16・第肆幕 錬気……
「人相書きが外されたので御座いますか! なら無罪が認められたので御座いましょうか」
早朝の庵に絹の気色の声が鳴り響いた。
「それは無ぇみたいだぞ、奈奈の持ってきた紙には『罪人:禄 此の者、山林にて抵抗した為に斬り捨てた』って書いてあった。儂が濁流に岩と一緒に捨てた服が功を奏したんだろう、だが役人は示しを付けたい――なら概ね死んだ、で手柄取って済ますって事だろう」
囲炉裏を囲む和やかな朝餉に先日奈奈が麓で見聞してきた話を聞いたのだが。
何故だろう……。禄は焦燥にも似た感覚で何か心に重く圧し掛かる物を感じていた。それは絹も同じらしく互い顔を見合わせた。
「どうしたよご両人? これで追っては掛からないんだ、一つ問題が落ち着いただろ?」
「いえ……師匠。自分も解らないのですが、何か……こう胸騒ぎが……」
理由が解らず頭を抱えていると、絹が「あっ」と呻き血相を変え振り返る。
「――禄様。絹めは一度、蓬莱へ戻りたいと思います」
「な、なんで!? 見つかったら騒ぎに――」
「胸騒ぎの原因が解りました。茜様の事でございます」
「あ、茜、なんで?」
「禄様が斬り捨てられたとあれば、件の発端となった蓬莱国へ伝わります。そんな知らせ札を見ては禄様の身を案じて日々を過ごす茜様の事、後を追おうと自害なされるやも――」
箸が手からこぼれ板間に散らばる。
「事は急を要します。もう人相書きもないのです、これを頂いたら私一人で参りましょう。巌様、どうか禄様の治療と修行をお願い致します」
「それは構わねぇが。お前一人で、この山深い峰を越えられるのか?」
ここは森深い山脈の頂付近。山脈と麓への大森林の道を進むのが如何に困難か知るからこその巌の発言だろうが。
「元々、更に険しい山向こうの出身です。失礼ながら禄様がいらっしゃらないほうが身も隠せ易く、今までの行程の三分の一は掛からないかと」
奉公人言葉と共に絹は悪戯っぽく微笑んだ。
「それに……絹めはやり残した事がありますゆえ、必ず生きて戻らなければなりませぬ」
「ほぉ……やり残した事か、儂でよければ是非聞きたいな」
「御恥ずかしい……秘めた女人の野望で御座いますよ」
禄が固まったのを意にも介さず、絹は朗らかに笑い如才な微笑を讃えるのだった。
簡単な旅品と食料を風呂敷に背負い見送りに笑顔で答える絹へ、見送りにでた禄と巌、そして奈奈。奈奈を抱き上げた厳が絹に青色に輝く石を手渡した。
「いいか娘。戻る時はこの石を持って必ず岩戸を通れ。さもねぇと、お前じゃこの封断の地――仙天郷へは戻れなくなるぞ」
「解りました。私の事より……巌様、何卒禄様をお願い致します」
「それは解ってるがよ……、おい」
と、禄に振る。
「本当にいいのか。結局俺は危ない事ばかりさせて……俺は何一つ償いが――」
言葉の最中で絹が懐へ飛び込み、有無を言わさず抱きしめてくる。茜の事もあり戸惑いは隠せないが、それすら見抜かれて更に力強く抱きしめられた。
「誰かが行かねばならぬ事です……案じないで下さい……ただ……」
「……ただ、なに?」
「絹がいないからって、幼女に走るなよ」
「――誰が走るか!?」
と、叫んだ言葉に懐から離れ、微笑を浮かべ両手を後ろで組み。小さく舌を出すのはお決まりの仕草。手拭いで人の頭を軽く叩き、あわやと言う間に絹は笑顔で旅立って行ったのだった。
「凄ぇ娘だな……」
「良い様に弄ばれてますよ」
「まぁ、仲が良いに越した事はないさ。ほれ、お前はお前で〝黒霧″を持って付いて来い」
痛む傷を押し込めて、師匠巌の声に従い随伴する。
いよいよ修行かと思えば、付いて来いと言うだけで、険しい山道を絹とは逆方向へ下っていく。色濃い森の緑に何故か轟音。親子を見失わないよう必死で追えば沢に出で、そこは切り立つ崖から巨大な滝の降り注ぐ雄大な絶景の地だった。
「なんて巨大な大滝だ……」
水鳥が戯れ、巨大な滝壷に威容を誇る水流が流れ込むと、爆音と飛沫が離れた足場でも容赦なくねぶり、距離があるにも関わらず隣の声すら聞き取りづらい。
「太刀を抜け、今から滝を止める。その間に滝壷へ〝黒霧″が刺さるように投げ入れろ」
師匠は腰の五尺以上はある鋼の太刀を抜き、水量豊かな渓流へ飛び降りる。
と、巌は水面の上で仁王立ち。滝を見据え、奈奈が沢から来い来いと手招きをした。
「で、でも黒霧が俺から離れたら――」
「数日の度に来てやりゃ太刀も哭かねぇよ。お前が寝こけてる位の間も大丈夫だったろ? いずれ遠方から氣を飛ばせるようになれば騙晦っていう誤魔化しも出来る」
意味は解らないが河原へ赴き、言われるまま黒霧を抜いて投げる姿勢を整える。
「いつか、これくらい出来るようにしてやる。今はしっかり見ておけよ!」
水面に浸した太刀で師匠は豪腕一閃。引き寄せられる大気の流れに禄の体が確かに揺れた。沢の川も砂利さえ砕いて何かが真っ直ぐに滝を目指す。
「――剣圧か!?」
剣圧は全てを巻き込み滝に衝突。
流れる世界が瞬間止まり、巨大な大瀑布すら太刀が造った圧塊に巻かれて流れを停止、逆転、軒並み押し上げ程なく天高く水柱がそそり立った。
いつの間にか肩に乗っていた奈奈に小突かれ、禄は我に返る。
促されるまま慌てて滝壺が|あった場所へ黒霧を投げつけた。
太刀は狙い違わず滝壺の一番深い場所に落下。抵抗も無く柄まで刺さる。間髪容れず砕けた滝雨が土砂降りの夕立のように叩きつけて、瞳を開けた先で、滝は何事も無かったように滝壷を覆っていくのだ。
「お前自身が強くなったと思うまで近づく事を禁ずる」
奈奈が巌の肩に飛び移り、巌は庵への道を辿っていく。
流れる滝と今の光景が幻だったのではと、つい愚考を巡らすが、腰に吊るされた空の鞘だけが現実をはっきり認識させてくれていた。
この日、絹が去り、惨劇の日より纏わりついた〝黒霧″が、己の手から離れたのだった。
――それから半月程が経つ。




