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第10話 私が殺害を命じた記憶

マルセル判事が殺された。


その知らせは、朝食の途中に届いた。


銀の盆に載せられた号外を、父が黙って私の前へ置く。


私は紅茶のカップを持ったまま、見出しを読んだ。


《記憶法院マルセル・フェイン判事、昨夜自邸にて死亡》


《王都衛兵隊、殺人事件として捜査》


その下に、小さな肖像画。


五十代半ばの男。


細い顔。


厳しそうな目。


「知ってる?」


父が聞いた。


私は肖像を見つめる。


何も浮かばない。


「知識として名前は」


マルセル判事。


記憶法院の改革派。


記憶譲渡や強制抽出について、何度か制度改正を主張した人物。


新聞に載る程度には有名だ。


でも。


「会った記憶はありません」


言ってから、自分で嫌になる。


その言い方は、今の私にはほとんど意味がない。


会った記憶がない。


七年間を売ったのだから。


母が静かに新聞を引き寄せる。


「殺された理由は?」


「まだ書いてない」


父が答える。


私は記事を読む。


昨夜十一時頃。


使用人が書斎で倒れているマルセル判事を発見。


胸部に刃物による傷。


金品の持ち去りなし。


書斎には荒らされた形跡。


一部の書類がなくなっている可能性。


そこまで読んだところで。


玄関のほうが騒がしくなった。


馬車。


複数。


足音。


父が顔を上げる。


「朝から何だ」


執事が入ってくる。


顔色が悪い。


「旦那様。王都衛兵隊と、記憶法院の執行官が」


嫌な予感がした。


私は新聞から手を離した。


「誰に用だって?」


執事は私を見た。


その一瞬で分かった。


「……私?」


「エステル様に」


母が立ち上がる。


「どういうことです」


「応接間へ」


父の声が低くなった。


「ここへ通せ」


「お父様」


「お前は座っていろ」


「私に用があるなら、私も立ちます」


足に力を入れて立つ。


指先だけが冷たかった。



執行官は三人。


衛兵が六人。


物々しい人数だった。


中央に立つ女性執行官が、革筒から文書を取り出す。


「エステル・ローヴェン様」


「はい」


「マルセル・フェイン判事殺害事件に関し、記憶法院より出頭命令が発せられています」


父が一歩前へ出た。


「容疑は?」


「殺害教唆および証拠隠滅」


母の息を呑む音。


私は逆に、頭が冷えた。


「根拠を見せてください」


執行官は私を見る。


「現在公開可能な範囲で?」


「私に出頭を命じる根拠なら、本人が確認する権利はあるでしょう」


「あります」


彼女は別の書類を出した。


「本日早朝、王立記憶院より記憶法院へ提出された記憶証拠です」


記憶。


その言葉で、背中が冷えた。


「誰の?」


執行官は短く答えた。


「あなたのものです」


部屋が静まり返った。


私は彼女の顔を見る。


「私の記憶?」


「正式な封緘情報では、そうなっています」


正式な封緘。


その言い方が引っかかった。


「中身は?」


「記憶法院が緊急公開を認めました」


父が怒鳴る。


「公開?」


「殺人事件の重大証拠です」


「本人の許可なく?」


「契約上、売却記憶の所有権は国にあります」


胸の奥が冷える。


第五条。


あの一文。


私のものだった記憶。


今は国の所有物。


そして国は、それを私の殺人容疑の証拠に使う。


「見せてください」


母が私の腕を掴んだ。


「エステル」


「見ます」


「今ここでなくても」


「私が何をしたことになっているのか、知らないまま連れていかれるほうが嫌」


執行官が確認する。


「閲覧しますか?」


「はい」


小型の閲覧具が運び込まれた。


記憶法院用の簡易装置。


銀環。


一つの記憶晶。


私はそれを見た。


銀縁。


正式な刻印。


抽出日時。


術者。


立会人。


保管番号。


外見だけなら。


私の記憶晶と同じだった。


「始めます」


私は椅子へ座った。


光が落ちる。



薄暗い部屋。


夜。


私は――過去の私は、机の前に座っている。


目の前に男がいる。


顔は見えない。


背中だけ。


『マルセル判事は、もう止まらない』


自分の声。


私の声だ。


胸が凍る。


男が尋ねる。


『どうします』


私は答える。


『殺して』


息が止まる。


『今夜中に』


男が振り返る。


顔は暗くて分からない。


私の手が机の上の封筒を押し出す。


『書類も持ち出して。白鐘に関するものは全部』


男が封筒を取る。


『承知しました』


そこで記憶は終わった。



現実へ戻った瞬間。


私は椅子の肘掛けを強く掴んでいた。


吐き気がした。


自分の声。


自分の手。


確かに私だった。


「……もう一度」


母が止める。


「エステル!」


「もう一度見ます」


執行官が迷う。


「負荷があります」


「構いません」


「私は構うわ!」


母の声。


私は彼女を見る。


顔が青ざめていた。


「大丈夫」


「大丈夫な顔ではないわ」


「でも見ないと」


私は執行官へ向き直る。


「お願いします」


二度目。


今度は内容ではなく、細部を見る。


部屋。


机。


窓。


燭台。


自分の服。


男。


封筒。


声。


何か。


何かおかしいところ。


でも分からない。


記憶は短い。


一分もない。


『マルセル判事は、もう止まらない』


『どうします』


『殺して』


自分の声。


聞けば聞くほど、自分に聞こえる。


「止めて」


光が消える。


私は目を閉じた。


怖い。


自分が殺人を命じる映像を見るのは、想像以上に怖かった。


覚えていないからではない。


むしろ。


覚えていないことが怖い。


もし。


本当に私が言ったのなら?


