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その後、庭にある池のほとりで、禄は抜刀からの連撃をただひたすら修練をしていた。
静寂に身を任せれば胸中が騒めいて仕方がない。安穏とした日常は色を失い、走り回る奉公人らの慌しさが迫る祝言を改めて思い知らせてくる。
「本当に顔も名前も知らない女と夫婦になって生涯暮らすのかよ……」
焦燥や嫌悪に似た感情が酷く重く圧し掛かり、今にも逃走しそうな心を落ち着かせようと、腰の刀を動かさずにはいられなかった。
婚礼が決まった折に届けられた、国名を冠する〝蓬莱″と銘打たれた名刀を、そっくり送り返してやろうと思った事など幾度もある。あるが、もしそれを実際に行えば体面に泥を塗られたと、お家の取り潰しどころか難癖つけられ一族郎党晒し首……いや、下手をすれば町も、茜のいる隣村も一切合財軒並み消滅するかもしれない。
「権力様の前には個人の意思など無力也……か」
それでも名刀の所以か、鍔鳴りから鞘走りに続き斬空の音色は大気を断つ如く美しい。届けに来た使いの話では俺の為に姫君が名匠を呼び寄せ作らせたと伝え聴く。先方の好意が本気と判る。それを思うと腹が立つ。せめて体が二つあればと嘆かずには入られない。
美しい太刀筋が――乱れた。
「あれ……、今なんて考えた?」
更に繰り出すが、ついに刀は虚空で止まる。
「……もしも、もしもだぞ……仮にも守護役の娘だ。茜よりも器量良しだったとしたら? 確か、牙影様も守護役の娘は美しく可愛らしいと……」
噂では二つほど年下とか。世辞ではなく、真に見目麗しい姫君だったとしたら……。
「――ば、馬鹿な。お、俺には茜がいる、茜より良い女なんて――」
上段からの構えに移行。裂帛の気合で一刀を、と思うが刀は振り切られない。
いる訳……ないよな。と、意思とは裏腹に剣先は地面へと堕ちていく。
「な、何言ってんだ、馬鹿馬鹿しい! ほんと馬鹿馬鹿しい」
裏返り上擦った声で自問自答に結! を、付けはしたが……心のどこかで迷いが生まれ、誰かが耳元で甘い声を囁いた気がしてならないのだ。
「確か守護役様の一族は元々都の出身。さらに奥方様は都からの華麗な女性だとか……」
「――マジっすか!? くそ、どれ程の器量だ……想像つかないよ」
――そんなのに惚れられて、大丈夫か俺!?
こういう手前は、対面したら常軌を逸する醜悪なのが出てくる場合が多いのだ。
「あぁ、でもでも可愛かったら? 本当に可愛かったらどうすんのよ? そんな人が俺を好いたと身分を嵩に掛けず言ってきたんだぞ。ありえないだろ……曲がり間違って涙眼で迫られたら俺耐えられるのか? わざわざ身分が低い俺を見初めたって事は身分も格式も拘らない性格も天女もかくやな良い子なんじゃないのか」
ついに名刀を大地に投げ飛ばして庭石へ飛び移る。が、踏み外して頭から倒れた。
それでも自分の体を抱きしめ庭を情動に任せて幾度も転がる。
広い庭の端から端をこれでもかと転がり続け――
「……………………」
「いつからよ?」
「だいぶ……前から……」
手入れの行き届いた古桜の裏。はらはらと舞う花びらを背負って、奉公人の絹が儚げな笑顔で見下ろしていた。
「あ、朝風も暖かくなって参りましたから……こういう日もありましょう」
「まて、止めてくれ。その可哀相な人を労わる眼差しは――」
取り繕う笑みで近づけば、絹は同じ数だけ下がっていく。
「何故逃げる……。わ、解ってくれたんだろッ!?」
「持ちの論です! 全て理解完了です、ゆえに禄様の痴情は私の心の一番奥深く大切な葛篭箱に納めておきます。はい、封印! ですが、ですが敢えて言わせて頂けるなら、お願いだから、春だけは武器もたないでッ!」
「持たないでッ!――じゃねーよッ! 全然理解してねぇじゃんか!?」
「だって怖い――じゃなくて。危ないんだもん! 茜様も姫様も、よくこんなのを……」
よよと震える口元で、袖を噛み締め滂沱の如く涙を流す。
「こんなのって言うな! そもそもお前いつから見てたんだよ!?」
