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7.第弐幕 カマイタチ……


 禄の町から南東に幾つかの峠や広大な森を越えると、城壁を有する活気ある町並みが広がっていく。その中心部へ歩を進めれば軒を連ねる武家屋敷が点在し、やがて国の中心たる蓬莱国府が現れる。複雑な屋敷の連なりは外敵の進行を防ぎ、初めて来訪する者には迷路に等しき外観を示している。遠く幕府と縁深い蓬莱国、陸路のみならず海路からの国交もあり、主要な公家も訪れる為に、その警護は随時厳重な布陣が敷かれていた。

 その複雑な道程を見誤る事無く、一騎の俊馬が道を往く。

 背に乗るのは不敗の将と謳われ剣豪としても誉れ高い海咬《うなが》の国司――兼任守護、牙影《きばかげ》の黎弥(れいや)。

 侍所を出てから野暮な用に捉われ、予定よりもかなり遅れての国司入りとなっていた。

 門番達は風を撒いて駆ける猛将を確認すると、重く閉ざされた大門を開き牙影を招き入れる。城入りし牙影は颯爽と下馬するや、使用人に愛馬を任せ城内へ早足で進みだす。

「海咬国司兼任守護牙影の黎弥、馳せ参じました。智羽《ともはね》の縒胤《よういん》殿、このような慌ただしい形での国府入り何卒許され――」

 開かれた襖屏風を幾枚か潜り、牙影は入間すると同時に放つ言葉の締めを、息と共に飲み込む事になる。

 上座に着くは蓬莱国司智羽だけと思っての国府入りだったのだが。

 酒宴に浸る面々が牙影の思惑を拙い方向へと流していた。

「これはこれは名高き剣聖こと知将と誉れの牙影殿。智にそぐわねぇ慌ただしい入場ですな」

「ご無沙汰ですね。彌勒《みろく》国の国司|……駈月(くがつ)殿でしたか? 征夷大将軍公御前試合以来ですか?」

 二十歳半ばだろう体躯の男は乱雑に斬られた髪もそのままに、輪王座《りんのうざ》のまま不遜な態度で酒を杯へ並々と注いでは浴びるように飲み捨てる。

「人気の無え場所で死合うなら手前《てめぇ》には負けねぇよ。世に伝う剣聖の称は、本来は俺の物だ」

「このような称号が欲しいなら何時でも差し上げますよ。もっとも肩が触れたというだけで自国の民草を斬り伏せる貴殿には、剣聖の名よりも無頼の名の方が似合うのでは?」

「喧嘩売ってんのか……手前」

「買えますか? 御代が無頼《あなた》の命じゃ釣り合わぬでしょう」

 盃を後方へ投げ捨て駈月は立ち上がり、怒気荒く牙影と鼻頭がぶつかる位置まで詰め寄った。

「――止さぬか、二人とも!」

 隣席に座した天武《てんぶ》の国司――兼任守護刻(とき)長《なが》の琵封胤《びふういん》が一喝する。

「御老体。国府入りから滞在され続けていましたか」

 牙影は双眸を光らせ睨みつける駈月を、如才な笑みで躱しながら睨む眼に吐息を吹きかけた。

「――て、てめぇ!?」

「駈月殿ッ!」 

 轟雷の如く怒喝する蓬莱国司の制しの声。賓客としての立場か、心から竦み上がったのか。駈月は舌打ち一つ、瞳を牙影に捉えたまま自席へと戻った。

「よく参られた牙影殿。堅苦しい挨拶は抜きにしよう。愛馬を酷使してまで再度国府へ赴いた用向きは理解しているつもりだ――」

 腹の出始める三十半ば、広大な蓬莱の国を幕府より一手に預かる豪族、国司の智羽。顔に滲む疲労は此度の件が原因だろうと、牙影ならずとも予想はつく。

 そんな主の様子を伺っていた使用人は、ここぞとばかりに牙影を席へ案内し酒を注ぎ始めた。

「――我が娘婿となるはずだった従六位《じゅうろくい》上左衛門大尉神依(かみより)の子息、禄殿の件ですな」

 智羽の弁舌が始まる。だが牙影はただ――拙い。と思うしか出来なくなっていた。

 全てを内々に処理するはずだったのだ。

 蓬莱国で起こった事件。ゆえに蓬莱国司智羽の許可さえ取り付けて、思うように事を推し進め禄の無罪を主張するはずだった。だが――

「早馬からの伝えでは婚儀前夜、何を思うたか気を病み一族皆殺しを働いたとの報せを受けた。詳細は……婚儀に納得できない故の所業とか……」

「それは違う! 禄殿は婚儀を切に待ち望んでいた。さらに彼は誰より両親を、奉公人たちを気に掛ける昨今稀に見る偉丈夫な男。彼《か》の地を発つ時、直接会ってきましたが、人を無下に殺める者特有の奇色等は瞳に宿してはいなかった」

