1・第壱幕 虚ろな罠……
人の生き死にが隣合わせに蔓延る古き時代。
飢え、疫病、戦。星の数ほどの屍の山に、平和とは無縁の無明地獄がそこにある。
権力に憑かれた老害や、我欲の悪物に争乱の世を真秀らの平定になど導ける訳もなく、その所業は無辜な民への弊害となって顕れ出でる。
折しも生まれ出でる民の怨嗟と悲憤慷慨の叫びは底を知れず。それを贄とする魑魅魍魎の類を冥府の門より這い出させ、現世よ乱れろと縦横無尽に跋扈させる。
――世の中心。都を守護する幕府より遥か東の地。
広大な平野と大森林に包まれた大地に、蓬莱という小さな国がある。
実り豊かな肥沃な大地を自然馬が走り、鷹が大空を駆け巡る戦から縁遠い平和な国だ。
この地を治めるは、各国を掌握する幕府より守護役を任ぜられ赴任した国司の豪族智羽。
その一族の庇護の元、民は飢える事なく農作物に恵まれ幸せに暮らしていた。
そんな折、都から遠く離れたこの地にて、十代前半元服と同時に守護代へ上がる若者がいる。
名は、神依の禄。
蓬莱国の末端の土地を預かる下級武士の家系だが、ひょんな事から偶然鉢合わせた智羽の娘に見初められ、守護役の使いから一方的な話の切り出しの後、蓬莱国府への異例の出世奉公へと辞令が下る。ついには勅命とも取れる縁談が宛がわれるが、余りに身分違いの姫君ゆえ、性格どころか容姿すらも知らず判らずそのままに、唖然とする本人を差し置いて、ついには流されるまま祝言に至ろうとしていた。
正式に都へ手続きが出され、つつがなく受理された事に村も町も諸手を挙げての大賑わいとなったのだが――当の本人は面白くはなかった。
そんな閉塞感すら覚える渦中にて、当の禄は幼い頃から互いに恋心を抱く巫女の少女、茜の存在に心を痛め続けていた。
そんな日々を過ごす禄に、災禍のうねりが降ろうとしている事を……彼は未だ知る由もない。
「ほんっと何度目だ……」
重い溜息が、また漏れていた。
雨が上がった昼下がり、未だ春は名のみで薄ら寒い。滲んだ汗と湿気で重くなった衣を、解けきれない大地の名残雪が容赦なく体を冷やして芯まで震わせる。
人々の喧騒を袖に払い、足早に家路へ向かっているのだが、行く先々で噂話が耳へ飛び込んでくる。自分の噂以外で耳にする物といえば『上皇がご乱心あそばされた』『大陸から使者が来た』『戦の準備がどこぞであるぞ』等々、聞けば辟易とする噂ばかりが横行する。
足早に家路へ向かうと、時代から忘れ去られた色くすむ映えない武家屋敷が通りを並べ、その最奥で小奇麗に周囲まで掃かれた小さな屋敷が現れる。
開け放たれた門扉を潜ると、奉公人の少女が慌ただしく駆け足でやってきた。
「お帰りなさいませ禄様、御守りは貰えましたか?」
「貰えたけど……見てくれ絹、見事なまでにびしょ濡れだ」
躾けられた決まり言葉で出迎える幼くも愛らしい顔立ちの少女は住み込み奉公の絹。
色白の茜とは対照的な健康的な肌色に、柔らかな柳眉から鼻頭までの稜線も愛らしく、薄紅な唇は花弁の様に見る者を惹きつける。赤紐で長髪を後ろへ束ね薄手の布頭、奉公人全員に渡された薄手の小袖衣を要所に縛り、自分らしさの着こなしも見事。
そんなお洒落さんが腰のかけ湯巻きで掌を拭い、出迎えてくれた。
八年前に屋敷へ奉公勤めにきたが、その幼い容姿も、言動も、愛らしさがあって禄は気に入っているが、自称で年上と言い張るのだ。
「何か、仰られましたか?」
「うんにゃ。ただ俺よりも年上なら、そろそろ婿さん探ししないと婚期逃した行かず後家って奴になっちまうんじゃないか……とね。少々心配しただけで御座います」
「はふぅ~この御仁様は年頃の女子にそこまで言いますか。幼少の頃、大旦那様より禄様の養育を承りましたが絹めの躾が悪かったので御座いますね」
慇懃無礼に言い放つ少女から殺気が走る。脱兎の如く逃げだせば、白いおみ足が伸びていて、軽快な音たて砂利の上に横転させられる。哀愁纏う溜息もらして馬乗り、絹は人差し指と中指の第二関節で禄の尻を抓むと左右へ振り出した。
「痛い!? 絹!? 絹様! 痛い、御免、勘弁、二度と言わないから!?」
「心にも無い事を……そんな気障な調子で茜様と別れの接吻を交わしてきたのですか?」
「な、なんで!?」見てたのか!? いや、誰もいなかったはずだ。
「唇に不釣合いな紅が少々……」
「うそッ!」
血の気失せるまま袖で口元を拭うが、拭った先には紅の欠片もありはしない。
「うっわ、本当に接吻してきたのですか!? 別の女子と祝言を迎えようという時分に!? 嫌だ……信じらんない……ケダモノがいる……」
「き、絹|……また引っ掛けたなぁ」
「婚期だなんだと、絹が気にしている事を戯れに使うからで御座います。そもそも……」
さばさばした性格の絹が珍しく言い淀む。
「そもそも……、なに?」
「何でもないです」
飛び退いて、両の手を後ろに組み、幼い仕草で舌を出す。
彼女お気まりの仕草だが。やはり年上とは思えない。
「そんな風に言われたら、気になるだろ」
怒っていたと思えば鈴音のように笑い、人差し指を自らの口元に宛がう絹は、
「永遠に秘密でございます」
と、傘を拾って楽しげに走り去っていく。いい様に弄ばれたと気づいたのは少し後。軽い溜息と共に立ち上がれば、一時だけ……別れの悲しみが祓われていた事にようやく気づく。
「……なるほど、確かに最高のお姉さんだよ……」




