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第5話 フィア

「……何やってんだ、あいつ」


森の奥から聞こえた声に、俺は街道を外れて木々の間へ入った。

さっき少女には周りを見ろと言われたばかりだ。

だから今度は勢いだけで走らず、短剣へ手を掛けながら慎重に進む。

枝の折れる音と、何か重いものが地面を蹴る音が近づいてきた。


やがて木々の隙間から銀色の髪が見えた。

「そっち行った!」

少女の声と同時に、一頭の獣が飛び出してくる。


灰色の毛並みをした狼だった。

だが普通の狼より二回りは大きく、口元から紫色の唾液を垂らしている。さらにその後ろから、もう一匹。


「二匹!?」

「さっきまで三匹だったよ! 一匹は倒した!」

「それ先に言え!」


少女は走りながら振り返り、弓を構えた。放たれた矢が先頭の狼の肩へ突き刺さる。

それでも勢いは止まらない。

灰牙狼。灰境周辺に棲む魔物で、噛まれると身体が痺れる毒を受ける。

毒蜘蛛ほど強い毒ではないらしいが、群れで狩りをするせいで厄介な相手だ。


「街道まで引っ張る!」

「駄目! 開けた場所だと囲まれる!」


言われて周囲を見る。木々の間は狭く、二匹が同時に飛びかかるには邪魔になる。


「じゃあ、一匹ずつやる!」


俺は太い木の横へ移動した。灰牙狼がこちらへ向きを変え、牙を剥いて一直線に飛び込んでくる。


怖い。


さっきまでなら、その感覚を捨てようとしていた。

でも今は違う。怖いからこそ相手の牙を見る。距離を見る。逃げ道を見る。


直前まで待って身体を横へずらすと、狼は勢いを殺せず木の幹へ激突した。


「今!」


少女の矢が狼の首へ突き刺さる。

それでも倒れない。俺は地面へ転がった狼へ駆け寄り、短剣を首元へ突き立てた。


「ギャッ!」


暴れる身体から慌てて離れる。残り一匹。振り返った瞬間、その狼は少女へ飛びかかっていた。


「危ない!」


少女は身を捻って牙を避けたが、完全には間に合わなかった。

前脚が脇腹を掠め、そのまま地面へ倒れる。狼が再び飛びかかるのを見て、俺は考えるより先に走っていた。


「こっちだ!」


横から短剣を叩きつける。刃は浅くしか入らなかったが、狼の注意がこちらへ向いた。

紫色の唾液が牙から垂れている。毒蜘蛛に噛まれた時の感覚を思い出し、背中が冷たくなった。


怖い。だから、あれには噛まれたくない。


狼が低く身体を沈める。俺は短剣を構えたまま動かなかった。


一歩。まだ。もう一歩。狼が地面を蹴った瞬間、身体を横へ投げる。

牙が目の前を通り過ぎ、その直後に風を切る音がした。一本の矢が狼の眼へ深く突き刺さる。


「ギャウッ!」


狼が地面を転がる。俺はすぐに起き上がり、その首へ短剣を振り下ろした。二度目で、ようやく身体から力が抜けた。


しばらく動かないことを確認してから、大きく息を吐く。


「……怖かった」


口にすると、少し笑えてきた。恐怖を捨てなくても戦えた。むしろ怖かったからこそ、牙を最後まで見ていられたのかもしれない。


「だから言ったでしょ」


少女の声に振り返ると、木にもたれながら座り込んでいた。


「怖くても動ければ、それで十分……って、ちょっと待って」


立ち上がろうとした少女の身体が傾き、俺は慌てて駆け寄った。


「おい、大丈夫か?」

「大丈夫……だと思いたいんだけど」


少女は苦笑しながら右脚を指差す。革のブーツの上に小さな噛み傷があり、その周囲が紫色に変色していた。


「噛まれてるじゃないか」

「最初の一匹にね。浅かったから平気だと思ったんだけど……思ったより回るの早いなあ」

「解毒薬は?」

「使った」

「じゃあ何で」

「三匹いると思ってなかったから、一人分しか持ってきてない」


平然としているように見えるが、額には汗が浮かび、右脚も微かに震えている。

俺はその傷を見つめた。


毒。


こいつの身体には必要ないもの。


「ちょっと触っていいか?」

「え?」

「その傷。助けられるかもしれない」


少女は怪訝そうな顔をしたが、少し考えてから右脚をこちらへ伸ばした。


「変なことしたら蹴るよ」

「その脚、動くのか?」

「反対ので蹴る」

「元気じゃないか」


苦笑しながら傷の近くへ手を触れる。自分の毒を捨てた時と同じように意識を集中する。他人にも使えるのかは分からない。

けれど――淡い文字が浮かんだ。


【麻痺毒】

【廃棄可能】


「……出た」

「何が?」

「じっとしてて」

「ちょっと、不安になる言い方しないでよ」

「《廃棄》」


一瞬、手のひらを通して何かが抜けていくような感覚がした。少女が目を見開く。紫色に変色していた皮膚が、少しずつ元の色へ戻っていった。


「え……?」

「脚、どうだ?」


少女は恐る恐る足を動かし、そのまま立ち上がって何度か膝を曲げる。


「痺れが……ない」

「傷は残ってる。毒だけ消えたはずだ」

「消えたって……どうやって?」

「捨てた」

「……捨てた?」


腰の袋からスキル証明書を取り出して見せる。固有スキル《廃棄》。評価F。少女は証明書と俺の顔を交互に見た。


「これ、Fランクなの?」

「らしい」

「毒を消せるのに?」

「俺も昨日までゴミを捨てる能力だと思ってた」

「教会、見る目ないね」


あまりに真顔で言うので、思わず笑ってしまった。少女もつられるように少し笑う。


「それで?」

「何が?」

「助けてもらったし、今度はちゃんと名乗る」

少女は服についた土を払い、俺へ向き直った。

「フィア。フィア・エルノア」

「フィアか」

「半分エルフ。だから耳のこと聞こうとしてたなら、先に答えとく」

「聞いてないけど」

「みんな見るから」


そう言って、フィアは尖った耳を軽く指で弾いた。確かに少し気になってはいた。


「レオン、だったよね?」

「ああ。ただのレオンだ」

「ただの?」

「色々あってな」


フィアは一瞬だけこちらを見たが、それ以上は聞いてこなかった。


「まあいいや。レオンはどこまで行くの?」

「開拓町。そこから先はまだ決めてない」

「私も開拓町まで行くよ」


フィアは背中の弓を掛け直す。


「じゃあ、一緒に行こうか」

「いいのか?」

「命を助けてもらったし。それに――」


フィアは俺の左腕へ視線を落とした。


「一人にすると、また何かに噛まれそうだから」

「余計なお世話だ」

「今日だけで一回噛まれてる人が言っても説得力ないよ」

「……それはそうだけど」


フィアは楽しそうに笑いながら街道の方へ歩き出した。俺もその後を追う。


昨日まで、一人で灰境へ向かうつもりだった。それが今は、ほんの少し前まで名前すら知らなかった少女と並んで歩いている。


それにもう一つ。


自分だけじゃない。他人の身体にある毒まで、《廃棄》できた。


使えば使うほど、このスキルが分からなくなっていく。


「レオン、置いてくよー」

「今行く!」


考えるのは後でいい。

とりあえず今は、フィアと一緒に開拓町を目指そう。

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