6
薄紫に輝く視界。明け方近くだろうか。
目を覚ましてすぐ禄の腹の虫が鳴った。
腹の減り具合からじゃ、どれだけ刻限が過ぎたのかさえ解らない。疲労で覚束ない思考を回してみても、未だ混濁する頭は良い案を巡らせない。
そんな折、何か物音が聞こえた気がした。何事かと耳を澄ましても気配は無く、気のせいだろうと寝直しの寝返りでドサリ、米俵でも落としたような音を聞いて頭は完全に冴えてしまう。 未だ未明、空は暗い。
通路へ続く蝋燭の明かりだけが頼りだが、風に揺れて気味が悪い。
ドサリ――詰め所の奥から再び物音。
何者かの影がよぎり、ついで影の主が金属の重なる音を鳴らして、迷わずこちらへ向かってくる。牢の奥へと下がるも身を隠せそうな場所などありはしない。無論武器になりそうな物も無く。喉の渇きを潤そうと唾を飲み込めば自然と拳が握られる。
何故か揺れる格子の外に影が伸び、それは姿を現した。
虚無僧だ。
「あんたが持ってきた、その大太刀以来……俺は地獄の底を歩いてるようだよ」
壁に寄りかかり吐き捨てるように言ってやる。
投獄当初なら間違いなく格子ごと食って掛かっている。だが格子が頑丈なのは蹴り過ぎた足が痛みを覚えて、もう馬鹿な真似は止めてくれと訴えていた。
「こんな未明に、仮にもこの地で名に響く紘翔町の侍所へ入ってくるなんざ、あんたまともな奴じゃねぇな。何者だよ……」
解ってはいたが問いには答えない。僧が格子の扉に触れると、蝶番は音も無く外れ、それは音も無く開いていく。何故鍵がと思う間もない、僧は言い放つ。
『出ろ……殺されるぞ……』
「何言ってる、俺は無実だ。もうすぐ解き放たれるだろうに牢破りをしろってのか」
僧は懐から一枚の紙切れを出し足元へ投げ寄こした。
警戒しながら拾い上げると、そこには略筆ながらも自身の人相書きと簡単な説明文。
『此の者、親殺し並びに一族皆殺しの罪故、鋸挽きの刑に処す』
日付は……明日の昼だった。
『近隣の村々に札は立った』
「ふざ、ふざけるなッ! 俺は無実だ。何もしてないのに何で――」
牢を飛び出し掴み掛かるが、逆に大太刀を投げ付けられた。
咄嗟に片手で受け止めるが、やはり質量などは感じず軽がると掌に収まってしまう。
『お前の刀だ肌身離さず持ち歩け。これを無くせばお前の命も無いものと思えよ』
返す言葉の暇も与えず僧は出口へと駆け出した。
追い掛けた先で、その異様な光景に息を呑む。
血の池だったのだ。
土壁、板間、飛び狂い浴びせた血痕の飛沫。罪状の紙が辺りに散らばり、四人の牢番が首を刎ねられ骸と化して転がっている。夥しい死体の数に混じって侍所司役の死体を見る。
「間違いない。あいつはこの侍所の全てを屠っている。しかも屋敷で行われた惨劇の模倣のように」
だからこそ禄は追う。
僧は加速し、疾風の如く侍所の門を飛び出し塀越しに曲がる。
見失うものか、と飛び出し角を曲がれば、ガツンと目の前に火花が散った。
「――みッぎぃゃぁぁぁ――――っ、ぁっ!?」
視界に閃光が無数に走るが、今の悲鳴は禄じゃない。何かがぶつかり誰かが横転したのだ。 顔面で大地を擦り、すっ飛ばされていく。