記憶を失った今の私は、それを否定する資格があるのか。


「エステル」


父の声。


私は顔を上げた。


「私が、これを言った証拠になる?」


執行官に聞く。


彼女は慎重に答えた。


「記憶法院では、正規封緘された本人記憶は強い証拠能力を持ちます」


「絶対?」


「いいえ」


その答えに、私は少しだけ息を戻した。


「記憶は主観です。誤認もあります。前後関係も確認する必要がある」


「でも、この記憶だけなら?」


「殺害教唆を疑うには十分です」


十分。


無罪を決めるには足りない。


でも逮捕するには足りる。


そういうことだ。


「記憶晶の保管記録を見せてください」


「現在、証拠保全中です」


「私の記憶晶は三つ、空の偽物と入れ替えられていました」


執行官の目が動いた。


知っている。


「報告は受けています」


「なら、この記憶も偽物かもしれない」


「その可能性も含めて調査します」


「可能性として扱うだけ?」


「現時点では」


悔しい。


でも執行官の立場も分かる。


目の前には正式な記憶晶がある。


そこに私が殺害を命じる記憶がある。


私自身ですら、完全には否定できない。


「リオラを呼んで」


私は父に言った。


「もう使いを出した」


「早い」


「親だからな」


その短いやり取りに、少しだけ救われる。


そのとき。


玄関のほうで大きな声がした。


「通せません」


「これは監察局案件だ」


ギデオン。


私は目を閉じた。


最悪のタイミングで、一番見られたくない人が来た。


数秒後。


彼が応接間へ入る。


私を見る。


次に閲覧具。


そして記憶晶。


全部を一瞬で理解したらしい。


「公開したのか」


声が冷たい。


執行官が答える。


「記憶法院の許可があります」


「本人への弁護人到着前に?」


「任意閲覧です」


ギデオンが私を見る。


「見たのか」


「はい」


彼の顔が歪む。


「何が映っていた」


私は迷った。


言いたくない。


でも隠す意味もない。


「私がマルセル判事を殺せと命じていました」


ギデオンの表情から、何かが消えた。


「あり得ない」


反射的だった。


私はその言葉に腹が立った。


「どうして?」


彼が私を見る。


「君がそんなことをするはずがない」


「それは証拠ではありません」


「エステル」


「私を愛していたから信じる、は今いちばん要らないです」


言いすぎた。


でも止まらなかった。


「あなたの知っている私は七年前から昨日までの私です。今の私は知らない。私自身だって知らない。それなのに『するはずがない』なんて」


ギデオンは黙った。


数秒。


そして。


「……その通りだ」


拳を握る。


「訂正する」


彼は記憶晶を見る。


「この記憶だけでは、君が殺害を命じたと確定できない」


「なぜ?」


「君の記憶晶には既に保管異常が確認されている」


今度は根拠。


「そして、正規晶の交換が可能な者がいる」


「それだけ?」


「もう一つ」


ギデオンが執行官を見る。


「マルセル判事が死亡した推定時刻は?」


「昨夜十時半から十一時半」


「エステルが襲撃を受けた夜の翌日だ」


「それが?」


私は聞く。


「君を襲った者は、白鐘に関する記憶を探していた」


彼は短く息を吐く。


「そしてマルセルは、記憶制度の改革派だった」


まだつながらない。


でも。


白鐘。


記憶。


マルセル。


誰かが急いでいる。


そんな印象だけはある。


「ギデオン」


私は言う。


「今、あなたは何を知ってる?」


彼の顔が硬くなる。


条件。


嘘をつかない。


省略しない。


答えられないなら、そう言う。


「マルセル判事が、数日前に監察局へ接触していた」


部屋の空気が変わった。


「何のために?」


「そこから先は、捜査上の秘匿に指定されている」


「私の事件と関係ある?」


ギデオンは数秒黙った。


「ある可能性が高い」


「それを、今まで私に言わなかった?」


「昨日までは君との直接的な関連が確認できなかった」


私はじっと彼を見る。


条件に違反したか。


まだ判断できない。


