第二話 急行「蜃気楼」号
汽笛が鳴った。急行「蜃気楼」号が、まもなく発車するのだ。
駅の弁当を買うかどうかで迷い、まだホームでぐずぐずしていたマエストロは、あわてて列車に飛び乗った。それからすぐに扉が閉まる。うなり声とともに蒸気を大量に吐き、列車は動き出した。
シグナス王国からラポール王国やオルバルド帝国を経由し、終着点はセレネ共和国。この機関車は、石炭と蒸気で動く。ほとんどの人間が魔法を使えるこの社会では、あまり便利でないように思われるが、移動に時間がかかることがかえって好事家にうけて、毎旅行ごとにそれなりの人数の乗客を運んでいた。
マエストロがこの急行「蜃気楼」号に乗ったのは、セレネ共和国で行われるコンサートに出るためだ。急いでいるなら、ドラゴンに乗ってひとっ飛びするか、魔法使いの友達に頼んで瞬間移動させてもらう。けれど、コンサートまでは時間に余裕があったので、あえてのんびりと汽車の旅を楽しむことにした。
車掌に案内され、一人部屋の立派なベッドに荷物を置くと、マエストロは、しばし窓の向こうの景色をぼんやりとながめた。麦畑の金色の穂が波打つのを見るのに飽きてきたころ、なだらかな緑の丘が始まり、時々羊のむれやその周りをパトロールする犬が見えた。けれどそれらは、あっという間に汽車のはるか後ろへと飛んで行った。
のどがかわいたので、マエストロはカバンを持って食堂車へ出かけた。ぶどう酒でも飲みながら楽譜を読もうと思っていたのだが、カバンをイスに置いたところで声をかけられた。
「マエストロ!」
見ると、背の高い金髪の青年が、にこにこと笑いかけていた。見覚えがなかったので首をかしげると、彼はあわてて自己紹介をした。
「マックスといいます。マエストロのコンサートを、何度か聴きました。あと、新聞でもよくお見かけしたので……」
「ああ、どうも」
マエストロは、求められるがままに握手を交わした。マックスの、一本に編んだ長い髪の毛が、ぶらぶらと揺れた。彼は魔法使いらしい。
「一緒に座ってもいいですか?」
「どうぞ」
食堂車には、白いクロスをかけたテーブルがいくつも並んでいる。マエストロとマックスは向かい合って座った。マエストロはぶどう酒と生ハムを、マックスはミネラルウォーターとステーキを注文した。
「いやあ、腹がぺこぺこで。昨夜から、何も食べていなかったんです」
マックスが照れた。
「マエストロはどこにお出かけですか?」
「セレネですよ。演奏会に呼ばれていまして」
「おや、遠いところまで。自分はオルバルドで降りますよ」
「では、途中まではご一緒できますね」
「そうだ、サインしてもらえませんか?」
マックスはどこからともなくペンを出現させ、マエストロに差し出した。
「いいですよ」
マエストロがサインをしたのは、マックスのシャツの生地だった。
料理が運ばれてくると、マックスは脇目もふらずに食べ進めた。マエストロはその様子を、酒を飲みながらながめていたが、だんだん自分もお腹が空いてきたので、チーズオムレツも注文した。
日が沈み、夜も遅くなると、列車の照明も次第に暗くなった。マックスとトランプで遊んでいたマエストロだったが、そろそろ目がしょぼしょぼしてきたので、寝室に帰ることにした。
お酒のためか少しふらつきながら通路を歩き、体一つでベッドに飛び込むと、マエストロは眼鏡をかけたままあっという間に眠りに落ちた。
次に気がついた時には、周囲はもうぼんやりと明るくなっていた。汽車に乗ってからずっと感じていたほんの小さな揺れが、止まっている。
窓の外を見ると、ちょうどそこはラポール王国の中央駅だった。寝ているうちに国境を越えたらしい。黒い制服を着た乗務員が駅と列車を行き来する様子をながめているとまた眠くなったので、マエストロは二度寝することにした。
しばらくして、部屋の外から聞こえる賑やかな話し声や足音で、マエストロは目を覚ました。扉の窓から、行き交う人々の影が見える。
ラポールの駅で、たくさん客が乗り込んできたのだろう。マエストロは大きなあくびをしてベッドから起き上がり、備え付けの浴室でシャワーを浴びた。それから朝食を食べるために寝室を出た。
