第9話 九一七番に残された名簿
「この番号を調べたい」
王立記憶院を出たあと、私はギデオンへ一枚の紙を差し出した。
九一七番の保管庫から写してきた番号。
《B-31-044》
《B-31-051》
《B-31-063》
全部で十六件。
ギデオンは受け取っただけで、すぐには何も言わなかった。
「見覚えが?」
「形式にはある」
「何の番号?」
「記憶晶の保管番号に似ている」
やはり。
「似ている、というのは?」
「記憶院の番号は、保管区分、抽出年度、通し番号で構成される。ただし私は全区分の意味までは知らない」
「このBは?」
「分からない」
私は眉を上げた。
「機密監察局長官でも?」
「記憶院は監察局の下部組織ではない」
「それは少し安心しました」
「なぜ?」
「あなたが何でも知っていたら面白くないでしょう」
言ってから、自分でも妙なことを言ったと思った。
ギデオンが一瞬だけ目を丸くし、
「事件としてか?」
と尋ねた。
「私の人生としてです」
「……それは面白くないほうがいいと思う」
「同感です」
リオラなら笑ったかもしれない。
ギデオンは笑わなかった。
私の三つの記憶晶が空だったという話をしてから、ずっと顔が硬い。
「総裁権限で箱が開けられていたことは?」
「監察局から正式に照会する」
「私の許可は?」
「本人の記憶に関する捜査だから、先に聞こうと思っていた」
私は少し驚く。
「お願いします」
「分かった」
「ただし」
「何だ」
「オルレナ総裁が犯人だと決めつけないでください」
ギデオンがこちらを見る。
「権限印があっただけです。本人が実行したとは限らない」
「分かっている」
「ならいいです」
私は紙を指した。
「こっちは自分で調べます」
「どうやって?」
「九一七番にまだ書類が残っています」
「また行くのか」
声が低くなった。
私はじっと彼を見る。
ギデオンがすぐに気づく。
「……止めるつもりはない」
「今、かなり止めたそうでしたけど」
「止めたいのと、止めるのは違う」
その答えには少し感心した。
「では、止めたい理由を聞きます」
「昨日襲われた。そして今日、君の記憶晶が入れ替えられていたと判明した。九一七番の存在を知っている人間が他にいる可能性を否定できない」
筋は通っている。
「では護衛を増やしましょう」
「私も中へ入る」
「それは嫌です」
「理由は?」
「過去の私が、あの保管庫をあなたに隠していた可能性が高いから」
ギデオンの表情がわずかに動く。
「何か書いてあったのか」
「答えません」
「分かった」
本当に、それ以上聞かなかった。
私は少しだけ肩の力を抜いた。
「リオラと行きます」
「彼女なら異論はない」
「ずいぶん信用しているのね」
「君より慎重だ」
「それ、私を信用していないだけでは?」
「危険に対する判断については」
あまりに即答されて、腹が立つより先に笑ってしまった。
「そこは反論できないのが悔しい」
ギデオンの口元も少しだけ緩んだ。
それだけの会話。
けれど今は、こういう短い呼吸がありがたかった。
*
翌朝。
私はリオラと九一七番の保管庫へ戻った。
「で?」
地下へ続く階段を降りながら、リオラが言う。
「何をどこまで私に隠していたの?」
「言い方が悪い」
「秘密の鍵を三日持っていて、ようやく友人兼弁護士に見せた人に言われたくないわ」
「反省しています」
「軽い」
「かなり反省しています」
「よろしい」
リオラは満足そうに頷いた。
こうして叱ってくれる相手がいるのは助かる。
ギデオンと二人だけで調べていたら、私はたぶん意地になっていた。
九一七番の扉を開く。
木箱は昨日と同じ位置にあった。
誰かが触れた形跡は、少なくとも私には分からない。
「まず記録」
私は言った。
箱を開ける前に、扉の状態、箱の位置、封筒の場所を紙へ書く。
リオラが横から覗く。
「慎重になったわね」
「襲われましたから」
「学習が命懸けなのよ、あなた」
「昔から?」
「それには答えない」
最近、彼女も上手くなった。
過去の私を使って現在の私を誘導しない。
私は木箱から書類を取り出した。
昨日見た記憶晶照会申請書。
十六件の番号。
却下印。
その下の書類を一枚ずつ確認する。
領収書。
閲覧申請の控え。
慈善団体への寄付記録。
どれも一見すると無関係。
「これ」
リオラが一枚を抜いた。
王都市民救済会の記録だった。
《冬季生活支援金支給対象者》
名前。
住所。
支給額。
十数人が並んでいる。
「慈善活動の記録?」
「そう見える」
私は日付を見る。
三年前。
過去の私が王立記憶院の慈善晩餐会へ出席した直後。
「名前に印がある」
リオラが指す。
一覧のうち、六人の名前の横に小さな点。
鉛筆で付けたような印。
誰が付けた?