その後姿の村娘を一目見て気がついた――その娘は、奉公人の絹だったのだ。
「――き、絹! どうして!? 何で、生きて、よかった」
絹が憤怒な表情で振り向くが、禄を見て砂埃に塗れた顔を破顔一笑。禄の胸へと飛び込んできた。
「禄様! よかった、皆様や旦那様が殺されて」
「解ってる、知ってるよ。だけど絹こそよく無事で、本当に――って、絹、俺逃げなきゃ!?」
絹が生きていた。嬉しくて瞳は涙で隠せないが、背中をせっつくのは鋸挽き刑。握った紙切れを絹に見せようとして、いつの間にか紛失。悪態をつく。
「くそッ。兎に角、明日の昼に俺は刑にされる。俺が殺したんじゃないのにッ!」
「解っています。それでも噂は周辺を駆け巡ってしまいました、せめて身を隠さないと」
「俺じゃない、俺がやったんじゃないんだぞ!?」
「禄様! いまは冷静に、落ち着いて!」
「そうだ……。茜、茜なら俺の無実を信じてくれるはずだッ!」
弾かれるように駆け出すのだが。ふいと伸ばされた色白の足に、足を掛けられ頭から横転した。
「何処へ行くつもりですか!?」
「いったぁ……。あ、茜に無実を……」
「馬鹿ですか貴方は!? 茜様まで巻き込んでどうすんですか、今は一刻も早く国を捨て遠方の地へ逃げて下さい!」
「逃げるって言っても……俺、旅なんかした事もないのに。どうすれば……」
禄は蓬莱国から一度も出た事がない。せいぜいが離れた国司の居城のみで、家では奉公人任せで自炊や生活の手段さえ知らない。逃げろと言われて旅立てるほど世慣れをしていないのだ。
未だ暗い東の空を、見据える絹は、〝蓬莱″を押し付け腕を引っ張り走り出す。
「走って! まずは身を隠すのが先決、絹も手伝うから!」
絹の言葉と導きに頷き、未明の町を駆け抜け静寂包まれる紘翔村へ入る。
「でもどこに、どこへ? 家にも帰れない。茜の元へも行けない。行く宛なんか俺にはない」
「……兎に角、落ち着いて下さい……」
「そうだ……。そうだよ!? 牙影様の国に逃げ込もうか!」
自分よりも年下のはずの、自称が付く姉の絹。年差があるとは思えないが凛とした姿勢に、知らず泣き言めいた言葉を発してしまう。
「――落ち着いてッ!」
肩を掴まれ足を止める。
「しっかりして! あの連中は他国の者、此度の件が耳に入ればどう掌を返すか解らないんですよ!? 絹に伝があるから、天武に在る絹の母方の親戚なら匿ってくれるはず」
そのまま絹は視線を下げ、未だ羽織る血塗れの寝着に視線を送る。
「絹が屋敷へ戻り旅支度を整えるから、禄様は林の中で待ってて」
言い残し、村外れは畑の脇にある林の中に押し入れると、絹は「言い過ぎました……」と、小さく呟き、そのまま脇目も振らず来た道を戻っていく。
初めて素の絹を、気丈な一人の女性の姿を見た。
そして、安堵する。再会の件もそうだが何よりあれだけの惨劇の中で二人生き残れた事は本当に嬉しかった。今でも瞳を閉じれば、血溜りの中に沈む惨たらしい世界は脳裏に焼きついて離れない。
あの中で互い生き残れた事は僥倖だが。
それでも絹の生存は本当に嬉しくて……。
嬉しいはずなのに……。
なのに……ふいに過ぎる小さな危惧。
――どうやって?
