5
――その夜、就寝中の禄は突然目が覚めた。
頭上に置いた布巻きの大太刀から唾鳴りが聞こえた気がしたのだ。
小さな寒気が背筋を伝い、とりあえず燈明皿に明かりを灯そうと体を起こして手を伸ばす。
ただ、掌にぬるっと感触が走り顔から板間に轟沈した。
悪態一つ。戸惑いながら立ち上がれば、ぬめる感触が足裏に纏わり付く。
「何だ、これ。しかももう朝……か?」
障子の向こうが薄っすらと明るくなっている。
よろけながら障子まで辿り着き、一気に開く。と、月明かりが縁側に反射していただけだった。しかし板間の反射にしては余りに鮮やか。目を細めて覗きこめば黒い液体が満ちている。
しかも粘つく感触と鼻腔を衝く異臭は――鉄?
「――いや、違う。……血溜まり……だ……」
床に何かを引き摺ったような夥しい血痕が縁側の先から自室へと伸びてくる。
咄嗟に振り返り覗き込めば、「冗談だろ……」寝ていた寝床は赤に染まり、頭上へ置いた布巻きの大太刀が血まみれで転がっていたのだ。
震える体に鞭を打ち、血の床を飛び越え廊下を走る。
漂う異臭と、明確になる異変。軽い耳鳴りを覚える中で、やもすれば気を断ちそうな現実が臓腑へ妙な熱を帯びさせた。
縁側を越え角を曲がれば――そこは既に別世界だった。
夜明け前には動き出す奉公人達が片っ端から倒れているのだ。
よぎる焦燥が拍車を掛け、「ち……父上、母上ッ!」生き地獄と化した屋内へ絶叫、一縷の望みを託して寝所へ向かう。
襖も裂かれ砕ける屋敷内。乱雑に投げ出された死体を飛び越え、今にも失いそうな気を保って見た物は、
「――――――――――――」
両親だった物の存在だ。四肢の戦慄きが激しすぎて、全身が引き攣るまま、まるで瘧 慄のように胸元から全身へ痙攣を起こす。
「ぎッ、ぐッ――だ、誰かッ、誰かァァァァ――――――――ッ!!」
程なく上げる悲鳴、それが何かに重なり無音の屋敷を突き抜け木霊する。
その木霊に、さらに別種の悲鳴。
門外から悲鳴が聞こえたのだ。
手に、衣服にこびり付いた返り血を厭わず慌てて走り出す。生存者、誰かがそこにいる。それを信じて走り抜け、門前で盥籠を横倒しに腰を抜かす通いの漁夫の青褪めた様相を発見した。
「――ひぃぃぃぃ、人殺しぃ!」
「ち、ちがう! 俺じゃないッ!?」
咄嗟に手を差し出すが、その手は血塗れ、更なる絶叫を上げられ転げながら走り去っていく。それを追いかけるも転がった魚を踏みつけ横転。舞い上がる砂埃が口腔に飛び込んで、視界が滲み始めている事にようやく気がつく。
「誰か、誰か…………生きて……いないのか」
雀の鳴き声すらない屋敷に鉄臭が充満している。
――冗談じゃねぇ……六道冥府の世界に迷い込んでんじゃねぇーんだぞ。どうなってる、何がどうなった。
自問して答えが出る訳じゃないが、何かを考えなければ気が狂う。
いや、もう狂っているのかもしれない。いつから現れたのか押し寄せる人波。
それが認識を始めた頃、血溜りの中にいる禄は捕縛されていた。
「何だ、どうなって、何が、一体誰が、どうしてこんな……」
定まらない視界で言葉を発っするが、両脇を抱えられ荒縄で体が縛られていく。
ふいっと思う両親の骸。そこで意識が急速に戻り――
「父上ッ――! 母上ッ! みんなッ!」
ゴツン――という音と遅れた鈍痛が頭部を走り、ゆっくり世界を暗転させる。
最後に見たのは、昇り始めた朝日に照らされた血身泥の屋敷。ふと思うのは、見慣れた少女の存在。「き……絹」その名前だけを抱いて、禄は押し寄せる闇に呑まれ沈黙した。
