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凍てつく冷気を含む夜の静寂から、東の空より柔らかな山吹色が隆起し始めると、夢現を伴う微睡みは古い記憶を逡巡させる。望まない未来に自分が晒されている為だろうか、それとも今までで一番楽しかった日々に、無駄と知りながらも手を伸ばしているのだろうか。
幼少の頃の自分と茜。そしてもう一人……すげない態度だが笑みの愛らしい不思議な少女。傍にいてくれるだけで嬉しかったのを、うっすらと覚えている。
――でも、その子の父親は嫌いだった。
猛禽類特有の怜悧に鋭い眼光で、人を値踏みするように覗いていた。
そんな日々もやがては変化が訪れる。茜と二人で家を訪ねると、そこは既に空き家となっていた。両親や大人たちに訪ねても、誰もその家の者が何処に行ったのか知る者はない。
突然の喪失に気づいた心の正体。子供心に想う儚い感情。
――それを……今も忘れてはいない……。
懐かしくも儚い往時から眼を覚ませば陽光は既に高い位置だった。
町の茶屋で軽い物をと思い、簡易な身繕いで家内の視線を避けて足早に表へ出たのだが、門扉手前の馬留めに見慣れた良馬を見掛けて足を止めた。
「――ちょっと、禄様!?」
ふいに甲高い声で名前を叫ばれ振り返ると、血相を変えて駆けて来る幼姉さんが約一名。
「ど、どこに行こうとしてるんですか!」
「お早う絹。どこと言われても。そこの茶屋で何か抓もうかなって、一緒にどう?」
「お客様が来てます挨拶してからにして下さいな。そしたら絹めも――って、そうじゃなく、旦那様も待ってらっしゃるのに、いつまでも寝こけて……。もう、こんな調子で本当に婿入り出来るんですか? なんか他所様にお披露目するのが心配になります」
「絹の中では、俺という存在はそんなに頼りなく見えるのか?」
「それはそうですよッ!?」
絹が素っ頓狂な声を上げる。
「茜様を娶ると絹めにあれだけ豪語してたにも関わらず、降って湧いた姫様に抵抗も出来ず無理やり貰われる体たらく。考えれば考えただけ情けない。三文絵巻の姫様でも、もっと抵抗するでしょうに呆気なく婿入り決定! 益体無しにも程があります男失格です!」
「そ、そこまで言うか……気にしてるのに……」
捲し立てるだけ捲し立てて、偶の音も出ないだろうと絹が、ついに手拭で頭を小突いてくる。
「ええぃ、こ奴め! 御主人様に手をあげおって」
「あ~っれ~、お戯れを旦那様~。あぁ御無体な」
良いではないか良いではないか。と抱きかかえて――偶然彼女の鼻頭は顔の前。互い大きく見開かれた瞳と「あ……」と、結ばれた唇が音を立て。
「――件の婿殿は、婚姻前夜に奉公人と興へと洒落込みますか。いやはや、豪胆と申せばよいのか、英傑色を好むと謳うべきなのか」
突然の声に、慌て振り向けば家の奉公人達に連れられて、今まさに帰路へ付こうとする公家姿の男が二人と御付の者数名が視野に入る。
ついでに同伴する両親は顔面蒼白で二人の興じを見つめていた。
「き、牙影さま!」
隣国――海咬の国司にして兼任守護に付く牙影の黎弥。剣術家と名高く剣聖の二つ名を得た智勇の将。齢四十に届くと思えぬ若々しくも眉目秀麗な顔立ち。線細い美顔に不釣合いな隆々たる長身体躯を青地小袖と、着流した白地大袖へ隠し、膝裏まで伸びる繊維の如き銀髪が揺れれば見る者に溜息を漏らさせる。
典雅な挙措で笑顔絶やさぬ公家の一人は、数年前から蓬莱国府へ向かう時には必ず屋敷を訪れ、禄の修練相手にもなる先生にも等しい存在だ。
さらに隣にいるのは北の東山道を挟んで蓬莱と海咬に陸続き、深く白き山脈連なり天然の要害と謳われしは天武の国。そこを収める老仙と讃えられる七十を越える高齢の翁。
未だ現役を勤める天武の国司兼任守護の刻長の琵封胤だ。
優雅な装飾を凝らす白地直垂を着こなす好々爺然とした風貌だが、幕府のみならず遠く西方の帝にも通じるらしく、この翁に会う為に異国の地から足を運ぶ者もいると聞く。
そんな翁が苦悶に声をくぐもらせた。
「拙いじゃろう。幾らなんでも拙いじゃろう……前日に奉公人の娘などと……」
普段は砕けた絹も、身分が余りに違う武家と公家の立会いに、顔色失い道の端に慌てて平伏するのだが。牙影が場を制した。
「我が子息同然の禄坊やが元服と同刻に祝言を行うとは、嬉しい反面私は寂しいぞ。――しかし、先方の姫君は幼くも見目麗しい可憐な美姫。禄殿に似合いの奥方となるのだろうなぁ」
身の危険を感じ、咄嗟に場を蹴るが、大柄な牙影の広げる両腕に捕まり抱きつかれた。
