第7話 廃村フェルン
村へ入って最初に感じたのは、静かすぎるということだった。
人の声はもちろん、家畜の鳴き声も聞こえない。道だった場所は雑草に覆われ、両脇に並ぶ家々の半分以上は屋根が崩れていた。
扉がなくなった家、壁そのものが倒れている家もある。風が吹くたびに枯れ草が擦れ、どこかで古い木材が軋む音だけが響いていた。
「思ってたよりひどいな」
「十年以上放置されてるんだから、こんなもんじゃない?」
「それもそうか」
俺は依頼書を取り出した。確認するのは建物と水場の状態。魔物が棲みついていないかも、できる範囲で見ておいた方がいいだろう。
「まず井戸だったな」
「村の中心にありそうだけど……あれじゃない?」
フィアが指差した先に、丸い石積みが見えた。広場らしい場所の中央に古い井戸があり、傾いた木枠から一本の縄が垂れている。近づいて覗き込むと、水そのものは残っていた。
「枯れてはいないな」
「でも、そのまま飲むのはやめた方がいいよ」
フィアの言葉に頷き、残っていた桶を縄へ結び直して水を汲み上げる。底が抜けていなかったのは幸運だったが、上がってきた水を見てすぐに飲む気はなくなった。
薄く濁っている。
鼻を近づけると、泥とは違う、少し鉄臭いような匂いもした。
「これが原因で村が捨てられたとか?」
「分からない。長く使われてない井戸なら、これくらい汚れててもおかしくないし。でも飲んだらお腹壊すと思う」
「だよな」
依頼書には水場の状態を確認しろとしか書かれていない。濁りあり、飲用には適さない。そう報告すれば仕事としては終わりだ。
それでも俺は桶の中を見つめた。
汚れた水。
飲むために必要なのは水であって、この濁りや変な匂いじゃない。
「……まさかな」
「何?」
「ちょっと試したいことがある」
桶の中へ手を入れる。冷たい水が指の間を流れた。これは俺の身体じゃない。
それどころか生き物ですらない。
さすがに無理だろうと思いながら、濁った水へ意識を集中する。
いらないもの。
飲む邪魔をしているもの。
そう考えた瞬間、目の前に淡い文字が浮かんだ。
【水質汚染】
【廃棄可能】
「……できるのかよ」
「また何か見えてる?」
「ああ」
フィアが桶を覗き込む横で、俺は水から手を離さずに呟いた。
「《廃棄》」
一瞬だけ、指先から何かが抜けていくような感覚がした。直後、濁っていた水が少しずつ澄んでいく。底に沈んでいた砂や小石まで消えたわけではない。
けれど、水全体に混じっていた色と嫌な匂いはほとんどなくなっていた。
「……え?」
「俺も同じ気持ちだ」
フィアが桶を持ち上げ、光へ透かして見る。
「見た目は普通の水になってる」
「だからって飲むなよ」
「分かってるよ。そこまで無謀じゃない」
「さっき狼三匹に追われてたけど」
「あれとこれは別」
信用していいのか分からない。
俺はもう一度、井戸そのものを覗き込んだ。
桶一杯でできたなら、井戸全部にも使えるかもしれない。石枠へ手を置き、水全体を意識する。
「この井戸の汚れを――」
何も起きない。もう一度集中してみると、今度は文字が浮かんだ。
【対象範囲が大きすぎます】
「駄目か」
「何が?」
「桶一杯なら綺麗にできた。でも井戸全部は無理みたいだ」
「十分おかしいことしてるからね?」
フィアに言われて、改めて澄んだ水を見る。
毒や疲労を捨てられるだけでも十分おかしい。
それが他人の毒にも使えて、今度は水の汚染まで捨てられた。
《廃棄》という名前から、どんどん遠ざかっている気がする。
いや――違うのか。
俺が勝手に「ゴミを捨てる能力」だと思っていただけで、このスキルにとっては毒も疲労も汚染も、全部同じ「不要なもの」なのかもしれない。
「レオン」
「ん?」
「考えるのはいいけど、日が暮れるよ」
空を見ると、確かに陽がかなり低くなっていた。
「まずいな。建物も見ないと」
「手分けする?」
「いや、一緒に行こう。何がいるか分からないし」
「さっきより慎重になったね」
「誰かさんに教わったからな」
「えらいえらい」
「子供扱いするな」
井戸の状態を依頼書へ書き込み、今度は村の建物を見て回ることにした。
近くの家から順番に確認していったが、やはり状態は良くない。
屋根が抜けて雨ざらしになった家、床が腐っている家、蔦に覆われて中へ入ることすらできない家。
十軒ほど見たところで、フィアが一軒の前で足を止めた。
「ここ、まだ使えそうじゃない?」
村の端に建つ小さな家だった。外壁にはひびが入り、窓も割れている。それでも屋根の大部分は残っていて、扉も形だけは保っている。
中へ入ると埃っぽい匂いがしたが、床はまだ抜けていなかった。
古い机と椅子。
壁際には壊れた棚。
奥には小さな暖炉まで残っている。
「掃除して、屋根を直せば雨風くらいは防げそうだな」
「泊まりたいの?」
「いや。依頼の確認」
「本当に?」
「……ちょっとだけ考えた」
フィアが笑った。俺もつられて笑いながら、部屋の中をもう一度見回す。
王都の屋敷とは比べるまでもない。使用人の部屋より狭いかもしれないし、家具らしい家具もほとんど残っていない。
それでも妙な感じがした。
誰にも追い出されない場所だった。
もちろん、ここに住んでいいと言われたわけじゃない。ただの廃村だ。
依頼が終われば開拓町へ戻る。それだけのはずなのに。
「……もったいないな」
「何が?」
「この村」
フィアが少し意外そうな顔をした。
俺は家の外へ出て、村を見渡す。崩れた家。荒れた畑。汚れた井戸。誰も使わなくなった道。
確かにボロボロだ。
でも、井戸にはまだ水がある。
全部の家が崩れているわけでもない。
畑だって、土そのものが消えたわけじゃない。
「全部駄目になったわけじゃないんだよな」
「まあ……直せば使えるものはありそうだけど」
「なのに、誰もいらないから捨てられた」
「村なんて、そんなものじゃない? 住む人がいなくなれば終わりだよ」
捨てられた。その言葉が妙に引っかかった。ほんの数日前まで、俺も同じだったからかもしれない。
「レオン?」
「いや、なんでもない」
もう戻った方がいい時間だ。俺たちはフェルンを出るため、来た道へ向かって歩き始めた。
村の入口まで来たところで、一度だけ振り返る。
夕暮れの中に、崩れかけた家々が並んでいる。
誰もいらない場所。
誰も使わない場所。
だから、捨てられた場所。
俺はしばらくその光景を見つめてから、フィアの後を追った。なぜか、この村のことが頭から離れなかった。