 ――兎にも角にも面々が拙い。隣国合わせて四カ国もの国司らを筆頭に、既に周囲は幕府直轄の公家まで揃い踏みして鎮座している。

 本来大掛かりな事が起こる時。国司の手に余ると判断された場合は、幕府に審議が渡され隣国からの意見も取り入れられる。……だが今はどうだ、既に幕府側からの使者も座する今回の席。そして四国司の顔ぶれ。公の会談にも等しい状況が作り上げられていた。

 下手をすれば全ての発言が正式な物として扱われてしまう。

 誰がここまで手早く御膳立てしてくれたのか気にはなる――が、大よその目星はついている。

 にしても、現状のままなら無さは面白くない。

 無論、牙影にも腹に含む目論見はある。ただあくまで水面下での謀《はかりごと》を画策していたに過ぎない。行われるはずだった婚儀の為に滞在してたのだろう国司の顔ぶれも、今回の騒動で婚儀が流れれば、忙しい身の上だ早々に国へ引き上げてしまうと思っての事だった。

 だが、老体の刻長も、婚礼の日に遅れていた無頼の駈月までもが未だ滞在している。

 ここで周囲を説得出来ねば禄の未来は確実に滅っする。しかも禄の擁護に回っている以上、ここで言い負ければ自国への誹《そし》りにも繋がりかねず、引いては諸国への威光を堕っする。

「早急に紘翔へ飛んだ牙影殿は驚くやも知れぬが。先の件を耳にした時より、此度の婚儀は全て無かった事と相成ったのだ」

「なんと。聞いていませんぞ。それは早計過ぎませぬか?」

 ――知っていた。四方に放つ手先の者からの情報を使わずとも、出立前の侍所のやり取りで話が進んでいた事は熟知している。だがあえて嘘をつく。

 全ては何も知らない者として、一個人を守る者としての仮面が、純朴な仮面が必要だった。

「事の真相がはっきりするまでは、極論は避けるべきでしょう」

「両の親共々奉公人まで皆殺しにした悪畜の餓鬼と、国司の娘くっつける訳にいかねぇだろう。いいじゃねぇか破談でよ。でけぇ事件だが幕府に突き出すまでもねぇだろ」

 そう……まさにそうなって欲しかった。だからこそ貴様が邪魔なのだ、さっさと帰路に着いてろよ――と危うく口を衝いてしまいたくもなる。

「貴殿の娘ではない、意見は聞いていませんよ。将来訪れる肥え太った婿養子の夢想絵でも描きながら、ゆっくり蓬莱の美酒を味わって眠ってて下さいな」

「ッてっめぇ……」

「駈月殿ッ! しかし牙影殿、今回の件での下手人は間違いなく禄殿以外に考えられぬのですよ? 既に此度の婚儀の件より滞在してくださっている使者の方々も同意見の様子」

「牙影殿は、禄殿を我が子のように眼を掛けていましたからのぉ。此度の若人らの出会いも切っ掛けは智羽殿立ち会いの二人の演武が縁とか……」

「はぁ~ん。それで血相変えてんだ」

「智羽殿、刻《とき》迫りて早計用いるは愚策と見る――は兵法の祖、悪戯に用いませぬように。我が海咬と蓬莱は、貴殿の先々代が赴任されてからの杯を酌み交わす程の間柄。貴殿の許可さえ頂ければ助力は惜しみませぬ、こちらで真の下手人を必ず引きづり出して御覧にいれましょうぞ」

「あ、いや……しかし――」

「貴殿も禄殿を幾度も御覧になられたでしょう。民草を愛する心を備えし有望な若者。貴殿譲りの叡知《えいち》に秀で明哲《めいてつ》なる心を持つ姫君が惚れられただけあり、決して貴殿を失望させるような凡夫ではありますまい? さらに昨今の妖し《シラヌモノ》の闊歩……障り憑き介入の線は濃厚でしょう」

