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17・彼女を守るために強さを求める男と、邪魔な雌狐を殺したい狸娘。


「お父、……そろそろ修行」

 奈奈の言葉に巌が禄の傷の具合を見て、ようやく頷く。

「んだな。もういい加減走る位は良いか。ヒヨッコ、飯食ったら表へ出ろ」

 いよいよ強くなる為の修行が始まる。その思いで巌と奈奈と共に表へ出る。出るなり奈奈が振り返り、「捕まえて」と蚊の鳴くほどの声で囁いた。

 意味が解らず巌に振り返れば、〝行け″とばかりに顎を向ける。

 とりあえず奈奈に手を伸ばすと、軽く飛び跳ねる。軽く跳ねたはずなのに、視界から消えた。 振り返っても周囲に姿はない。

 まさかと思い天を仰げば大木の枝、遥か頭上に奈奈が立っていた。

「な、なんで……あんなに飛べる訳がない」

「訳があろうとなかろうと。あれくらい出来なきゃ半日も掛からず麓の里まで往復出来る訳ねぇだろ。ああいう芸当もいずれ教えてやっから今はさっさと捕まえて来い。奈奈! 状況しだいでは〝錬気《れんき》″を使え。それじゃ頑張れよ」

「錬気? あ、ちょっと行かないで!? あんな高い奈奈ちゃんをどう捕まえるんですか!?」

 大人五人を縦に並べても、枝に座る彼女には届かないだろう。

 だが巌は何も言わず見ているだけで、仕方なしとばかり禄は木に足を掛けて慎重に登り始めた。

「丁度いい、その屋敷で大事に育てられたヒヨッコ根性、一端《いっぱし》になるまで徹底的に叩きのめしてもらえ」

 苛立ち混じりの巌の声を耳に、禄が下唇を噛み締めて必死に登っていく。

「木を、登るなんて、童子の頃、以来だ。本当に、懐かしい、ですよっと」

 呼吸を乱し、それでもかなりの高さを登り切る。でも……昇って辿り着く場所に奈奈の姿はは微塵も無く、辺りを見渡せば離れた隣木に飛び移っていた。

「師匠――まさか飛び移れと!」

 眼下で竿に蔓《つる》の繊維で作ったのだろう細い糸を括り、釣りの用意と洒落込んでいる巌は、禄に振り向きもせず面倒臭げに言い放つ。

「お前《めぇ》の体に乗ってんのは西瓜《スイカ》か? 少しは手前で考えろ! 登り直すしか無ぇだろうよぉ。それと久しぶりに湯浴みと洒落《しゃれ》込みたい。さっさと捕まえて沢から水を汲んでこい」

 ――何もかもが絶望的だ……。

 周囲の景色を眺めてみても雄大な峰々から流れ出でる雲海が遥か麓へと流れていくが、少なくともここから沢は望めない。

「最短で沢へ降りる場所を教えてあげっから、とにかくがんばれ甲斐性無し」

 背中を何かでツツッと撫でられ、跳ねる心臓に危うく転落しかけて枝に獅噛《しが》み付く。振り返れば幼女が一段上の枝に足を掛け、ぶら下がりながら両の手を後ろ頭で組んでいた。

 幼女が眼差し細めて鼻を鳴らす。

「――隙あり!」と、咄嗟《とっさ》に手を伸ばすが、幼女は俊敏に体を持ち上げ隣の木へ跳ね飛んだ。

 そこで禄は脚を踏み外し、枯れ枝の大地に真っ逆さま。

「あッ!?」――と、叫べば背中に衝撃を受けて、破裂しそうな心の臓と閉じた眼差しで原因を探る。と、和釘《わくぎ》に似た太い手刀が腰の帯紐ごと木に刺さって体を浮かしていた。

