20・狸娘の手管にも勝てない無様主人公2
「師匠、ついに終わりました!」
数日掛りで貯めた湯船が、日が西に傾く頃に満たされていた。檜で出来た巨大桶には四方の支柱で屋根があり、雨が降っても快適に入れる造りになっている。
岩組の中で火種石を打ち付け火焚きに掛かると、「今日は豪勢に洒落込むか」と巌は山へ入り、奈奈も「山菜」と言い残し沢へと降りていく。
既に山は夕紅が迫っていた。汗だくの額で照り返す陽光が輝くと、禄は煤だらけで竹に息篭め火を焼べた。燃え上がる石炭を眺めていると本当に強くなれるのかと疑問の方が先に沸く。
それでも炎を見つめて続けていると突然視界が暗くなった。
「だぁれでしょ~か?」
耳元で囁かれる温かい声。慌てて体を起こそうとするが瞼は柔らかな手で塞がれている。
「一月経つかどうかで、忘れる訳が無いじゃないか、絹」
「はふぅ~やっと、はぐはぐ出来まする」
「――お帰り絹、よく無事で――」
言葉の最中、押し倒すように飛び込む絹が、禄の頭を撫で繰り回す。
「禄が思うほど、か弱い女の子じゃありませんよ」
「絹、くすぐったいよ。でも本当に安心したよ」
久方ぶりの再会。絹がじゃれつく様に禄を抱きしめる。
それを楽しんでいると、
「お、丁度帰ってきたな……」
野太い声に禄が振り返ると巌と奈奈が立っていた。
その背後には、人の背丈をも超える巨大熊。既に事切れているのか微動だにしない。
「無事戻れたな娘っ子」
「はい。巌様も御無沙汰しております。禄様の事も見て頂いて申し訳ありません」
「いいって事さ。それよりせっかくだから娘っ子は先に風呂へ入っちまえ。おい、ヒヨッコ。夕餉は儂と奈奈が作るから、お前は湯の加減でも見ててやれ」
そう巌は告げ、何に気を使ってるのか奈奈と二人で、熊を担いで去っていく。
それに伴い荷物を置いた絹が、いきなり手荷物投げ捨て、衣を脱ぎだした。
「――うぉ、ちょっと待てって!?」
慌てて風呂桶挟んで場を飛び退けば、シュルシュルと衣ずれ。何の躊躇も無く脱ぎだしたのだ。さすがに女性の湯浴みに平常でいられる訳もない。が、どこぞの幼女や熊のような大男の背中を沢で糠袋を使って洗った過去なら既にある。
「ならばどこに臆する必要がある!」
――無心になれば良い、衣があるか肌があるかの違いよ。そうも思えば、
「何だ、本当に心が落ち着いてきた。これも修行の成果かもしれない。少しずつ一皮剥ける自分と素質が改めて怖いな……」
と、鼻を擦って自傷気味に笑っていたら、
「ね、ねぇ禄。ぶつぶつ言ってないで。このお風呂っ、入り方が解らないんだけど……」
真後ろ――突然の絹の声。既に衣ずれの音は無し。
「い、板、げす板って言うらしいんだけど沈めろッ!? その上に乗って! 念の為、そこに下駄も置いたから、使ってもいいし使わなくてもいい。兎に角ザブンっと行ってくださいまし!?」
板を沈めたのだろう。その上に乗るべく本当にザブンと音が聞こえ、湯船から零れた湯が背筋を凍らせる。
「やだ、凄い、すぐ後ろで女が――いや、裸が動いてる」
月夜の晩の戦慄の恐怖とも、牢獄で突きつけられた絶望の恐怖とも違う。まったく別種の何かが風呂桶の向こうに存在していた。
――もしかしたら師匠はこれも精神修行の一環として? だとしたら、どうもありがとうございます巌師匠様。
情動に任せたら体が勝手に、庵へ向かって深々と見事な土下座をさせる。
すると風呂桶越しに絹の優しい声が響いてきた。
「ろ、禄、ありがとう。奉公人が……先に湯を頂くなんて……あの……」
「礼を言うのは俺のほうだ、蓬莱と天武の往復だ。感謝しても足りないよ。そして俺は、もう君を奉公人とは思っていない。今では大切な妹みたいに――」
そこで絹の髪が小さく跳ねた。
「――ちょい待ち、妹って何!? せめて大切な人でしょ!」
「いや身長的にも、まだ容姿が――がはァッ」
つい笑いながら見上げたら、雫を滴らせ頬を上気させる白肌の女性が桶の向こうから仁王立ち。白ユリもかくやな姿に頬もあでやかで。二つの御椀も禄の視界に映ってしまう。
そんな神々しい彼女が睥睨している。しかも禄の顔は正直だ動かない。
ならば、いっそ――
「な、何、直視してんですか!?」
――湯の入った手桶が回転しながら顔面にめり込んだ。
「と、兎に角! 無事で本当に嬉しいよ。絹が帰ってきたって実感も沸いたしさ」
「どこ見て実感沸いてんですか!? こういう時は顔を背けて下さい! これは貸しにしておきますよ。まったく。よく今まであの女狐と上手くやってこれたなぁ……」
「……女狐って、誰?」
「知りません。で、傷口は膿んでませんか? 確認しますから立ち上がって見せて下さいな」
少し思案の後、言われるまま立ち上がり、絹を見ないように目を瞑る。
「ちょっと、幾ら何でも遠すぎです……せめて足場の上に立ってくれないと」
風呂に入るために設置された岩の足場。そこへ薄眼で立つと――
手を引かれ、前のめり。つまり湯船に落とされた。
泡を食って目を開ければ湯桶の中、悶絶しながら体勢を立て直し、やっとの思いで湯船に顔を出し。その口元へ、温かく柔らかな感触が塞いできた。
「む……ぐぅ……」
情けない声を洩らしながらも、絹の接吻を受け――再び沈む。
再度顔を出して抱擁を受けて、彼女の可憐な目元に涙をみた。
「怖かった、道中が怖かった! 山賊や野盗にあえば、か弱い絹じゃ襲われる。それでも必ず辿り着こうって。報われないって承知してるけど。貴方の傍にいたくて、無理でも居たくて。だから頑張って来たの!」
「絹、君は――」
「だから、これくらい……いいよね。禄がどう思おうとも、絹は謝らないから!」
滅裂に言葉を放つ絹、そのまま泣き続けるままに強く抱きしめてくる。禄も抱きしめ返そうとした。だが、指が躊躇し抱き返すのを戸惑わせる。無論、茜を想ってだ。でも月夜の晩、絹の気持ちを聞いている。
しかも絹がどんな気持ちで旅をしてきたのか。ただ一途な想いで恋敵にあたる茜の元へ行き、想い人の生存を伝えてくるのがどんな意味に繋がるのか。
奈奈が言う『朴念仁』の意味、それが今ようやく理解出来た気がした。
だからだろう。茜に対して卑怯と知りながら戸惑いを捨て、禄は絹を強く抱きしめた。
最低と知りつつも抱きしめ禄から口付けを交わしていく。
温かな湯の中で交わす行為が、卑怯な時間稼ぎにしかならないと知り得ながら……。
そんな事を真剣に考える禄とは別に、抱擁を重ねる絹の右手が禄の背後で強く、それはそれは力強く握られたのを、甘い干渉に浸る禄が知る由もなかった。