おそらく私だ。
その一人。
マリア・セルド。
次。
ハンナ・ヴェル。
三人目。
エーダ・ノール。
「知ってる?」
リオラに聞く。
「名前だけでは」
私は次の紙をめくる。
そこには同じ名前があった。
《白鐘広場騒乱 民間負傷者給付記録》
手が止まった。
リオラの表情も変わる。
「白鐘広場」
「ええ」
昨日まで、単なる古い事件だった言葉。
今は違う。
侵入者が求めた「白鐘の夜」。
失われた三つの記憶晶。
そして過去の私が残した書類。
「同じ人?」
私は二枚の紙を並べた。
マリア・セルド。
ハンナ・ヴェル。
エーダ・ノール。
一致する。
ほかの印付きの名前も確認する。
六人全員。
十二年前の白鐘広場で負傷し、三年前には王都の生活支援を受けていた。
「これは被害者名簿ね」
リオラが呟いた。
「少なくとも一部は」
私はすぐに訂正する。
「全員ではない」
白鐘広場では多数の死傷者が出た。
この六人だけのはずがない。
さらに紙をめくる。
今度は手書きの表。
過去の私の筆跡だった。
左に名前。
中央に住所。
右端に数字。
《M・セルド 北三区 B-31-044》
私は息を止めた。
最初の番号。
「照会した記憶晶とつながってる」
リオラが残りを確認する。
ハンナ・ヴェル――B-31-051。
エーダ・ノール――B-31-063。
十六件すべてに人名が対応していた。
「十六人」
私は呟く。
「白鐘広場の?」
「確認しましょう」
別の資料を探す。
箱の一番底から、古い新聞の切り抜きが出てきた。
十二年前の記事。
《白鐘広場における反乱鎮圧》
《市民側死者四十七名、負傷者百名以上》
文面は私が知っている公的説明と同じ。
武装した反乱者が先に攻撃。
王国軍が鎮圧。
その余白に、過去の私が書き込みをしていた。
《十六名すべて生存者》
私はその文字を見つめた。
「生存者」
「つまりこの番号は、生存者から抽出された記憶晶?」
リオラが言う。
「まだ分からない」
「でも可能性は高い」
「ええ」
私は十六人の一覧を見る。
過去の私は、なぜ白鐘広場の生存者を追っていた?
なぜ彼らに対応する記憶晶番号を知っていた?
そしてなぜ、その番号の照会を王立記憶院に拒否された?