「――んむ。そ、それは重々承知しているのだが」

 ここまで褒め称えて尚、言い澱み頭を抱える智羽。訝しく思い牙影は覗きこむ。

「じつは……の牙影殿」

 智羽を補足したのは刻長だった。 

「貴殿が参られる前に、決を出してしまっての……。国司の顔に泥を塗るような者が近隣に知れ渡っては今後の国の発展……引いては幕府、遥か西方朝廷の御威光を汚す形に成りかねんのじゃ。昨今、海を越えた大陸から下劣不遜な使者が来訪、各国とも揉めに揉めておる。時勢が時勢ゆえ少しでも足並みを揃えねばならぬ時期じゃでの……その……」

「成程……刻長殿、この面々の揃い踏みは、やはり貴殿の差し金でしたか。ならば尚の事、率直に仰って頂きたいものです」

「つまり、いちいち審議は面倒だから侍所で鋸刑にしちまえよ。ってな。とっくに早馬を出したのよ――来るの遅えんだよ馬鹿。その糞餓鬼も、もうすぐ肉袋になっちまうってよ」

 ゲラゲラと擬音もどきに笑う駈月をよそに、牙影は激昂し席を叩く。

「愚かなッ、無罪の者を死に追いやるおつもりか! この方々の面々が国許《くにもと》で言葉を放ち、後に真の下手人が捕らえられれば蓬莱の面目は完全に潰れましょうぞ!」

「う……うむぅ……しかしのぉ……」

「それとも智羽殿は……禄殿が、お嫌いか?」

「そ、そんな事はない。あと数日で我が息子となるはずの男だった」

「ならば、ならばこそ私に蓬莱での捜索の権限をお与えください。私の手の者には探索に長けた者が巨万《ごまん》といます。必ずや真の悪鬼を捕らえて、ここに首を晒して御覧に入れましょうぞ」

「ハッ――ウゼェッ、殺せばいいじゃねぇか! 禄だか僕だか知らねぇが、貴族でもねぇ下級武士の小倅だろ!? 何なら俺が迷わねぇように首刎ねてきてやろ――」

 駈月の言葉が終るより早く、座っていたはずの牙影が駈月の背後に現れる。皆が気づいた時には、駈月の頭髪を後方へ引き落とし、天を望む眼球に箸先を突き付ける一寸手前だった。

「――――」

「少し……黙っていて頂けませぬか? 機会があればいつでも瞬時に殺して差し上げますよ。無論、無実の禄殿の事ではない――貴殿の事ですよ駈月の坊や」

 牙影の不変の微笑。その行為に嘲り笑っていた駈月の眼はかっ開き手に持つ盃が床へ落ちる。

「……く、ち、ちくしょ……う」

「牙影殿、解りました! 解りましたから。早急に差し止めの馬を飛ばし禄殿の身柄は一次、我が蓬莱国府で預かる方向で――」

 話の流れは禄を蓬莱国司に移送し更迭する――事の真偽は保留の形で終わるはずだった。

 たった一人の使いの者が智羽の元へ来るまでは、流れは数手読み通りに牙影の提起する方向へ進んでいたのだ。

「申し上げます。紘翔《こうはね》町侍所にて先の首謀者、禄が脱牢致しました――」

 牙影は沈黙した。他三国の司は呆気に取られ言葉を無くすが、すぐ駈月がその沈黙を破る。

「ハッ、沙汰なんか待ってられねぇってか? 自分から下手人と言ってるようなもんだ」

「――さらに侍所司の役、他在中する者三十と五の者。全て首を刎ねられ絶命との事。目下捜索をしておりますが、目撃者の言によれば山間より東山道へ抜け出たと推測されます」

 使いの知らせを受けた智羽が、手に持つ盃をゆっくりと下ろす。

「……………………」

「は……はは、すげぇじゃん。何そいつ、どんな妖魔か羅刹だよ……もう御処分決定だろ」

「確かに……のぉ。一族皆殺しに、侍所役並びに配下の者を手に掛けたとなると……うむぅ。牙影殿、これでは言い訳のしようがござらぬぞ。智羽殿、事は蓬莱で起こり申した。判断は貴殿が決めて下され」

