巻の八、哢恋歌
「――気づいたか」
シンと静まった室。あたりは暗く、灯された燭が、かすかにジジッと燃える音をたてる。
「……公主、さま?」
寝台に寝かされた俺。その脇に腰かけていたのは、公主。いや、皇帝か。
あの場で臣下に嘱望され、皇帝即位を決意した公主。
「よい。まだ寝ていろ」
「しかし……」
身を起こしかけた俺を制止した公主。
「お主の仲間が手当てしてくれたが。だからといって無理をするでない」
「はい……」
制止され、命じられ。なにより体が辛いのはそのままなので、素直に言うことをきいて、床に身を預ける。
「あの、公主さま」
「ん? なんだ?」
「ずっとここにいてくださったのですか?」
あの場で俺が意識を失ってから。こうして手当てされて床に寝かされても、ずっと。
「ずっと――ではないな。即位に向けてやることが山ほどあった」
「そう……ですか」
なにバカなことを訊いている?
そんなの当たり前じゃないか。
コイツは、弟に代わって皇帝に即位することを決意したばかりなんだぞ。俺なんかのそばにいる用はないってのに。
「お前に、いろいろ話したいことがあって来た」
「なにを?」と胸が高鳴ると同時に、「そうか」と不思議な諦めのような気分が広がる。
俺がただの宦官でないこと。九曜の一人だということ。
今もバレてはいないかもだが、元々は「篭絡して堕とす」ために近づいたこと。
その話か。
グッと奥歯を噛みしめて次の言葉を待つ。
「今日は、お前に助けられた。礼を言う」
深々と、次期皇帝とは思えないほど深々と頭を下げた公主。
「お主がいなければ、吾は今こうして息をするのすら難しかったであろう」
「いえ。それは命があったからで……」
命の内容は挿げ替えられてたけど。それでも、礼を言われるほどのものじゃない。
「まあ、お主ならそうやって謙遜して受け入れぬとわかっていたがな」
笑い、顔を上げた公主。
「だが、次のことは、何があっても受け入れてもらうぞ」
「次? でございますか?」
「うむ」
いたずらを仕込んで、誰かがそれにかかるのを期待している。そんな笑みに変わった公主の顔。
「お主に、皇帝になった吾の皇配となることを命じる」
は? 皇配? 皇帝の配偶者?
「えっ、ちょっ、ええっ!?」
「驚くのも無理はないが。これは勅命である。謹んで受け入れよ」
「『受け入れよ』じゃないですよ! アンタ、言ってる意味わかってんのか!」
床に任せていた体を、ガバッと起こす。
「皇配っていったら、アンタっ!」
俺がアンタの夫になるってことだぞ!
細作として、身辺警護に着けとかそういうんじゃない。俺と夫婦になれてことだぞ!
「吾の伴侶となるのは嫌か?」
「嫌とか、そういうんじゃなくてだな……」
いたずら成功。
ニコニコと笑う公主に、深くため息を漏らす。
「俺が相手でいいのかよ?」
「お主しかおらぬ。そう思っているぞ」
だから、無邪気に笑うんじゃねえよ。
「丞相たちにも了解を取ってある」
承知したのかよ、あのオッサン。
あの生真面目そうな印象の丞相。どんな顔して受け入れたんだ?
「吾の伴侶をお主とせぬのなら、吾は即位せぬと」
「それ、脅しじゃねえか」
「そうとも言うな」
コイツに即位を願う丞相たち。受け入れざるを得ない状況に持ち込まれたってことか。
「ただ、そうして丞相たちの了解は得たが。問題はお主だ」
「俺?」
「お主が、吾を嫌っておるというのなら、この話は無かったことにする」
笑いを収め、神妙な顔になった公主。
「――無理強いだけは、したくない」
小さく丸まった背。俯いた顔。
まるで、怒られるのを覚悟して待つ幼子のようだ。
そんな感想を持つ、公主の姿。
「――一つお伺いしたいことがございます」
その答えを訊かないうちは、命令に首肯できない。
「公主さまは、いつから俺をそのように想っていらしたのですか?」
俺を伴侶に選ぼうと思ったのはなんでだ?
丞相たちを脅してまで皇配に選ぼうとするのはどうしてだ?