「リオラ」
「何?」
「三年前の私から、何か頼まれていなかった?」
彼女の動きが止まった。
分かりやすかった。
「あるのね」
リオラは目を閉じた。
「ある」
「なぜ今まで言わなかったの?」
「あなたから聞かれるまで待っていた」
「どうして?」
「過去のあなたに頼まれたから」
私は黙った。
リオラは鞄を開く。
中から、小さな封筒を取り出した。
「これを預かってる」
「いつから?」
「三年前」
「開けた?」
「いいえ」
表には私の字。
《私が白鐘広場を自分から調べ始めたと確認できた場合のみ、渡すこと》
私は額を押さえた。
「過去の私は面倒くさい人ね」
「今さら?」
「そこは否定してください」
「弁護士は嘘をつけないの」
「便利な職業ね」
封を開く。
中には短い手紙。
《リオラがこれを渡したなら、少なくとも私は自分の残した跡を追えていると思う。》
《白鐘広場の生存者を調べた理由は、彼らの証言そのものではなく、証言が保存された方法に疑問を持ったから。》
私は読み進める。
《十六人には、事件後に王立記憶院で証言記憶の抽出を受けた記録がある。》
やはり。
《しかし、私が閲覧を申請した十六件はすべて拒否された。理由は機密指定。》
《民間人が公開の場で経験した事件の証言が、なぜ十二年後も機密なのか。》
そこで手紙は終わっていた。
答えはない。
また。
私は紙を机へ置いた。
リオラが聞く。
「何て?」
手紙を渡す。
彼女が読み終える。
「……なるほどね」
「何が?」
「三年前のあなたが私へ相談してきた理由が、ようやく分かった」
私は顔を上げた。
「あなたも知らなかったの?」
「全部は」
「何を頼まれた?」
「制度上、本人の記憶晶にどこまで閲覧権があるのか。第三者の証言記憶を裁判外で閲覧する方法があるか。その二つを調べてほしいと言われた」
「白鐘広場とは?」
「聞いていない」
「本当に?」
「本当に」
リオラは私の目を見た。
「私はあなたの友人だけど、依頼人が話さないことまで知る能力はない」
「それなら安心」
「少しは疑いなさいよ」
「疑っています」
「もっと嫌な感じに言わないで」
私は少し笑った。
でも、すぐに名簿へ視線を戻す。
十六人。
全員が白鐘広場の生存者。
全員が事件後に記憶を抽出されている。
その記憶は今も機密。
過去の私は、それを調べていた。
「現在の所在を確認できる?」
私は聞いた。
「十六人全員?」
「まず公的記録で」
「できる。ただし時間はかかる」
「お願いします」
リオラが名簿を書き写し始める。
私は箱の中をさらに確認した。
残りは二枚。
一枚は王立記憶院への照会却下通知。
もう一枚は、小さな紙片。
文章ではない。
三つの数字だけ。
《3 3 3》
「何これ」
リオラが見る。
「分からない」
三。
三。
三。
鐘が三度。
頭に一瞬それが浮かんだ。
でも私は紙を裏返した。
何もない。
「結びつけない」
自分へ言う。
「何を?」
「鐘のこと。三という数字だけで決めない」
「賢明ね」
紙片も記録袋へ入れる。
これで九一七番の中身はすべて確認した。
少なくとも、見えている範囲では。
*
保管棟を出ると、ギデオンはいなかった。
代わりに護衛が二人。
「公爵は?」
「監察局へ戻られました」
少しだけ拍子抜けする。
待っていると思った。
そして、そう思った自分にも気づく。
いつの間にか私は、彼がそこにいることを予想し始めている。
それは良いのか悪いのか。
まだ決めない。
馬車へ乗る前、護衛の一人が封書を差し出した。
「公爵からです」
開く。
短い。
《監察局の照会で確認事項が出た。戻り次第伝える。勝手に調べないと約束する。》
私は最後の一文を二度読んだ。
「……誰がそんな約束を求めたのよ」
でも。
少し笑ってしまった。
リオラが横から覗く。
「何?」
「何でもない」
封書を畳む。
今はそれより名簿だ。
過去の私が隠していたもの。
十六人の白鐘広場生存者。
十六件の記憶晶。
三つの空になった私の記憶。
襲撃者が探している「白鐘の夜」。
まだ一本の線にはならない。
でも、点は増えた。
馬車の中で、私は十六人の名前を書き写した紙を見る。
十二年前。
あの広場で何が起きたのか。
公式記録が正しいなら、生存者たちの記憶を十二年間も封じる理由は何なのか。
そして。
過去の私は、その記憶の何を見つけようとしていたのか。
答えへ近づいている感覚はあった。
同時に。
誰かが私より先に、その答えを消そうとしている感覚も。