はたと泣き止む絹は小首を傾げ、
「えっとぉ、茜よりも器量良しだったら――辺りからしっかりと」
「最初っからじゃないか!?」
「持ちの論です! こんな面白い――じゃない、滑稽、でもなくて一大事! しっかり見ない訳に参りませぬ。正直、物の怪の類に取り憑かれたかと思いまして怖かったです!」
「憑かれてねーし、少しの気の迷いがあっただけだし!?」
「そうだよね。禄様には想い人があるのに、まさか別の《・》女を思って悶絶したりしないよね?」
言葉に詰まる……。向けられた視線の先はジト睨み、思わず反射的に逸らしてしまう。
「不潔……」
「不潔じゃないやい。それで、何か俺に用事でもあったんじゃないの?」
話を変えたらあっ、と呻く絹が血相を変える。
「そうでした。門の外で怪しいお武家様が立っていまして、何か御用かと伺っても何も言われないので気味悪く、一応禄様のお耳に入れておこうかと」
「はて。誰か客人が来るなんて聞いてないが……ま、いっか……」
どうせこれ以上ここにいても窮地になるばかり。刀を納めて門へ向かう。
「き、気をつけてくださいましね」
お絹の言葉に振り向かず、禄は手だけ返して走り出した。
――門扉の外、小道を挟んだ向かいの屋敷。瓦を冠した漆喰塗りの外壁に、そいつは凭れ掛かるように立っていた。
「武家じゃねぇな……どこぞの坊さまか? いや、確かそのなりは虚無僧か?」
書物でしか見たことのない黒塗りの衣に古ぼけた編み笠姿。不釣合いな鞘を腰に携え、腕に抱く赤褐色の錫杖が異様な存在を誇示している。
その漂う気配は余りに異質で僧と言うより野武士に近い。さらに目を惹くのがその脇、巨大な長筒が白布に巻かれ立て掛けられている。
正直、守護役の使いから何か来たのかと勘繰ったので少し拍子抜けだ。
「坊様、うちで不幸事は起きてないぞ。家を間違えてないかい?」
置物のように不動の僧だったが、静かに体が揺れて――霞む。
残像残す尋常ならない体捌き、烟る輪郭に現実感が掴めず泡を食う。瞬き程も無かった。虚無僧は目鼻先一寸で制止。「……禄……だな」故意に潰したような錆びれた声。
殺意があれば殺されていた……微かに震える体を、無理やり押し殺す。
「ああ……俺が、禄だ。でも名前くらい名乗れよ」
「お前に、これを届けるように頼まれた」
壁に立て掛けてあった包み棒、それを投げてよこす。
「――此度より、其れの所有者はヌシとなる――」
余りに巨大な長物。受け取る腕に力込めるも、「――軽ッ、なんだッ!?」触れたそれは鳥の羽毛ほども感じられず、危うくのめって投げ飛ばしそうになった。
意識が外れたのを危ぶみ視線を戻すが、眼前から僧が消失。咄嗟に辺りを見回すも形姿は無く、小鳥の囀りと少し離れた町の往来から楽しげな賑わいが届くだけだった。
狐狸にでも化かされたかと思えたが、手に収まる包みが全てを物語っている。
半ば呆然としながら棒を携え、頭を掻きつつ屋敷へ戻る。と絹が走り寄ってきた。
「禄さま、だ、大事なかったですか?」
「え? ああ。あれは海の向こう、大陸にいるという虚無僧とか托鉢坊主の類だと思うよ。俺も書物の図を見た程度だから詳しくは知らないけど」
「異様な姿でございましたね……。あ、それを頂いたのですか?」
「祝言の祝いじゃないか……開けてみるか」
思わずいそいそと縁側で丁寧に布を解く。
「……あらあら、まぁまぁ」
絹の感嘆ももっともだ。出てきたのは不気味なほど闇を宿す漆黒の大鞘。
中の刀身を推定すれば。
「端から端まで七尺……いや八尺(2・4m)!? 冗談じゃないぞ何だこりゃ。俺の太刀でさえ六尺の大太刀だってのに、しかもこれは何て太ぇ。どうしてこんなのが俺のところへ……」
「祭事や奉納用でしょうか? きっと婚礼の飾りにって贈られたんですよ」
奉納用に大太刀を作るってのは聞いた事がある。
でも一般には白木作りの柄に祭儀用の綺麗な太刀のはず。だがこれは一目見れば禍々しいという表現が適切だ。
それに羽のように軽いのだ。