ギデオンが続ける。


「だが今は違う」


「何が?」


「マルセルが殺され、君の記憶が証拠として出た」


彼の声が低くなる。


「もう別件として扱えない」


そのとき。


執行官の一人が、新しい文書を持って入ってきた。


中央の女性執行官へ渡す。


彼女が読む。


顔が変わる。


「何です?」


私が聞く。


返事はすぐにはなかった。


嫌な間だった。


「エステル・ローヴェン様」


彼女が文書を開く。


「先ほどの出頭命令が変更されました」


「何に?」


「逮捕状です」


母が椅子を掴む。


父が立ち上がる。


ギデオンが一歩前へ出た。


「待て」


私は手を上げた。


全員が止まる。


「理由を」


執行官が読み上げる。


「殺害教唆。証拠隠滅。加えて、逃亡および証拠への干渉のおそれあり」


「逃亡?」


「公爵邸から離縁後、実家へ移動。秘密保管庫を使用。複数の記憶晶番号を独自に照会」


思わず笑いそうになった。


全部。


私が真実を調べようとした行動が、逃亡と証拠隠滅の材料にされている。


「法の外へ逃げるつもりはありません」


私は言った。


「エステル」


ギデオンが低く呼ぶ。


彼を見る。


何を言いたいか分かる。


止めたい。


守りたい。


どこかへ連れ出したい。


その顔だった。


「条件六」


私は言った。


彼が止まる。


「危険を説明して、選択肢を出す。決めるのは私」


ギデオンは目を閉じた。


そして。


「逮捕されれば、記憶法院の保護拘束下に置かれる可能性が高い」


「はい」


「記憶院側が証拠へアクセスできる危険がある」


「ほかは?」


「監察局の保護権限を使えば、一時的に身柄移送を求められる可能性はある」


「それは逃亡扱いにならない?」


「争いになる」


「なら選びません」


ギデオンが拳を握る。


「……分かった」


私は執行官へ向き直った。


「弁護人が到着するまで黙秘します」


「権利として認められます」


「逃げません」


「承知しました」


「それから」


私は机の上の記憶晶を見る。


自分が殺人を命じた記憶。


本物なら。


私は罪と向き合わなければならない。


偽物なら。


誰が。


どうやって。


なぜ私の声と姿を使ったのか。


そこを証明しなければならない。


「この記憶晶を、私の目の前で再封緘してください」


執行官が頷く。


立会人が呼ばれる。


銀の箱。


記憶晶が入る。


封が一つ。


二つ。


三つ。


私は全部見届けた。


自分の記憶だからではない。


もう、そう言い切れる状況ではないから。


だから記録する。


触れた人間。


時間。


封緘。


番号。


今の私にできるのは、それだけだ。


手首に拘束具がかけられる。


冷たい。


父が顔を背ける。


母は泣いている。


ギデオンだけが、私をまっすぐ見ていた。


私は彼に言う。


「追いかけてください」


「何を?」


「真実を」


少し考え、付け足す。


「私を助けるため、ではなく」


彼の目が揺れる。


「本当に私が命じたなら、それも含めて」


長い沈黙。


ギデオンは頷いた。


「分かった」


私は執行官に連れられて歩き出す。


玄関の外には、既に人が集まっていた。


新聞売りが叫んでいる。


「号外!」


「マルセル判事殺害!」


「元ヴァルデン公爵夫人の記憶が決定的証拠!」


もう公開されている。


私が殺害を命じた記憶。


それを見た人々にとって。


私はたぶん、もう犯人だった。


馬車へ乗る直前。


遠くで鐘が鳴った。


一度。


二度。


三度。


私は足を止めなかった。


今度は数えた。


三度で終わらない。


四度目が鳴る。


五度目も。


記憶は、切り取る場所で意味が変わる。


その考えが、なぜか突然浮かんだ。


私は振り返った。


玄関前にギデオンがいる。


その隣で、リオラを乗せた馬車が到着する。


第一部はここで終わるのだとでも告げるように。


私の失った七年は。


今度は、私を殺人犯にしようとしていた。

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