が駄目だとわざわざ言ったんだ。必ず意味がある」
けれど、立ち去る前に、マエストロは気がついていた。入ることができると知った今、誘惑に耐えることがとても難しくなってしまった。
案の定、ベッドに潜り込んだ後も、あの部屋のことが頭から離れない。中には何があるのか? そこに、答えがあるのではないか? 期限は刻々と迫っている。明日の夜までに正解しなければ、石像にされてしまうのだ。
「いや、ちがうな」
マエストロはもごもごとつぶやいた。本当は、答えを知りたいからあの部屋に入りたいのではない。純粋に、中が気になって仕方がないのだ。
寝返りを打ち、マエストロは目を閉じた。眠ってしまおう。翌日には、忘れることができているかもしれない。
けれど、夜中に目が覚めた時、あの部屋のことがまだ頭にこびりついていた。マエストロは起き上がり、そっと部屋を抜け出した。早足で廊下を巡り、階段を上り、とうとう部屋の前までやってきた。
扉は、やはり開いていた。押すと動くのだ。もういいだろう。中を見てしまおう。戻れなくたって、かまうものか。
思いきって中に踏み込もうとした。その時、背後から音楽が聞こえた。なつかしい、マエストロが好きな交響曲の一節。オーケストラの様子と観客の興奮が一気によみがえり、マエストロは振り向いた。
誰もいない。不思議な出来事に、もうとっくに慣れっこになっていた。だが、音楽はまだ、遠くから聞こえてくる。
マエストロは思わず口のはしに笑みを浮かべ、扉から手を放した。そして、音楽の幻を追って、戻っていった。
最終日。朝食を食べながら、ぼんやりとあの部屋のことを思った。中を見ることができなかったのは残念だが、そうもいっていられない。第二の試しは今日の夜までだ。
「今日は、どうしようか。フラット」
話しかけられたフラットは、お愛想程度に返事をして、また魚に夢中になった。
「君はのんきだね」
苦笑し、窓の外を見る。珍しく天気が良く、雲のない空が見えていた。
「……外」
マエストロはつぶやいた。そうだ。ラポールもシグナスもラピアも、宮殿の中に国が全てあるわけではない。城があって、その周りに国土がある。
どうして、もっと早く気がつかなかったのだろう? この城の周りにも、女王の国はあるはずだ。
大急ぎで食べ終えて、皿と盆を召し使いに渡してから、マエストロは城の外へ飛び出した。
外は、セレネのあの荒野と同じだった。丈の低い草だけが生えた、寂しい土地。だが、歩き出しても宮殿は消えない。
「まだ、時間はたっぷりあるんだから」
マエストロはつぶやき、何もない地をのんびりと歩いた。草、虫、空気、空……と、そこにあるものを数えていく。けれどどれも答えとしてはしっくりこない。散歩しているうちに、時間ばかりが過ぎていく。
「どうして、こうなったんだろうね。……自分がミラージュに行こうだなんて思ったからだな」
自分の問いに自分で答えを出し、マエストロはつい声をたてて笑った。
「じゃあさ、自分はどうして、こんな余計なことをついしたくなってしまうのかな」
今度は、なかなか答えがでなかった。だからマエストロは、黙って歩いた。時間がまた過ぎていった。
「時間」
マエストロはぼんやりとつぶやいた。
「何もないところにも、時間はある……」
何もないところ? どんなところにも? 例えば――女王の国にも?
マエストロが思い出したのは、老婆を抱く幼い少女。それから、侍女頭でとても落ち着いているのにまだ幼く見えるクロッカン。時を戻そうとするかのように、枯れた花を埋める庭師、時が止まった様子の部屋!
「時間が答え……?」
マエストロが歩く時も、立ち止まった時も、時間はそこにあった。静かに流れ、マエストロのそばを離れなかった。クロッカンが教えてくれたヒントの、まさにその通りに。
マエストロは浮かんだ答えに興奮した。けれど、まだ自信はなかった。何度も同じ場所をぐるぐると歩き回り、空中に向かって指揮を振り、歌を歌った。それから、自分の様子がいかに奇妙に映るかに気がつき、苦笑した。
さも滑稽だろう――魔法無しの中年男が、たった一人でぶつくさ言いながら、時折腕を振ったり、歌いだしたり。けれど、それが自分だ。落ち着きたい時には音楽の助けを借りる。歌を歌い指揮をしてみせることが、意味のない、よけいなことであっても。
「……そうだよ。音楽が好きだからだ。生きるのに必要のない行動が音楽と似てるからこそ、自分はよけいなことばっかりしたくなるんだ」
時間はちゃんと、マエストロの問いに答えてくれた。
女王の部屋にふたたび入る時、マエストロは緊張していた。
――約束の期限は来た。さあ、答えよ。
マエストロは顔を上げ、よく張った声で答えた。
「陛下の治めるもの、それは時間です! 時間は、散歩をする自分に寄り添い、疑問の答えをくれました。このお城には、さまざまな姿の時間があります!」
笑い声がはじけた。
――お見事、マエストロ。
風が止んだ。顔を上げると、目の前に大きな時計が立っていた。
クロッカンがそっと拍手をする。マエストロは、自分の体をあちこち触り、石に変わっていないことを確かめた。
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「それでどうなった?」
ジェリゴーが尋ねると、マエストロは面倒そうに言った。
「普通に、帰ってきたよ。帰り道の話は別にいらないでしょ」
「そうじゃなくて! 君はミラージュの王になったんだろ?」
「どうかな」
マエストロは肩をすくめた。
「保留中だよ。王様になったって、しょうがないしね。とりあえず、お城はクロッカンたちに任せてある」
「もったいないな。いらないのなら私にくれよ」
「だめ」
ジェリゴーをあしらいながら、マエストロはふところに手を入れた。古めかしいデザインの、銀の懐中時計。これだけが、幻の国ミラージュで起きたことの証だった。