「とりあえず、抜いてみないと……」
鞘自体も妙だ。通常鞘と刀は引き抜くものだが、これは柄部分の金具を触れると仕掛けバネか、小気味良い音と共に、鞘の側面から刀身がぬるりと現れる。
だが、それは漆黒。覗き見る者の顔輪郭さえ映さない。
鈍光もなく、刃紋部には本来刀に備わる波状文も無い。磨いた為に起こる無機質の反射も言わずもがな。異質な鞘をも凌駕する、幅広で、希望の光さえ喰らう如き不気味な無明の刀。まるで、闇から刳り貫いた常闇色の大太刀だった。
「俺の刀みたいに、湾れ互の目も無いな」
白布を全て剥ぎ取り、改めて大太刀の柄を握ろうと掴む。と、ぴりっと指先から芯を抜けて脳天へ何かが突き抜けた。刀を握ったまま視界が回り体が浮く。
刹那、暗転、一瞬の闇。気づけば青空を背にする絹が青褪めた顔で体を揺すっていた。
「――様、禄様!? 大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫だ。ちょっと眩暈がしただけだよ」
――まさか横転するとは思わなかった。
不安気な絹の肩を借りて座りなおす。
念の為、軽く柄を指先で触れて何も無い事を確認する。
だったらと、握るまま太刀を天へと掲げてみた。
唯一、美しいと思える部分は柄だけだ。朱塗りの紐らしき物で拵えた柄巻仕立て。
鍔と柄頭は黄金細工だが、刃を柄から抜けないようにする目貫に縁金やハバキは白く美しい鉱石のようだ。柄の部分だけ見れば祭具だが……。
刃と棟の間に刀身を貫いて走る稜線に、闇の刀身へ朱塗りの漆が髪の毛ほどの筋で施されている。さらに、異質が浮かぶ――掲げた刀身が光を受けた故か、ハバキから刀身にかけて二尺間、朱の漆文字を浮かび上がらせた。
「絹、これ読めるかい?」
闇へ血で模られたような文字は、力任せに描いたような不可思議な紋様だ。
「私には読めません……でもとても立派な刀だと思います」
「立派? 黒身に血文字みたいで気味悪くないか?」
「そんな事ありません、禄さまが頂いた美しいぃ~御立派な刀で御座います」
絹はすげない態度で背筋を伸ばし、視線を逸らして茶を啜る。
目貫を外し茎を柄から引き抜く。作り手の名が彫られる唯一の箇所。それが何かの答えになればと思ったのだが、現れるは刀身と同じく黒一色――それでも、一文字だけ彫られていた。
斬――そう金で一文字が宛がわれている。
「うわぁ……斬ですね。禍々し――」言葉の最中、絹が口元を押さえた。
「……」
「……」
禄は無言で刀を元へ戻す。鞘へ納めて元の白布を適当に巻き直した。
「え? え? ど、どうしちゃうんですか?」
「部屋の片隅に飾っておくよ。というか俺は明日ここ出るし。部屋の管理はお絹|姉様だから、後の事はどうぞ宜しくお願い致します。毎日掃除して埃つけないでね」
土下座で一礼。全てを絹に託して刀剣をずずいと差し出す。
「ちょッ 嘘でしょ!? 持ってって下さいまし!」
「やっぱり気味悪いと思ってんじゃないか……」
髪を掻き毟って溜息一つ、再び布を外して鞘へ下緒を付けてみる。とても腰に差せる代物ではないが、肩から紐を担ぎ腰後ろで斜横になるよう調整する。
これなら逆手で金具に触れたら掛け金が外れ、柄の反動で刀が鞘から跳ねて抜ける。
「婿入り道具が、この大太刀ってのは趣があると言えばあるかなぁ」
腰に吊るして一回りすると、絹が声を立てて笑いあげた。
それでも向かい合う少女はどこか儚げで、「絹?」瞳をあわせれば、彼女の瞳が微かに揺れる。
「……どしたんよ?」
「いえ……ただ」
「ただ、なに?」
「また、この桜を……来年も二人、禄様と見たかったな……って」
ようやく放たれる言葉に瞳は伏せられ、縁側に投げた足が小さな振り子を漕いでいく。
庭の巨木桜から風に舞う小さな使者達は、二人の間を無邪気に舞い上がり、知らず互いの肩を寄り添わせる。そんな現世の長閑な一幕を、「――禄!」悲鳴にも近い声が破ってしまう。
咄嗟に声する門扉を見れば、血の気を無くした茜が立っていた。
「――お願い、手伝って――」