「きば……げ様……ちょっ……」
四十過ぎとは思えない厚みのある胸の肉、実践のみで鍛えられた益荒男の膂力に抱きしめられ、両腕ごと骨が軋み肺腑の空気が漏れていく。
「き、牙影様、禄様が窒息してしまいます!?」
絹の助言で「おおォッ!?」と声を出し笑顔で開放してくれる。が――腰の物を抜刀、逆袈裟斬りの一刀を笑みも消さずに抜き放ってきた。
不安定な姿勢ながらも太刀:蓬莱″を抜き放てば、キィーン――小気味良い音を奏でて放蕩な一手を弾き返す。
そのまま禄は柔らかな太刀滑りで喉元を狙う一撃へと切り替えるが、柔を剛で制す――外見とは裏腹の粗野な力で刃は外され、返す大上段からの一撃が裂帛の気合とともに打ち下ろされた。応じるまま戻す刀で受け流す。
攻める足位置を牙影の間合いへ、刀を支点に背面からの裏肘を、牙影から死角になる肩下方向からの一撃として叩きつける。
瞬時に反応する牙影が飛び退いた姿勢から横薙ぎの一手。
一歩、引く足のまま大上段からの一撃でさらに弾き返した。
「ほォォ……その状態から返すかよ。腕を上げたではないか、これなら守護役の娘様も生涯守れるだろう。真に良い若者になられたな禄殿」
真剣を抜かれて斬りつけられたのだ。
跳ねる鼓動が正常に戻らず飲み干す唾が喉元で濁る。
「牙影殿、気持ちは解るが、婿入り前の婿殿へ怪我でもさせては叱めだけでは済みませぬぞ」
物腰柔らかい好々爺の刻長に諭され、牙影は乱れた髪を掬いて大笑い。
「御老体、これが我らの挨拶にして武人としての確認ゆえ。どうか許されよ」
大笑いに呆れ帰る刻長は、やがてその表情を曇らせる。
「しかし、儂は此度の婚儀……正直のぉ」
「おや、刻長老。未だ蒸し返しますか? 何度もお伝えしたとおり、家系は国の末席なれど、禄殿は剣に対する信念、民草を想う心、事在れば大胆に開き直れる気構えも持ち合わせている。なら政に弊害はない――そう御老体も認めたではありませぬか?」
平伏した絹の肩が小刻みに震える。
「解っておる。解っておるのじゃが、いきなり守護代というのがのぉ。少しずつ位を上げれば周囲も納得するであろうに……しかも幕府からお墨付きとは……」
「格式格式だけでは国が腐敗しますぞ。新しき風を適度に通し、新たなる法と時世への潤いを満たしていく。国の政に最も必要不可欠ではありませぬか?」
納得しかねる老人だが、件の本人と視線がかち合う。
「あ、いや!? 禄殿を悪く言っているのではない誤解せんでくれよ。この歳になると頭が堅くてな、どうも格式通りの手順を踏まんと納得できん性質になってしまい。いや、気を悪くされたら本当にすまん。この通りじゃ……」
「未だ未熟な身の上、力及ばず無様な立ち居振る舞いもあると重々承知しております。ですが、国と民草の健やかな繁栄の為にも粉骨砕身勤めます故、婚儀の件、並びに政。これからも何卒、御指南御鞭撻を宜しくお願い致します」
うぐっ、と唸る老人は、小さく溜息を付くと、潤沢な顎鬚に隠れた唇から、二人にしか聞こえないだろう小声で言葉をよこす。
「時代の流れ……かの。落ち着いたら、供に酒でも酌み交わそうの」
そう残し軽く会釈を入れると、翁は馬留めを目指して歩き出した。
「次に会う時は祝言の席か。禄殿、強くなられよ。弱者では民草の上に立つ前に、周囲の者を守る事も出来ぬ。努努忘れぬようにな」
そう残す牙影の笑みはどこか寂しげだ。
放蕩豪胆な性格ではあるが、それでも来訪しては稽古を付けてくれた恩師に他ならない。互い国の立場がある存在になる以上、今日この時より二度と稽古など付けて貰えなくなる。故に最後の模擬。何か言葉をと巡らすが、二人は両親と奉公人達に見送られ、そのまま愛馬と共に辞去し町の雑踏へと消えていった。
「もう、ここで会う事はないんだな……」
背後に控えていた絹に、何となく呟いていた。
「絹は……あの御仁方を好きになれません。守護代に上がられたら……気を許さないで……」
「海咬と天武は与国だぞ。心配性だなぁ……あ、そうだ! なら付き人として俺に付いてこないか? せいぜい祝言とやらで一緒に飲み食いしよう!」
瞳に怯えを宿す絹へ揶揄い半分明るく言葉を放ったが。
「御馳走なのでしょうねぇ。羨ましい……って、使用人風情がいける訳ないじゃありませんか」
「その使用人様は、牙影様の御言葉に何かを堪えて震えてませんでしたか?」
「滅相も御座いません何かの間違いで御座います」
言及に、ぷいと顔だけそむけ、あからさまな棒読み言葉。すぐに嘘と解るが、やはりどこか沈む絹が儚げで、寄り添うまま敢えて追及するのをやめておいた。




