第3話 猛毒を捨てる
翌朝。宿場町を出た俺は、一人で灰境へ向かう街道を歩いていた。
北西へ進むにつれ、昨日まで広がっていた畑が少しずつ姿を消していく。代わりに目立つようになったのは、伸び放題の草と深い森。それでも街道だけは辛うじて整備されていて、御者からもらった地図によれば、この道を半日ほど進めば最初の開拓町へ着くらしい。
「……こっちで合ってるな」
地図を畳み、腰の短剣へ手を触れる。
――街道を外れるなよ。最近、この辺りじゃ魔物が増えてる。
昨夜の忠告が頭に残っていた。貴族の子として剣術は習ってきたが、あくまで最低限だ。兄のカインのような《剣聖》でもなければ、実戦経験だってない。できることなら魔物とは出会わず、そのまま開拓町まで辿り着きたい。
そんなことを考えながら一時間ほど歩いた頃、街道は深い森の中へ入った。鳥の鳴き声。枝葉が風に擦れる音。そして、自分の足音。それ以外は静かだった。
――カサッ。
右手の茂みが揺れた。
「……風か?」
再び枝が揺れる。今度は明らかに何かがいる。
短剣を抜いた直後、茂みの中から黒い影が飛び出した。
「っ!」
身体を横へ投げる。直前まで立っていた場所へ、大きな蜘蛛が落ちてきた。
胴体だけでも大型犬ほどある。黒い身体には紫色の斑点が浮かび、八本の脚の先端は刃物のように尖っていた。その口元から伸びた二本の牙を見て、聞いたことのある魔物だと気づく。
「毒蜘蛛……!」
灰境周辺に生息する下級の魔物。単体なら熟練した冒険者の敵ではないが、牙から流し込まれる毒は別だ。
蜘蛛が地面を蹴る。俺は横へかわしながら短剣を振った。刃が前脚の一本を浅く切り裂いたが、止まらない。続けて振り下ろされた脚を受けた瞬間、腕に強い衝撃が走った。
「重っ……!」
訓練とは違う。相手はこちらを殺すために襲ってくる。たったそれだけのことが、想像していた以上に怖かった。
蜘蛛が再び飛び込んでくる。今度は真正面だ。
避けるだけじゃ駄目だ。
俺は一歩横へずれ、すれ違いざまに短剣を振り抜いた。
「ギィィッ!」
一本の脚が地面へ落ち、蜘蛛の身体が傾く。
今だ。
胴体へ短剣を突き立てようと踏み込んだ、その瞬間だった。蜘蛛が残った脚で地面を強く蹴り、不自然な角度から身体を捻る。
「え――」
避けるのが一瞬遅れた。鋭い牙が左腕へ突き刺さり、焼けるような痛みが走る。
「ぐっ……!」
反射的に蜘蛛を蹴り飛ばし、腕から牙を引き抜く。そのまま地面へ転がった蜘蛛へ駆け寄り、頭部へ短剣を突き立てた。一度では止まらない。二度、三度。ようやく八本の脚から力が抜けた。
「はぁ……はぁ……」
息を整えながら、その場へ座り込む。
勝った。初めて魔物を倒した。
けれど、喜んでいる余裕はなかった。
左腕が熱い。噛まれた場所を中心に皮膚が紫色へ変わり始め、指先の感覚も薄れていく。少し遅れて胸が激しく鼓動し始め、呼吸まで苦しくなってきた。
「……まずいな」
毒だ。
荷物をひっくり返してみるが、あるのは水袋、保存食、布、それに普通の傷薬だけ。解毒薬なんて持っていない。
開拓町まではまだ遠い。走るどころか、立ち上がるだけでも身体がふらつく。木の幹へ背を預けた時には、視界の端がぼやけ始めていた。
「こんなところで終わるのかよ……」
昨日、家を追い出されたばかりだ。これからどうするか考えようと思っていた。平民としてでも、生きていけばいいと思っていた。
なのに、たった一日で終わる。
笑えない。
左腕を見る。血が流れ、牙の傷が腫れている。その奥では、身体に入った毒が今も広がり続けている。
いらない。
こんなもの、俺の身体には必要ない。
そう思った瞬間、目の前に淡い文字が浮かび上がった。
【猛毒】
【廃棄可能】
「……は?」
目を擦るが、文字は消えない。
毒で幻覚でも見ているのかと思った。けれど、ぼやけている周囲とは違い、その文字だけは異様なほどはっきりと見える。
廃棄可能。
昨日授かった固有スキル――《廃棄》。
《不要なものを廃棄する》。
「まさか……これを?」
昨日、枯れ葉へ使っても何も起きなかった。だが、この毒はどうだ。
少なくとも俺にとって、これ以上ないほど不要なものだ。
迷っている時間はない。
「……《廃棄》」
そう念じた瞬間、身体の中から何かが抜け落ちた。
光ったわけでも、音がしたわけでもない。ただ、それまで全身を焼いていた熱が急速に引いていく。指先の痺れが薄れ、荒れていた呼吸も落ち着いていった。
「……え?」
左腕を見る。牙の傷は残っている。血も出ているし、触れば普通に痛い。
けれど、紫色だった皮膚だけが元の色へ戻っていた。
何度か深く息を吸う。苦しくない。
「本当に……捨てたのか?」
その時、先ほどとは別の文字が一瞬だけ浮かんだ。
【廃棄処理完了】
【転送先:■■■■】
「……転送先?」
読み終えるより早く、文字は消えた。もう一度呼び出そうとしてみるが、何も現れない。
転送。
その言葉が妙に引っかかった。
廃棄するんじゃないのか。どこかへ送った?
考えても答えは出ない。それより今は、この場所から離れる方が先だ。
俺は噛まれた左腕へ布を巻いた。毒はなくなったらしいが、傷そのものが治ったわけではない。この力を万能な治癒だと思ったら痛い目を見るだろう。
立ち上がって身体を確認する。足にも力が入る。胸の苦しさもない。
消えたのは、本当に毒だけだった。
「《不要なものを廃棄する》……か」
昨日まで、その説明をゴミを処分する程度の能力だと思っていた。神官もそう判断したし、俺自身も疑わなかった。
けれど、《廃棄》が捨てられるのは物だけじゃない。少なくとも、身体の中にある毒は捨てられる。
腰の袋からスキル証明書を取り出す。
固有スキル《廃棄》。評価F。
「……これがFランク?」
思わず苦笑した。
まだ一度使っただけだ。何を捨てられて、何を捨てられないのかも分からない。使うための条件も、限界も知らない。
それでも、昨日までとは一つだけ違う。
このスキルは役立たずじゃない。
少なくとも今日、俺の命を救った。
証明書を袋へ戻し、街道の先を見る。
「……行くか」
少しだけ軽くなった足取りで歩き出す。
けれど最後に見えた文字――【転送先:■■■■】だけは、いつまでも頭から離れなかった。