刻が止まったような感覚が体に纏わり付いてくる。それを、脳裏から無理やり追い払う。 「馬鹿馬鹿しい。妄想に憑かれるより現状だ」
もうすぐ夜明け。誰かが起きだして血塗れの姿を見られたらと不安が収まらない。
ただ、当分は追ってもないだろう。……何といっても追う側が既に全滅しているのだから。
「――禄様、お待たせ致しました」
どれだけ考え込んでいたのか、突然背後から声を掛けられ心の臓が跳ね上がった。
「き、絹姉か。後ろからはよしてくれッ!?」
「も、申し訳ありません。色々お持ちしました着替えてくださいまし」
村人に良く見る土色の直垂に着替え、血塗れの寝着を茂みに隠す。そのまま旅道具の入った風呂敷を背負い込むと二人で走り出した。
「出会った時、侍所から、例の坊さん出てきたろ?」
息も絶え絶えながらも、聞かずにはいられない。
「え? あの時は、どうやって忍び込もうかって考えて――あぁ!? そうです!」
「な、何!?」
「体当たり!? 禄様、体当たりして来た! 凄い痛かったんですよ! 嫁入り前の大事な顔が地面に直撃です! 何考えてるんですか馬鹿! 全然貰い手ないのに傷でもついたら更に敷居が高くなるって解らないんですかッ!?」
そっちかよ――と思うが、頬を膨らませ絹は走りながら器用に横を向く。
「そ、それでな、あいつは侍所の連中を殺したんだ。たぶん皆を殺したのもあの僧だ」
「本当に痛かった……後ろからですよ、首から音が鳴りました。そのまま顔から地面です。飛び出てた岩先に頭のてっぺんゴツンですよ! 非道い、あんまりだ……鬼畜もの」
「そういえば絹は、何故あの場所に?」
放った言葉に絹は口角へし曲げ、すぐさめざめと涙を流した。
「ええ、そうですね、そうですとも。禄様はいつだってそういうお方です。良いですよ、話しますとも。簡単に伝えますと、私は禄様の死罪の札を見て潔白の嘆願に来ていました。ですが相手にもされないもので昨日の夜からあの場所で……」
「あんな夜道にずっといたのか! なんて無茶を!?」
「心配だったんです! あの夜、厠の帰りに、皆を襲う僧を見て、私はすぐ蔵の裏に隠れて、でも怖くて気を失って、その事を伝えに来たのですが相手にされなくて。このままでは禄様が本当に……死罪になってしまうから……」
その言葉で、少し心の靄みたいな物が霧散した気がした。てっきり絹が皆を、等と少し馬鹿な事を考えていたからだ。一瞬でも疑いを持った自分を恥じる、と同時に腰後ろに下げた忌々しい大太刀を触れる。こいつを手にしてから、何か不穏な気配が漂ってる気がしてならないのだ。それこそ、あの闇の靄が周囲に蔓延り漂うように……。
やがて、街道を離れ木々が並ぶ高台で眼下を望み、禄の足は止まっていた。
「禄様! 立ち止まらないで、誰かに見られます」
広がる景観の至る所に森があり、一つの町があり、小さな村がある。
そして……桜も芽吹く美しい森に囲まれた神社が一つ。神子を宿した姫神の伝承を奉る社に、そこに惚れた娘が確かにいる。
一族皆殺し、牢破り、さらに侍所皆殺しも冤罪となって擦り付けられるだろう。
もう二度とこの地に立つことは出来やしない。
ただ、村や町の者にじゃない。茜にだけは信じて欲しかった。
全ては無実だと。
朝焼けに浮かぶ社は無垢な乙女のように美しく。陽光に照らされ小鳥らが一勢に飛び上がる。
「もう、起きてるかな……。俺じゃない。俺はこんな事出来るような男じゃない……解ってくれるよな茜。必ず、必ず身の潔白を証明して……俺は――」
「禄様! 禄様は絹の命に代えてもお守り致します。だから一刻も早くこの地を離れて! 大掛かりな追っ手が参ります。冤罪のまま屠られては疑いを晴らす事も出来かねます。どうか、どうか今だけは辛抱して下さい!」
必死に叫び踏み止まらせてくれる絹の手を握り、歪む視界のまま下唇を噛み締め踵を返す。 鉄臭広がる口腔のまま、二人朝靄の中を国境目指して駆け出した。
――帰ってやる……茜、必ず帰るからな! 信じて待っててくれ!
酷い後悔の念が胸を締める。
――何故、こうなった……? 何故惨劇があって、何故止められなかったのだろう。
尽きぬ疑問と後悔の念は、悲しみのままに下唇を噛みしめさせる。愛しい人に何も残せず、想いに後ろ髪を引かれながら、禄は絹と二人で朝靄の残る林道を駆け出していくのだった。