足元にやわらかい何かがぶつかり、マエストロは足を止めた。みーみーと小さく愛らしい鳴き声が、下から聞こえる。
見下ろすと、真っ黒な子猫がじゃれついていた。
「おやおや!」
マエストロはしゃがみこみ、子猫の耳の後ろをかいてやった。緑色の丸いひとみをくりくりとさせて、子猫はさらに声を張り上げる。
「お腹が空いたのかな? でも、自分は今何も持ってないんだよ。食堂車に行けば、何か食べ物があると思うけど……」
のどをくすぐると、ごろごろと音をたてて猫は目をつむる。
「君は一人……いや、一匹で乗り込んできたのかな? 切符は持ってる?」
「あーっ! いた!」
顔を上げると、小さな男の子が猫を指差していた。彼がそのまま走ってくるので、怖くなったのか子猫は逃げだそうとした。間一髪捕まえ、マエストロは子猫を少年の前に差し出した。
「君の猫かな?」
男の子は、くちびるを突き出し、うなずいた。彼の手は、黒猫を預かるには少し小さいようだ。そのかわり、彼は大きなリュックを背負っていた。何でも入りそうな魔法のリュック。
「はい、次から逃がさないようにね」
「うん」
「猫ちゃん、お名前は何て言うのかな?」
「まだ、決めてない」
「そっか」
マエストロは笑い、子猫の頭を最後にひとなでした。
「じゃあ、またね」
食堂車に向かう途中でちらりと振り返ると、男の子が子猫に、小魚やチーズをあげていた。
食堂車はにぎわっていた。やはり、乗客が増えたのだろう。いろんな見かけの人がいて、いろんな言葉が聞こえてきた。
立派な上着に勲章をじゃらじゃらとつけた口ひげの男は、席のそばに立つ従者とおぼしき青年に、シグナス語で堂々と指示を出していた。湯気を上げる料理を前にきょろきょろと見回す夫婦に、さきほどの男の子が合流した。叱られる彼のリュックから、黒い猫のしっぽが見えている。乗務員を呼びつけ、クロスランド語で切符を確認しているのは、上品な身なりの年配の女たちの集団だ。食堂車をにぎやかにしていたのは、ほとんどが彼女たちの話し声らしかった。友達同士で気の置けない旅に出たのだろう。
夕べ仲良くなったマックスの姿を探したが、食堂車の中にはいなかった。そのかわり、なつかしい人物を見つけた。両手の指に大粒の宝石の指輪をいくつもはめた、太った男。
「お久しぶりです、デュナンさん」
「おお! マエストロ……!」
マエストロに気づくなり、デュナンと呼ばれた男は、わざわざ立ち上がってあいさつした。
「しばらくですな、マエストロ。よもやこんなところでお会いしようとは。いや、うれしい驚きだ」
「こちらこそ。デュナンさんはどちらへ?」
デュナンはにこりと笑い、一枚のポスターを取り出した。マエストロの写真が載っている、コンサートのポスターだ。
「もちろん、あなたのコンサートを聴くために、セレネへ行くんですよ!」
デュナンは、マエストロのいわゆる「ファン」なのだ。相当な金持ちで、普段はアカリエの首都にあるお屋敷で何不自由なく暮らしているが、こうしてマエストロのコンサートにはたびたび来てくれた。場所が外国だろうとおかまいなしだ。
「今回のコンサートも、とても楽しみにしとります」
「ありがとうございます。では、いっそう頑張らなければなりませんね」
そう言いながら、マエストロはとっさに楽譜を探した。
「……あれ?」
楽譜が手元にない。もちろん、楽譜はカバンの中だ。しかし、カバンも近くにはない。
「部屋に置いてきたかな」
マエストロは立ち上がり、ベッドのある部屋に戻った。けれど、いつも持ち歩いているカバンはどこにもなかった。部屋に残っているのは、ハンガーにかけた上着と、浴室で着替えたばかりの昨日の服だけだ。
「参ったな……」
食堂車にまた戻り、マエストロは昨日座ったテーブルをさりげなくチェックした。けれど、カバンはそこにもない。
「どうしました? マエストロ」
デュナンが心配して声をかけた。
「いやあ、その……」
マエストロは頭をかいた。
「……どうも、カバンをなくしてしまったようで……」
「なに、それは大変ですな」
デュナンも立ち上がり、マエストロのそばに来た。