――微睡みの世界から、重い頭が現実へ戻ってくる。
気づけば侍所の一角、木造りの牢獄の中にいた。
禄が痛む後頭部と鮮明に戻る意識で見やれば手に血がこびりついていた。やけに気になって必死に削ごうとするが、いくら擦っても取れやしない。
「何故……誰が……。みんなは……何で」
格子窓から覗く空が薄く明るい。確か気を失うとき明け方だった。
すぐ目覚めた? いや、それはないだろう……ならば丸一日眠っていたのだろうか。
いや、それより、死んでいた家族や奉公人の事だ。そしてあそこに絹は。
「死んでないよな……絹。認めねぇからな、俺は」
せめて認めなければ。と、口に出さずにはいられなかったのだが。
そんな折だ。
「――何も貴方様ほどの御仁が御覧にならなくても」
「なぁに、蓬莱国司の御息女との祝言を潰してまで一族皆殺しにした悪鬼。一見の価値はありましょう? そもそも、その祝言の為に遠路訪れたというのに、このような事になるとは。あ、私一人で結構。人払いをお願い致しますよ」
頭を上げれば木格子の外で長身体躯の男が見つめていた。
「き……牙影様!」
飛びつき格子越しに手を差し出せば、牙影はその手を躊躇無く握ってくれる。
「禄殿、何故このような事を。父上や母上並びに奉公人まで皆殺しとか、正気の沙汰ではない」
「違うっ、俺は何もしてません! 牙影様、目が覚めたら皆が殺されていたんです!」
「ならば何故はっきり言われなかった。禄殿を信じたいが……血塗れの太刀と返り血の寝着。疑わしい事この上なく、言い逃れが出来る状況にはなってないぞ!」
「それでも俺はやってない!? 誰かが、誰かが俺を嵌めたとしか――」
その言葉に牙影は突然笑みを浮かべ、片目を瞑って小声で囁いてきた。
「大丈夫、私は禄殿を信じています。外で門番が聞いてるのです。事が事、しかも禄殿は既に一侍ではない。表向きはこういう話にしておかないと後々助け難いのですよ」
「牙……影様?」
「これから蓬莱国は国司智羽の縒胤殿の元へ直接赴き、禄殿が此度の首謀者と成りえない旨を潔白として伝えてきましょう。何、我が愛馬の俊足なら国司までは明朝には着きます。心配なさらなくとも無事放免となりますよ」
「あ、有難う御座います牙影様……」
青みを帯びた美しい瞳で頷くと、踵を返した公家は背を向けた。
「あ、確認しますが。件の折り禄殿の身には何も奇怪な事はなかったのですよね?」
何の事か判らず、「え?」っと間抜けな答えを返す。
その言葉に何か思う節があるのか頷くと、「しばし辛抱を。必ず出して差し上げます」と言い残し、柔らかな銀髪を風に遊ばせ牙影は去っていった。
「……あの不気味な太刀が来てから、一切合財悪夢を見ているようだ」
格子を蹴飛ばし座り込む。脳裏に張り付く惨劇を思い返せば自然と胃液が熱くなる。
誰が、何の為に……それだけが解らない。
牢屋の格子窓から温かな光が差し込む頃。騒がしい騒めきが聞こえてくる。武家の屋敷が一つ血の海に消えたのだ、噂好きな連中が集まり野次でも飛ばしているのだろう。
「――お取調べだ、出ろ!」
突然蝶番が外され、慌ただしく入り込んできた数人の牢番に引っ立てられる。
背中越しに両の腕が縄で巻かれ、|侍所司の役にある男の前へ引き出された。
「いってッ!? なんて扱いしやがんだ!」
強制的に座せられる横暴な扱いに喰って掛かれば、二人の役人が後頭部に長棒を打ち下ろしてくる。呻きも間々ならぬまま禄は土下座で押さえ込まれた。