 途方も無い蛮行に呆れる刻長の言葉だが、牙影は黙ったまま語らない。

「判断も糞もねぇだろ、兵出して山狩りしねぇでどうすんだよッ! その方面なら、悪いが俺の領土を通るってこった、うちの兵も出させてもらうぜ。三十五人の武士をぶった斬るとは怖れ入るわ。久しぶりに面白くなってきたぜ! 一体どんな化け物だよッ!」

 嬉々と立ち上がり、床に置かれた二対の長刀を腰に差して最後の盃とばかりに一気に呷る。

「――お待ちください。兵の運用は罷《まか》り成りませぬ」

 異を唱えたのは、今の今まで黙して語らなかった幕府からの使者。

「此度《こたび》、大陸からの書状において、帝の采配《さいはい》は都より遥か西方の柁西《だざい》へ兵を集結し、蛮族の侵攻を防ぐ方針を固められておられる。ここで兵の消耗は帝並びに幕府に対して――」

「あー、もう、うっせぇなッ! 常識考えろ宮使え! 鬼畜の餓鬼一匹退治するのに百戦錬磨の兵が消耗する訳ねぇだろ。炙り出して、ぶった斬る。それだけのこったろぅが!」

「いやいやそれは拙い。とりあえず捕えねば話にならぬだろ。使者の話では蓬莱から東山道を抜けるという。なら刻長殿の天武に向う可能性も高い。どうであろう三国の国司殿、互い兵を出して禄殿を一次捕縛というのは」

 事の顛末に青冷める智羽が穏便に諭すが、それを駈月は一蹴した。

「わりぃが承服できねぇな。俺の兵が見つけたら……んな危ねぇ餓鬼は早々に殺《やら》せてもらうぜ」

「駈月殿!?」

「蓬莱の美姫を貰う野郎がどれだけの器か興味はあったが、まさか羅刹のような餓鬼じゃあ、油断出来ねぇんだよ。噂の美姫は美姫で一度も姿現さねぇし蹴った糞悪(わり)ぃ。俺は一度彌勒へ戻って、精鋭の兵五千を東山道は天武の蓮間砦辺りに集結させてもらう」

「――馬鹿な、人一人の山狩りに兵五千ですと!?」

「智羽殿。駈月殿ではないが使者の手前、仕損じれば諸国に対する各々の国の対面に関わる。東山道は我が天武の主要道。そこを跋扈するのであれば……我が国も穏便と言う訳には参りませぬ……同じく兵五千で弥勒勢と足並みを揃えさせて頂く。幕府に奉じる書簡は――蓬莱からの激によりて応じる……でよろしいな?」

「刻長殿まで……」 

 駈月は動かない牙影に一瞥をくれると、供の者と早々に退出し愛馬に跨り国府より走り去って行く。遅れて刻長も牙影の肩を叩き、足早に蓬莱を去って行ったのだった。

「牙影殿……すまぬ。貴殿の気持ちは解るが、蓬莱も探索の兵七千五百を向かわせる。無論、禄殿を捕縛する為……間違っても斬り伏せてはならぬのだ」

「助かります。私も一度|、国許(くにもと)へ戻り兵七千五百を出し彼の所在を把握します。何としても先手を打ち、先の二人に殺害させる訳には参りませぬ。見つけ次第、縛の上こちらで匿わせて頂きましょう。幕府使者の方々も、兵の消耗を抑える策として、それで構いませぬな?」

 無論、意が出る訳もない。一同の頷く姿に牙影は真摯な笑みを浮かべる。

 それぞれに一礼すると、ある程度の収穫に満足とし、牙影は場内を後に歩き出した。

 状況は最悪だが、あの二人を出し抜くなど容易い。配下の者は既に禄の動向を捉えているはず。捕まえようと思えば捕まえられるだろう。先の会見では天武天武と連呼されたが、禄とてわざわざ天武へ行く理由などは皆無なのだ。師弟にも等しい間柄、突然広大な世に出され身寄りの無い体を休める安息の地は考えるまでも無い。籠の鳥が身を寄せる場所は……籠の中。