「切符なんかも、カバンの中に?」
「いえ、財布と切符はポケットにちゃんと入っています。ただ、楽譜と指揮棒はカバンの中に……」
「それはおおごとだ。あなたの商売道具じゃないか!」
デュナンの大声に、食堂車中の乗客が注目した。マエストロは顔を赤らめ、デュナンの腕をそっと引いた。
「まあ、車掌さんのところに届いているでしょう」
マエストロがそう言うと、数分も経たないうちに車掌のビャルネが駆けつけてきた。
「テレパシーで呼びました」
デュナンがウインクして、ささやいた。
事情を聞いたビャルネは、きびきびとマエストロに質問する。
「どんなカバンですか?」
「黒い革の、しっかりした作りのカバンです。大きさは、そうだな、トランペットが入るくらい」
「中に何が入っていましたか?」
「楽譜と、指揮棒です」
「分かりました。探してきます」
ビャルネが去ると、デュナンはなぐさめるように言った。
「きっと、すぐに見つかるでしょうよ。マエストロ」
ところが、戻ってきたビャルネは、困り顔でマエストロたちに報告した。
「忘れ物として届いてもいないし、車内には見当たりません。……もちろん、お客様方の寝室は調べていませんが」
「では、盗まれたのではないか?」
デュナンが大声で言ったので、マエストロは苦笑いした。
「他のお客さんに悪いから、別のところで話し合いませんか」
三人は、マエストロの部屋に移動した。まず、デュナンが提案した。
「透視で、怪しい連中の部屋を探ってやりましょうか」
けれど、ビャルネが首をぶんぶんと振った。
「いけません、デュナン様! みだりに透視で人のプライベートをのぞくことは、ラポールやオルバルドの法律では禁じられています」
「じゃあ、セレネに着いたら許されるのか?」
「よしましょう、デュナンさん。皆さんのほとんどは、何も悪くないんですから」
マエストロはデュナンを止めて、腕組みをした。
「とはいえ、最後にカバンを見たのは……いつだったかなあ。列車に乗った時は、絶対に持ってた。ベッドのそばにも、一度置いた気がするんですよ。それから……食堂車に行って……あ、そうだ。その時カバンも持っていったんだ」
「では、お部屋に戻られる時は?」
「うーん、かなり酒を飲んでいたからなあ。あんまり覚えていないけれど……」
「マエストロ、禁酒したまえ」
デュナンが呆れて忠告した。
「まあ、それはいずれね。ともかく、部屋に戻る時にはカバンはなかったかもしれません」
「じゃあ、やっぱりだれかが盗んだんだ」
デュナンの言葉に、ビャルネはまた困った顔をした。
「お客様に、一度食堂車へお集まりいただきましょう」
こうして一時間も経つころには、数名の乗客が食堂に集まった。
「マエストロがご利用の食堂車に入られたお客様を、お呼びしました」
マエストロは驚く。
「すごいね。食堂車に入った人なんて、どうやってわかったの?」
「テレパシーでお食事を注文された方のお名前が、記録に残るのですよ。もちろん魔法無しの方は別ですが、今回はマエストロしかいらっしゃいませんから」
「なるほど」
乗客の中にはマックスもいて、事態をまだ知らないのか、陽気に手を振ってくれた。シグナス人の貴族の男はふんと髭を震わせ、窓の外に目をやった。クロスランド人の旅行団は、自分たちだけでなにやら盛り上がっている。黒猫の飼い主である少年は、両親の間に座り、きょろきょろと辺りを見回していた。
車掌ビャルネが進み出て、皆に深々とお辞儀をした。
「皆様。急行『蜃気楼』号をご利用くださり、ありがとうございます。当汽車はラポールの駅を全て通過し、オルバルド帝国へと向かっております。お降りの駅に到着致しますまで、ごゆるりとおくつろぎくださいませ。……ただ、少しばかり皆様のご協力をいただきたいことがございます」
ビャルネは、傍らのマエストロに目をやった。
「こちらのお客様――マエストロのお荷物が、夕べから行方不明となっております」
「黒い革製のカバンです」
マエストロはにこやかに補足した。
「この食堂車に置いていかれたのが、マエストロが覚えておられる最後とのことです。食堂車をご利用くださった皆様が、何か目撃なさっていないかと――」
