第2話 銀貨十枚
翌朝。十五年間暮らした部屋には、もうほとんど何も残っていなかった。
着替えを二組、薄い毛布、水袋と保存食、護身用の短剣。そして父から渡された銀貨十枚。それが今の俺の全財産だった。
「……少ないな」
革袋の中で硬貨が乾いた音を立てる。贅沢をしなくても一ヶ月持つかどうか。灰境までの道中で宿を使えば、もっと早く減るだろう。
とはいえ、文句を言う気にはならなかった。家名まで取り上げられた俺に金を渡す義理なんて、本来はない。そう考えるあたり、俺は昔から諦めがいいのかもしれない。
荷物を背負い、最後に部屋を見回す。立派な机も、本棚も、柔らかなベッドも、今日からは俺のものではない。
寂しいかと聞かれれば――よく分からなかった。ここにいた十五年間で、この部屋を本当に「自分の居場所」だと思ったことがあっただろうか。
「行くか」
扉を閉める。これで終わりだ。
◇
屋敷の正門には、灰境手前の宿場町を通る商隊の馬車が待っていた。荷馬車が四台に、護衛らしい冒険者が六人。その中にヴァルディス家の紋章はひとつもない。
当然だ。今日から俺はレオン・ヴァルディスではない。ただのレオンだ。
「兄上!」
聞き慣れた声に振り返ると、リリアがこちらへ走ってきた。朝早く抜け出してきたのか、髪も少し乱れている。後ろでは侍女が息を切らしていた。
「リリア?」
「これを!」
差し出されたのは小さな布袋だった。
「食べ物と……少しだけお金が入っています」
「いや、金は――」
「持っていってください。私のお小遣いですから、お父様のお金ではありません」
珍しく強い口調だった。そう言われてしまうと返しづらい。
受け取って中を見ると、パンと干した果物、それに銅貨と銀貨が何枚か入っている。
「こんなにいいのか?」
「いいんです」
リリアは俯き、少し間を置いてから尋ねた。
「兄上は……戻ってきますよね?」
答えに詰まった。
戻ってくる。どこへ? この屋敷へ?
昨日、父からはっきりと言われた。お前はもうヴァルディス家の人間ではない、と。
「……元気になったら、顔くらい見せに来るよ」
嘘ではない。けれど、戻ってくるとは言えなかった。
リリアも分かっているのだろう。少し寂しそうに唇を噛んだ。
「約束ですよ」
「ああ」
頭を撫でると、ようやく少しだけ笑ってくれた。
父は来なかった。カインもいない。まあ、それでいい。別れの言葉なら昨日済ませた。
俺は商隊の御者に声を掛ける。
「レオンです。途中まで同行させてもらうことになっています」
「ああ、聞いてるよ。伯爵様の……」
男は途中で言葉を止め、少し気まずそうな顔をした。
「荷台でいいか?」
「十分です」
馬車へ乗り込むと、ほどなくして商隊は動き出した。石畳を抜け、正門をくぐる。
振り返ると、リリアがまだ手を振っていた。屋敷が見えなくなるまで、俺も手を振り返した。
◇
王都を離れてしばらくすると、景色は一気に田園地帯へ変わった。揺れる荷馬車の中で空を眺める。雲ひとつない青空だった。
俺が貴族ではなくなったからといって、世界が変わるわけでもないらしい。
「さて……これからどうするかな」
思わず独り言が漏れた。
一応、俺には前世の記憶がある。
真柴直人、二十九歳。日本という国で廃棄物処理施設に勤めていた。事故で死に、気がつけばこの世界に生まれ変わっていた。記憶を取り戻したのは五歳の頃だ。
転生者なら何か特別な力がある――そう期待した時期もあった。だが魔力量も剣の才能も人並みで、十五歳で判明した固有スキルも《廃棄》Fランクだった。
「前世でもゴミを処理して、今世でも廃棄か」
思わず苦笑する。神様がいるなら、ずいぶん趣味が悪い。
もっとも、前世の経験が何ひとつ役に立たないわけではない。水や衛生の管理、危険物の扱い、物を無駄にしない方法。その程度なら、この世界でも使えることはあるだろう。
問題は、これから向かう場所だった。
灰境グレイヴ。王国北西部に広がる荒れ果てた土地で、昔は人も暮らしていたらしいが、戦争と魔物の被害で多くの村が放棄された。今では冒険者や、何かしら事情を抱えた人間くらいしか近づかない。
普通なら人生をやり直す場所として選ぶような土地ではない。
けれど、今の俺にはそれくらいでちょうどいいのかもしれない。
兄のカインは跡取り。リリアにも将来が決められている。
俺だけが、この家で何者でもなかった。
だったら、最初からいない方がよかった――そんな考えが浮かび、俺は小さく首を振る。
「……今さらか」
追い出されたものは仕方がない。
今必要なのは、今日の飯と明日の寝床をどうするかだ。銀貨はある。身体も健康で、最低限の剣術だって教わっている。
死なないように働けばいい。それだけの話だ。
ふと、腰につけた小さな袋へ手を伸ばした。中には昨日教会でもらったスキル証明書が入っている。
固有スキル《廃棄》。評価F。説明――《不要なものを廃棄する》。
「一応、試してみるか」
荷台の隅に落ちていた枯れ葉を拾い、《廃棄》と念じてみる。
何も起こらない。
もう一度やってみても同じだった。
「……使い方くらい教えてくれてもいいだろ」
ため息をつき、枯れ葉を荷台の外へ放り捨てる。
結局、手で捨てた方が早かった。
◇
夕方、商隊は灰境手前の小さな宿場町へ到着した。
「俺たちは明日から南へ向かう。灰境へ行くなら、ここから北西だ。半日ほど歩けば最初の開拓町に着く」
御者の男が地図を指差しながら教えてくれる。
「分かりました。ありがとうございます」
「本当に一人で行くのか?」
「そのつもりです」
男は少し眉を寄せた。
「街道を外れるなよ。最近、この辺りじゃ魔物が増えてる」
「気をつけます」
今日は宿に泊まり、明日の朝から一人で灰境へ向かうことにした。
一泊と夕食で銅貨十二枚。大した額ではないはずなのに、自分の金が減っていくという事実が妙に重かった。
ベッドへ横になり、天井を見る。
明日から、本当に一人だ。
頼れる人間はいない。手元にあるのは銀貨十枚と少し。それに、使い方すら分からないFランクスキルだけ。
「まあ……何とかするしかないか」
目を閉じる。
――街道を外れるな。最近、この辺りじゃ魔物が増えてる。
御者の忠告の意味を、俺は翌日、身をもって知ることになる。