俺に助けられたから――なんて理由じゃないだろうな? それだったら、俺はお断り申し上げるぞ? それだと、怪我を盾に不遜な地位を求めたみたいで嫌だ。
「お主、なかなかに貪欲だな」
顔を上げた公主が再び笑う。
「吾が、お主を好ましく思ったのは、お主が吾の宮を訪れた時だ」
は? あの時?
「お主の、その凛とした佇まい、なによりその目に惹かれた」
目? 俺の目?
「そこからは、何をしていてもお主から目が離せなくなった。朝起きられぬ吾のために蓮の花を用意しようと言ってくれた。あれは、なかなか胸苦しくなる幸せな出来事だった。胸から小鳥が飛び立ちそうなほどであったぞ」
「は、はあ」
苦しいのか、幸せなのか。小鳥が飛び立つとは?
「お主に褒めてもらいたい、構ってもらいたい一心で政務に努めた。無理をしても政務に努めれば、お主が心配してくれるからな」
「はあ?」
なんじゃそりゃ。
「今日の暴漢から守られるのも、女冥利に尽きる、喜ばしいものではあったが。お主が傷つくのは我が身が斬られるより辛かった」
「それは……」
申し訳ありませんとでも謝るべきか。
護衛なのに、傷ついちゃってすみません。心配かけて申し訳ない。
「吾からは以上だ。納得したか?」
「はい、まあ……」
俺の密命。
公主のもとに潜入して、公主を堕とす。
それはあの時、すでに成功してたってのかよ。
俺が出会った時から。コイツは、表に出さなかっただけで、俺に堕ちていたってことかよ。
俺が気付いていなかっただけで、コイツは俺に堕ちていた。俺はそうとも知らずに、必死に……。
(なんだよ、そりゃ……)
「ハハッ。ハハハハッ」
「蒼月?」
突然笑い出した俺に、公主が不安そうな顔をする。
「公主さま。いえ、瑶佳さま」
笑いを収めて、真摯に彼女を見る。
「では、俺に溶かされる覚悟はできている。そういうことでよろしいですか?」
「溶かされる? 吾は氷ではないぞ?」
「おや。俺の仲間から聴いておりませんか? 俺は、貴女を甘く蕩けさせる。蕩けて俺に溺れさせる。そういう技を持った奴だと」
「そ、蒼月?」
ズイッと身を乗り出した俺。合わせるように、身を引いた公主。
「お慕いしておりますよ、瑶佳さま」
嘘じゃない。
アンタが俺に惹かれたように、俺だってアンタにどうしようもなく惹かれてた。
任務だからじゃない。本気でアンタに惚れさせたかった。
俺だけがアンタに惚れてるなんて、割に合わない。これは任務なんだと自分に言い聞かせていた。
けど、アンタがその気なら、俺も容赦はしない。
その細い顎を捕らえ、顔を寄せる。
アンタを、俺の虜にして、俺から離れることを許さな――
ドスッ。
「――ウグッ!」
「そういうことは、傷が治ってからだ」
口づけようとした俺の腹に、容赦ない掌底を突き入れた公主。
おっ、お前っ、本当に俺のこと、好きなのかっ⁉
好きな男に、自分のせいで傷ついた男に、甘い囁きと口づけを求めた男に、掌底入れる女がどこにいるってんだ?
こういう場合は、「あら」とか言って、身を委ねるもんだろ。
腹を抑え、目に涙をにじませながら、公主を睨みつける。
「早く傷を治せ」
苦しむ俺を見て、微笑む公主。そして。
――チュッ。
俺の唇の上で、あり得ない音がした。
口づけだ。
俺からのは拒むのに、自分からはするのかよ。
「お楽しみは傷が治ってからだ」
口づけだけ残して。公主が立ち上がると、サッサと室から出ていく。
その後ろ姿は、公主というより皇帝のような威厳と、それとどこか愛らしさを兼ね備えていた。
(クッソ……)
堕とすつもりが堕とされたのはこっちかよ。
振り回すつもりが振り回されている。
こんなの、初めてだ。
誰かをこんなに捕まえておきたいほど惚れこむとは。怪我のせいで伸ばせなかった腕を悔しいと思うのは。
振り回されて、腹が立つのに悪くない、むしろ心地よいと思うのは。
(傷が治ったら……見てろよ)
今度こそ、お前を俺に溺れさせてやるからな。