「下らん」
シグナス人の貴族が、鼻で笑った。注目が集まると、わずらわしそうに手を振り、席を立つ。
「魔法無しの持ち物など、目にするだけで目が腐る」
デュナンがさっと顔色を変えた。
「何ですと? 随分な言いぐさですな。この方を誰だと心得ておるのです」
「デュナンさん」
マエストロは笑顔を崩さず、たしなめた。
「マエストロだか誰だか知らないが、魔法無しが一人前に権利を主張するなど、おこがましいことこの上ない」
マエストロは貴族の男に笑いかけた。
「そうでしょうか? あなただって、いつもお使いの杖や剣が突然なくなったら、お困りになるでしょう。人間、魔法が使えようが使えまいが、普段の営みは変わりません」
男は、苛々と息を吐きながら食堂車を出て行った。ビャルネが後を追おうとしたが、見えない壁に阻まれた。
「やあだ、あいつが盗んだんじゃないの」
クロスランドのおば様たちがささやきかわす。
「マエストロ……」
デュナンは険しい顔をしていたが、マエストロは首を振った。
「あのお方にこれ以上聞いても無駄でしょう。魔法無しである自分のカバンに触るとは思えないし」
デュナンが歯ぎしりをした。
「あなたが世界的に活躍する指揮者だと、知らせてやればよかったのに」
「あら、そうなの? あなた、有名人なのね」
「そうよ、ねえ、あたし見覚えがあるわ。ミズカ・ミントゥ(クロスランドの首都)のコンサートに来てくださったでしょ」
「あら、ほんと!」
クロスランドのマダムたちが、マエストロを取り囲む。
「ねえ、サインくださらない?」
「ええ、自分のでよろしければ」
「わたくし合唱団で、ソプラノをやってるんですの」
「おお、それは素晴らしい。今度せひ、一緒にコンサートをやりましょう」
「きっとよ!」
「歌声を聴かせてもらえますか?」
「ええ――」
デュナンとビャルネが、咳払いをした。振り返ると、デュナンが「カバン」と口の形だけで伝えた。
「ああ、そうでした。奥様方、自分のカバンを見かけませんでしたか?」
マダムたちは、一斉に「ああ~」とため息をついた。
「見てないわねえ」
「ああ、でも、わたくしたちのカバンの中、確かめていってもよろしくてよ」
「下着と化粧品しか入ってないけれど!」
マエストロは笑って首を振った。
「それには及びません。ありがとうございます」
若い夫妻が、おずおずと申し出る。連れていた少年はいつの間にかどこかに遊びに出かけたらしい。
「あの……我々は今朝食堂車を利用したのですが、カバンのような物は見かけませんでした」
「どうもありがとう。手がかりになりますよ」
「早く見つかるといいですね」
二人は気の毒そうな顔で、マエストロをいたわった。
結局、大した手がかりは得られなかったようだ。
「わしは、マックスという若造が一番怪しいと思う。あいつ、乗客を調べる間に、いつの間にか姿を消していた。それに、夕べもマエストロと一緒にいたのだろう?」
「カバンを盗むようなお方にはみせませんでしたよ」
マエストロが反論すると、デュナンは鼻で笑った。
「甘いな、マエストロ。わしの見立てでは、奴は軍人だ。しかも、諜報活動に精を出しているとみえる」
「え? スパイってことですか?」
「そうだ」
その時、ビャルネが青い顔で近づいてきた。
「あの、マエストロ……」
「おや、ビャルネさん。どうしました?」
「実は……」
ただならぬ様子に、マエストロもデュナンも思わず息を飲んだ。ビャルネは息を吸い、こう告げた。
「カバンを持って行ってしまったのは、急行の乗務員かもしれません!」
マエストロとデュナンは顔を見合わせた。
「乗務員? だれだ?」
「どうして、そう思われたんです?」
ビャルネが説明する。
「今日の早朝、ラポールの中央駅で乗務員の入替がありました。シグナスから搭乗したエッベという若い乗務員も、そこで降りたのです。彼はその時、乗務員皆に支給される黒く大きなカバンを持って列車を出ました。そのカバンですが、あなたがおっしゃったカバンの特徴とどうも一致しているのです」