怒気荒く首を押し上げ司役の男を睨むが、目の前に現れたのは異様な風貌。その姿に背筋が凍り付く。武士特有の質素な直垂を纏っているが、覗く四肢は余りに細い。
感情や精気の欠片さえ感じさせない瞳孔は、あの街で憑かれた侍と同じ、闇を抱く眼窩が虚空を睨んでいた。さらに、奇妙な事がある……。
「な……なんだ……それは?」
司役の体躯から、場の全てを喰らうような黒い靄が漂っているのだ。それはすぐに周囲を埋め天空からの陽光を遮り、場内に異様な気を放って嫌悪と恐怖を否応なく浴びせてきた。
『……親、親殺しが……如何程の大罪か、武家の者……判らぬ訳ではあるまいな』
「な、何?……いま何て言ったんだ?」
突然の、ぶれる言葉。
動かない唇。棒読みにも等しい感情無き声で罪状を読み上げられた。
『両親だけに非ず居合わせた奉公人の皆殺しの件、既に守護役にも伝わっておる。鬼畜の所業とは……正にこの事よ』
「ふざけんなッ!? 何言ってやがる俺が殺す訳ないだろッ!」
『黙れ! 黙れ黙れ……黙れ……。調べは付いている。貴様の寝所より見つかった大太刀に夥しい血糊が付着しておるのが何よりの証拠。さらに、牢番の話では来訪された海咬国の国守様に己の殺戮手法を喜々として伝えたとか』
「馬鹿な、そんな事、口が裂けたって言うものか!?」
『自慢はしなかったと……なるほどの、証拠になるからの……』
「――違う! 牙影様、牙影様は俺の無実の証に、直接蓬莱国司の元へ赴いて陳情――」
『それを誰が信じる罪人禄よ。少なくとも海咬の国司兼任守護|牙影殿から蓬莱国の報は受けていない』
「今朝旅立ったんだぞ、当たり前だろッ!?」
その叫びに、司役は感情無き相貌にようやく嘲弄という感情を浮かべ指を鳴らす。すると奥の襖が開き数人の男が現れ、あの黒塗り鞘に収められた大太刀を運んできた。
しかも司役の直前で、刀は床板が抜ける程の轟音出して横たわる。
羽根のように軽い大太刀は、姿そのままに凄まじい重量を誇り床へと沈み込んだのだ。
『このような重き刀を使うとは、まさに妖術の類か。これは既に血糊で鞘と刀が固……抜刀も出来ないが、これが何よりの証……』
「抜く? 違う! 止め具があるだろ、そこに触ればすぐに刀が抜けるはずだ」
刀身に血糊がない事だけを願い、重い頭で必死に叫ぶが、やがて侍たちは頭を振った。
『ここまで固まっては……見る事も……叶わぬ。これ以……調べも必要無いであろう。貴様の罪状……吟味……沙汰……牢の中へ入れ……』
抑揚のない掠れる声は既にもう聞き取れない。
このままじゃ、本当に殺される――だが逃げようにも、髪まで掴まれ引っ張り上げられた。
「畜生、何でこんな目にッ! あ、あんた、あの男を見て何とも……」
無理やり引き摺る牢番へ、司役の異常を訴えようと言葉を張り上げるが、言葉は続かない。
視線の先にいる、捕縛する役人からも黒霧が漏れ出していたからだ。
闇を孕む眼が視線を捕える。人が持ち得ない闇の眼球、そこに禄の姿は映っていない。
竦む体に鞭を打ち、異形の瞳を覗きこめば奥底に赤い不気味な光が窺い知れた。
「ど、どうなってやがる。……何なんだ……あんたら一体、何なんだ!?」
震えが鼓動を極度に跳ね上げ形振り構わず暴れていた。
力限りに叫び続けるが、やがて後頭部へ振動と熱が走り抜ける。
再び棍棒で叩かれたと理解したのは少し後、瞳が次に光を見る時だった。