「助けるのは、一日一回」

「な、なんなんだ、この幼女……」

 自力で釘を抜き、更に幼女目掛け登り続ける。

 が、離れた木だろうと吸い付くように飛び移り、

「馬鹿禄~」と、奈奈は嬉しそうに微笑んだ。

 登っては逃げられ、落ちては罵られ、兎にも角にも捕まらない。

「手~抜いたら、お父にいって飯抜きだかんね」

 朝から始まった修行とも言えない樹木の追い駆けっこは、陽光が西の空に傾き始めた頃、奈奈によって中断された。

「そろそろ沢にいくよ。納屋に手桶があるから持っといで」

 疲れた体で納屋に行き、薄暗い場所で見つけたのは、小さな小さな手桶だった。

「こんな現状を絹に見られたら……」

 視界が滲んで足元に雫が垂れた。挫けそうな気を奮い立たせ振り返ったら、奈奈が顎でこっちへ来いとしゃくるのだ。

 枝伝いに飛ぶように山を降りる幼女を追って、禄も枝の積もる道を粉砕しながら追いかける。だいぶ遅れ、転がり進んだ先で、綺麗な渓流が心地良い音を立てて流れていた。

 切り立つ断崖の渓流。

 淵の深い色合いを湛えた箇所目掛け奈奈が竿を振るっていた。

 竿? 他には誰も居ない。いつの間に竿を――と、思考の中。

 耳元にヒュッと風切り音。

 すぐ脇だった、厳が竿を立て魚を川から引っこ抜く。突然現れた存在に心臓が跳ねた。仰け反るままよろけたら足場の岩が崩れ、転倒しそうな寸でで巌が禄の手を掴んだ。

「おめぇは、氣って奴がまるきり読めねぇみてぇだなぁ……」

「い、いつから、そこに!?」

「最初から居たさ。今のお前じゃもう奈奈がどこにいるか判んねぇだろ?」

 そんな馬鹿なと、禄が先の場所を振り返れば――誰もいない。

「すぐそこに居るさ。まぁいずれは……、ああいう芸当も出来るようにしてやる」

 釣れた魚を魚篭《びく》に収め、ひゅるりと竿を振るえば、川に落ちる羽毛の目印が川面から五寸程離れた場所に浮く。

『さっさと、始めたほうがいいぞ。数千回は往復する事になるんだからよ……』

 振り返れば、そこに師匠巌の姿はもうなかった。

 見回しても奈奈も師匠も確認出来ず、誰も居ない沢に一人だけ。

 遂に背筋へ冷たい物が走り抜け、慌てて手桶に水を汲むと転がってきた道を迷いながらも登っていく。途中振り返るが、やはり沢に人の姿はなく川蝉が静かに滑空していくだけだった。

「あんな芸当が、いずれ俺にも出来るってのか?」

 寒気を覚えながらも登り続ける。やがて庵の裏手へ回れば巨大な湯浴み用の風呂がすぐに見つかる。そこに沢の水を入れるのだが、手桶は小さく微々たる物。

「ふざけんな……これ全部に水汲むのかよ……」

 八岐大蛇が昼寝でも出来そうな巨大風呂。

 それを前に禄は途方に暮れるのだった。


       ***


 ――仙天郷から下山した絹は山林を足早に駆け抜けていた。

 東山道を並行するように、森へ森へと険しい道を好むように進んでいく。

 少し前まで絹は落ち込んでいた。むろん件の虐殺の件で……。

 あの日、絹は蔵の裏手で目が覚めた。誰かの手により助け出されたのは想像に難くない。その時点で事件が起きたのも予想ができた。ゆえに禄に対して最善を尽くし続けたのだが。でも本当の意味で彼を助けられない自分が、今も何もかも語れない自分が嫌だった。自害さえ思い積める程に……だ。

 だからこそ、今回の旅路を買って出たのだ……償いを求めて。

 なのに、一足で幹に飛び上がり、枝から枝を跳ねる様に飛び渡ると心は何故か浮かれていく。 他言は一切出来ないが、実は幼少の頃、育ての父から幾多の修練を積んだ過去がある。剣術体術薬術は当たり前、岩を背負って過酷な山走りなど日常茶飯事、自給自足に獣を捕まえては美味しく煮込んで食したものだ。

 だが殿方とは、花も恥らう乙女を欲する罪深き生き物。

 ならば素手で熊や猪を殺《や》った過去がある女です。隠し事もありまする。等と言える訳も無く。うっかり、そんな事を打ち明けたらどうなるか。

 ――間違いなく引かれる! 冗談じゃない!?

 絹は全身に怖気が走る思いがして、一瞬枝から足を踏み外しそうになる。

 山越えの戦で、懐かしさに絆されて夢中になって幾人の男を薙ぎ倒してしまったあの時。

 禄の脅えと困惑を混ぜた様な眼差しは生涯忘れないだろう。

 しかも慌てて手を抜いたら、結果的に傷を負わせてしまうとは……。

 ――これはもう責任取って生涯を夫婦《めおと》として共に過ごすしかないっしょ!

「互い心の傷と体の傷を負った仲……支え合って、二人の行く末を幸せにしてみせまする」

 しかし油断は禁物。各国の包囲網は御布令で解かれているが、それでも知る者が知れば騒ぎになる。出来る限り顔は隠したい。

「そんな危険な旅路を進むのに、何故でしょう……絹は足が軽やかでございます」

 鼻歌交じりに獣よりも早い速度で雑木林を駆け抜ければ、浮かぶ高揚感はついに顔から漏れてしまう。

「か弱い乙女が主人と仰ぐ殿方の為、殿方の密かな想いを成就するべく甲斐甲斐しくも危険な旅路を駆け抜ける。例え今は過ちの恋心で眼《まなこ》が腐っていても、も・し・も、件の恋敵が自害で果てていようもんならどうなるか。一時は失意に絶望の淵に苛まれたとしても、隣に寄り添う天女も斯《か》くや尽くしますよ撫子娘《お絹さん》が傍にいれば、傷つく男はどう想うのか」

 ――考えるまでも無いだろう――堕ちる!――もう、拳握り締めちゃう。

 だから少しだけ、ほんの少しいけない事を考えても――今は仕方が無いよね?

「茜様……死んでてくれないかなぁ……」

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