「つまり……」
「はい。食堂車に残っていたカバンを、お客様の忘れ物として乗務員室に保管し、いざ列車を降りる時に自分のカバンと取り違えたのではないかと……」
「そのエッベくんとやらに連絡はとったか?」
「テレパシーで話そうとしているのですが、なかなか相手が受信してくれないのです」
「ふうむ、それは怪しいな」
マエストロも、いかにもありそうなことだと思った。そして、ラポールの駅付近にカバンがあるとしたら、いや、いろんな列車に搭乗する乗務員のことだから、もっと遠くにカバンが運ばれているかもしれないと思い、ぞっとした。
けれど、じきにあることに気がついた。
「もしビャルネさんがおっしゃった通りだとしたら、乗務員室にエッベさんのカバンが残っているはずですよ。どうでしたか?」
「あ……見てきます!」
バタバタとエッベが走っていく。ベッドに腰を下ろしたマエストロは、ゆっくりと息を吐き出し、これからセレネで演奏する曲をたどり始めた。もしかしたら、楽譜なしでコンサートに出ることになるかもしれない。
「みゃあ」
かわいらしい鳴き声がした。見下ろすと、足元にあの黒猫がいた。ビャルネが開けた扉の隙間から入り込んだようだ。
「おや、また君か」
マエストロが抱き上げた黒猫を、デュナンがしげしげと眺めた。
「こいつは?」
「他のお客さんのペットですよ。ええと、ジョーンズさんだったかな。その息子さんが飼っているようでね」
マエストロは黒猫を腕に抱き、立ち上がった。
「また会えてうれしいけれど、ご主人が心配しているといけないからね」
ジョーンズ一家の部屋の扉をたたくと、少年の母親が顔を出した。
「何のご用でしょうか?」
マエストロは黒猫を彼女に差し出した。
「おたくの猫くんですよ」
母親は、顔をしかめ、首を振った。
「まあ、それは誤解です。猫を連れて汽車に乗るなんて、そんな非常識なこと! 第一、私は猫が好きではないんです。近づくと、くしゃみが出るのですわ」
マエストロは、黒猫をじっと見た。
「なんと! では、君は一体どこの子なんだろう?」
その時、内側から扉が開き、あの男の子が飛び出してきた。
「僕の猫!」
彼が黒猫を指さすと、母親がびっくりした。
「なんですって? コリン、どういうことなの? ママに話してごらん」
男の子は、口をとがらせた。
「こいつ、僕の猫だよう。だって、僕が作ったんだもん。いけない?」
「作った?」
母親とマエストロが、そろって聞き返した。
「どうやって? 魔法で?」
「うん。魔法の薬、だよ」
コリンは、リュックの中からほとんど空になったガラス瓶を取り出してみせた。
「ご飯食べるとこでね、でっかいカバンが落ちてたから、薬をかけてみたの。そしたら、猫になったんだ。ね、すごいでしょ」
「黒いカバンかな?」
「うん。黒くって、固いの」
「コリン!」
母親が怒り出した。
「また、叔父さんからわけのわからない薬をもらって、いたずらしたのね!」
マエストロは手の中の子猫をじっくりと観察した。
「つまり、自分のカバンが、この猫くんになったんだね」
「うん。ね、僕のだよね?」
「とんでもない! コリン、このおじちゃんはずっとカバンを探してたのよ。ごめんなさいして!」
「いやいや、気にしないで」
マエストロは笑った。母親がくしゅんと二、三発くしゃみをした。
「いつか、薬の効果はとけるでしょう。それまでこの子は自分が預かっていいかな? コリンくん」
「えー……」
「コリン!」
母親に叱られたり、なだめすかされ、ようやくコリンは承知した。
「降りるまでは、こいつと遊んでもいい?」
「もちろん」
母親の表情を見て、マエストロは
「どこか別の場所でね」
と付け加えた。
「さて、よろしくね、猫くん」
寝室で、マエストロがあらためて呼びかけると、猫はみーと鳴いた。
「猫くん猫くんって呼ぶのも何だから……名前をつけてあげなくちゃね」
ちょっと考えて、マエストロは決めた。
「さっきはEの♭の音で鳴いたから……君は『フラット』だ。どうかな?」
フラットは、答えるように鳴いた。窓の外は、オルバルドの街景色に変わりつつあった。