 ならば自《おの》ずと海咬へ来るだろう事は想像に容易《たやす》い。

 そこからの手筈は決まっている、雄大に構えて最大の持て成しをしてやればいい。

 それこそ……海咬から出るのを嫌がる程に……だ。

 牙影は長い舌を伸ばして口元を一気に拭い去った。

 そして途中の廊下で美しく造成された庭園を眺め、ゆっくり引渡しに抗う手筈を考える。

 そんな折だった。ふいに、牙影は裾を掴まれ振り返った。

「あ、あの……牙影様」

 牙影の前に現れた少女は、年の頃十代前半に入ったばかりだろう幼い容姿の姫君。

 長く艶やかな黒髪は夜空の如く美しい印象を与え、幾重にも重ね着た桃色の十二単から漂う百歩香《ひゃくぶこう》の穏やかな香りと印象が、幼さを際立たせているようにも見受けられる。同様に可憐な印象を与える薄桃色の唇に、眉根からの鼻梁の柔らかさが少女をこの齢で美姫と謳われる所以だろうと牙影は思うのだ。

 ――ただ、その子栗鼠のように動く可愛らしい眼差しは薄紅の朱に染まり、儚くも美顔を崩させてしまっている。……概ね、禄との婚儀破談の件で今の今まで泣き伏せていたのだろう。

「御無沙汰しております。智羽の琉璃《るり》姫」

「教えてくださらぬか牙影様。禄様の身に何があったのじゃ? 突然父上より破談が申し渡され、幾ら尋ねてもあの方の事を一切として語ろうとはして下さらぬ」

 智羽が大事な娘に『婿は一族皆殺しを起こした――』等とは言えなかった事くらいは想像するまでもない。娘はあくまで清廉潔白なのだと周囲に印象付ける為にも、これ以上の関わりを避けているのだろう。

「妾《わらわ》は、つい先日まで禄殿との婚儀を嬉しくも待ちわびていたというのに、脈絡も無く一方的に話を無くされてしまった。何故、このような事になったのか……」

 ここで全て話して聞かせても構わないが、これから禄の為にも手を組まねばならぬ智羽に印象を悪くする事だけは冗談でも避けねばならぬ。

「姫、私にも詳しいことは解りかねます。ですが聞き及ぶところ……行方知れずとか」

「ゆ、行方知れず!?」

 思いがけない言葉に腰が砕けたか、姫は倒れそうになり牙影が咄嗟に支えて床へ座らせる。

 なるほど、正直に一件を伝えれば、下手をすれば心の臓も止まりかねない。智羽の心遣いが、娘の体面への上辺だけの物ではない事が窺い知れる。

「私は事の真偽を見定める為にも、これより海咬に戻り探索熟練の者を出してみます。何か解ればお父上から伝わるでしょう。大丈夫、姫は事の成り行きを安心して見守り下さいませ」

「そ、そうであれば、どうか、どうか禄殿を宜しくお願い致す。お会いする事があれば、妾は信じている……只々待っていると、それだけはお伝えくだされ」

 姫付きの女中に姫の身を任せると、秀麗な相貌を居並ぶ女中に振りまいて国府を後にした。

 纏わりついた娘の甘ったるい香を、乱雑に払うと顰めた顔を衣と共に無理に正す。

「大空を駆る鳥は見目麗しいが……籠しか知らぬ雌鳥というのは斯《か》くも醜女《しこめ》と化すものか。ならば禄どの……そなたは籠から出でて、大空より如何様に転じなさる……」

 街道を馬でゆっくり進むと、町人姿の者が牙影へ近づく。

「見つかったか?」

「はっ。牢破り後、禄と連れの奉公人は山沿いに東山道方面を進んでおります。ただ、向かう先は海咬《うなが》ではなく、やはり杞憂されていた天武方面に落ちるかと」

「む……。何かの間違いかと思っていたが、どういう事だ。向こうの間者と同じ内容とは、これでは手筈と違うではないか……しかも奉公人と……」

「何か目的があるのか……何処かに拠り所を得ているのか……」

「馬鹿な、蓬莱の国境《くにさかい》さえ越えた事の無い男だぞ。……兎にも角にも拙い、人を増やし決して目を離すな。我が兵よりも先に彌勒と天武の山狩りにでも遭えば命は無いぞ――」

 町人姿の間者が馬より離れると、牙影は長い舌でもう一度口元を拭い愛馬に鞭を入れ一路領土の海咬を目指す。

「禄よ……何を考えている。みすみす死地へ赴く気か……」

 風を切って進む愛馬の速さも逸る心の前には遅々として進まぬものかと、牙影は重い溜息と共に馬上から、眼差しを禄が歩むだろう遥か天武の峰々へと流していく。

 こうして禄の山狩りに総勢二万五千の兵が投入される事になるのだった。

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